礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

天皇の命令には従うが不正な命令には従わない

2018-01-10 03:46:41 | コラムと名言

◎天皇の命令には従うが不正な命令には従わない

 蜷川新著『天皇』(光文社、一九五二)から、「私の歩んだ道」を紹介している。本日は、その二回目。

   二 高等学校と大学時代の私
 私は、自分でかつてに、自分の方向をきめて進んだ。私は、はじめは、海軍に身を投じて、海国日本のために一生をささげようと考えた。しかし、一度、兵学校の体格試験を受けたところが、「虫歯が一本多い。」というので、はじめからはねられた。私は、そこで、海軍を見かぎつた。そうして私は、東京大学に学ぶことに方針をかえた。
 私は、明治二十二年〔一八八九〕に、第一高等学校に入学した。私は仏文科にはいり、将来は外交官となることを決心した。私は、英雄の伝を読みふけつた。友とともに暴飲もやつた。先生にもたびたび反抗した。教場で、ときどき、神道を説く文学士の先生を、公然、教場でからかつたりした。王朝文学を講ずる文学士の先生にむかつて、和文の気力のないことを、公然、非難したりした。先生からは、「君はだめだ。」といわれ、取りあわれないこともあつた。それは有名な落合直文【おちあいなおぶみ】先生であつた。私は、フランス語は大いに学んだ。フランス大使館の通訳官とも交わつた。私は学校の長い休暇には、各地を旅行した。その旅行の仲間で、後年には日本のために大いにつくした友人が数名いた。内閣にはいつた渡辺千冬【わたなべちふゆ】、世界的の学者となつた農博、鈴木梅太郎、京城大学の総長だの、李王職長官だのになつた法博、篠田治策【しのだじさく】だのが、それである。私は、高等学校の例の祝祭日の日に、興に乗じて、朝から酒を飲みすごし、夕方の四時には、まつたく体が動けなくなつて、あの広い弥生ケ丘【やよいがおか】の運動場の上にたおれ、友にたすけられて寄宿寮に運びこまれたこともあつた。
 私の行為について、母はさだめし、その心のなかで憂えていたことであろう。しかし、なにごとも言わずに、母は私のなすにまかしていた。母の恩は、後年になつてから、しみじみと私の胸をうち、まことに相すまなかつたという悔悟を、生ぜしめてやまないのである。私は、生来、自由を愛した。自由に学生時代を送つたのであつた。詩吟が大好きであつた。
   三 一年志願兵として入隊
 私は、大学を卒業したならば、ただちに外交官になつて、世界じゆうを飛びまわろと考えた。そこで、高等学校を卒業するや、軍隊にはいり、軍事をいちおう心得て、後年の外交官としての活躍のための参考にしようという決心をもつた。私の友は、私を、もの好きだと笑つた。私は、ひとりで身の方向を決めた。私は一年志願兵として、近衛第四連隊〔近衛歩兵第四連隊〕に入営した。明治二十九年〔一八九六〕十二月のことであつた。それは、日清戦争直後のことであつた。
 軍隊では、傲慢で低級な下士官や上等兵に、そうとうににくまれた。あるときは、下志津原【しもしずはら】の遠いバラック〔廠舎〕に連れてゆかれ、闇打ちをくらう直前までいつたこともあつた。だが、私の正論に、彼らは圧せられて、たくみに私はその場を切りぬけた。私は幸いにして難をまぬがれ、自分のバラックに帰ることができた。連隊長〔一戸兵衛〕や大隊長らには、私は大きな信頼を受けていた。
 あるとき、黒木〔為楨〕近衛師団長の検閲がおこなわれた。私はひとり、青山練兵場に引きだされた。師団長はじめ参謀らがならんでいた。一人の大尉は私の前に立ち、「服従の定則をのべてみよ。」と命じた。私は、形のとおり静かに答えた。ついで、その大尉は、「どんな命令にも服従するか。」と、重ねてたずねた。私は、「天皇の命は正しいと信ずる。それゆえに、服従する。不正の命令には、私は断じて服従しない。」と、厳然として答えた。その大尉は私を叱つて、「それは、服従の定則に反するではないか。」と、責めるがごとくに、私に問うた。私は、「それは、正しい見解でない。」と、頑として強弁した。それで私にたいする試験はおわつたが、その夕刻にその大尉は、「君! じつはみんなで協議したうえ、君にあの質問を発して、おもしろい場面を展回し、師団長に披露しようという芝居であつたのだ。」といつた。
 私は、連隊でよい経験をつんだ。そうして、私の体格は、ひじように堅実のものとなつた。私は、一年と三ヵ月を隊中にくらした。そうして少尉になつて、ふたたび自由の学生となつて、大学に学ぶ身となつた。母はだいぶに老いの身となつていたが、大いによろこばれた。【以下、次回】

 蜷川が入営したころの近衛歩兵第四連隊は、千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にあった。「下志津原」というのは、同郡志津村(現・佐倉市)の地名である。

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