礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石原莞爾、待命の際の挨拶(1941年3月)

2018-01-23 02:15:34 | コラムと名言

◎石原莞爾、待命の際の挨拶(1941年3月)

 榊山潤著『石原莞爾』(湊書房、一九五二)と、同著『小説 石原莞爾』(元々社、一九五四)とが、基本的に同じ本であることは、昨日、指摘した。そして、両書の巻末には、「後記と補遺」という文章が付されている。もちろん、同文である。そして、その「後記と補遺」の最後に、石原莞爾の「挨拶文」が引用されている。これは、石原が、一九四一年(昭和一六)三月に、待命となった際、一部に配ったものとされる。
 この挨拶文の背景をよく理解できていない私にとっては、意味が通じがたいところも多いが、これがひとつの「史料」であることは間違いないだろう。
 本日は、以下、その挨拶文を紹介してみよう。

拝 啓
今回待命被仰付〈オオセツケラレ〉近く現役を去るに当りまして、永年の御好誼に対し厚く御礼申上げます。
私は既に昭和六年〔一九三一〕末に身を引くべきだと考へました。二・二六事件〔一九三六〕には更に責任の重大を痛感、是非引退すべく決心したのでしたが遂に願ひが達せられませんでした。
今次事変〔支那事変〕勃発の時作戦部長〔参謀本部第一部長〕の重職にあつた私は申上げ様もない責任を感じて居ります。「事変はとうとう君の予言の如くなつた。」とて私の先見でもある如く申す人も少くありません。さういはれて私は益々苦しむ外ありません。当時部隊すら統制する徳と力に欠けて居た我身を省みて真に身の措き所に苦しむ次第であります。今度宿望〈シュクボウ〉叶'ひまして第一線を退かしていただくこととなりましたに就ては衷心感謝の念に満たされて居り心から御礼を申上げる次第であります。
今日我陸軍は国家同様甚しい困難の渦中に立つて居り、全軍心を一〈イツ〉にして此危局を突破することが国難を救ふ根本であることを確信致します。此際率直に所見を開陳して御参考に供したいと存じます。
一、軍人精神の反省
明治以来の西洋中毒は今日殆ど頂点に達して居り、自ら日本主義者を標榜する人々すら功利主義的言動を平気で行つて居ります。軍人も自然其の影響下にあります。クリステイの「奉天三十年」を見ますと日清戦争に比し日露戦争の時は軍紀が紊れて〈ミダレテ〉居ることが明かです。日本軍が今次事変に若し北清事変〔一九〇〇〕当時の道義を守つたならば蒋介石はとつくに日本の戦力に屈伏して居たであらうといはれます。
時局の波に乗じて「常々人に接するには温和を第一とし諸人の愛敬〈アイギョウ〉を得むと心掛けよ」との聖諭〔陸海軍軍人に賜はりたる勅諭〕をわすれ、「豺狼〈サイロウ〉などの如く」思はるる戦友の逐次増加しつつあるは残念ながら否定出来ません。又軍人の「信義」や「誠心」をうたがふ世間の評判も断じて軽視を許しませぬ。軍人の責務いよいよ重大なるにつれ益々一心に勅諭の御示しに恭順ならんことを念じて全軍の団結を鞏固〈キョウコ〉にせねばなりません。
「戦陣訓」は誠に時宜に適した教訓ですが、其の取扱若し万一適正を欠くが如きことあつたならば勅諭に対し奉る信仰の統一を妨ぐる恐れ絶無とは申されませぬ。
二、戦闘力の増進
メモンハンに於ける戦友の力戦〔一九三九〕を思ふ毎〈ゴト〉に深刻徹底せる軍事学の研究と適切なる訓練の切要を痛感致します。然るに独逸〈ドイツ〉や蘇連〈ソレン〉の軍事研究に比し残念ながら日本には見るべき研究発表がありません。訓練第一主義は流行語ですが軍隊の実情は私共青年将校時代だけの熱もありませうか。中央部も各隊も深き反省を必要と信ぜざるを得ません。【以下、次回】

 若干、注釈する。最初のほうに「昭和六年」とあるが、これは、いわゆる満洲事変があった年である。「一、軍人精神の反省」の初めのほうに、「北清事変」という言葉があるが、これは義和団事件とも呼ばれる。「一、軍人精神の反省」の真ん中あたりに、「豺狼」という言葉があるが、残酷な人々の喩えである(豺はやまいぬ、狼はおおかみ)。

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