◎ハーグ密使事件と日韓併合条約
昨日の続きである。『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、高石真五郎の「平和会議の舞台裏」という記事を紹介している。本日は、その後半。
日韓併合のお先棒担ぐ
一部始終を全権本部へ知らせると、みんなの喜びは大へんなものだった。それから政府との通信がすぐ始まったらしく迫っかけて私に信任状を見てくれ、できれば写真にとってもらいたいという依頼があった。しかし彼らは信任状を持っていることは間違いないが、使命達成までは局外者に絶対見せてはならないという皇帝の厳命だから、それはできないという返事だった。いずれにしても、全権本部の人たちにはいっさい会わないというのだから、この事件発見以来、私の役割は大きかった――私以外には彼らと接触をつづけるすべがなかったから。そしていっさいの報告は日本政府を通じて伊藤〔博文〕統監に連絡され、その後の命令は統監名で来たらしく、信任状写真撮影の最初の依頼も、その後本人たちが日本の新聞記者に対して持っていると言明した以上写真はもういらないといったような命令までいちいち統監の名を出して私に連絡があった。
こうして、皇帝が密使を送ったということは、いかに皇帝が否認しても、証拠十分というほどの事実があがった。当時新聞に出た京城通信にはこんなことが書いてあった「……一向朕の関知せざる所なりと述べたるに、統監は今日全世界一人として此派遣員が韓帝より出でたるにあらずと信ずるものなしとし……」これを見ても、伊藤統監がこの事件を取り上げて皇帝の不信(第一次〔ママ〕日韓協約違反)を責めるのに少しも仮借しなかったことがわかる。
とうとう皇帝は譲位しなくてはならなくなり、新帝を迎えると同時に、第一次日韓協約〔正しくは第二次日韓協約、一九〇五〕の代りに新協約〔第三次日韓協約、一九〇七〕が結ばれた。この協約によって韓国の外交内政の実権は全く伊藤統監の手中に帰し事実上属国の形になったのだが、それから二年〔ママ〕を経て、日韓合併の条約〔一九一〇〕が成立した。露骨にいえば、朝鮮併呑の大事業が古くは豊太閤〈ホウタイコウ〉、近くは西郷隆盛の野心通りに、首尾よく実現したのだ。これこそ日本歴史の上では画期的な大事件といわなければならない。しかもこの大完成の経路を見ると、へーグに密使の現われたのが明治四十年〔一九〇七〕六月十三、四日ごろ、日韓新協約〔第三次日韓協約〕の署名、調印が行われたのが同年七月十四日付であるから、その間一ヵ月と十日ばかりしかたっていない。およそ国際間の革命的大事件が発端から仕上げまでに、これだけの短期間に完成した例は恐らく史上稀有〈ケウ〉のことだろう。
当時朝鮮国内に不満が氾濫して、いろいろな騒擾事件も起ったが、日本の武力はこれを圧伏すべく余りにも強かった。日本国民に対する韓国民の反感と憎悪が今なお消え去らない一番大きな原因はここに端を発している。春秋の筆法をもってすれば、私は今の観念からいうと侵略主義の顕現であるこの仕事のお先棒をかついだ点で、侵略主義者としての罪を負わせられるだろう。
余談だが、この密使事件に関する一挿話を話せば、密使派遣の背後にはニューヨーク・へラルド新聞社があったという噂だ。当時日本とアメリカは移民問題でひどく意見対立の関係にあって、アメリカでは排日運動がはげしく行われ、ひいて日本における対米感情も極度に悪かった。都筑〔馨六〕全権が「日米問題に関して日本は本会議の審議を求むべしとの風説あるも、事実無根にして、本問題に関し本国政府より何らの訓令を受けおらざる旨宣明」したことが、私の電報で当時の大阪毎日に出ているに徴しても、移民問題のために日米の関係が険悪だったことがわかる。こうした情勢だったから、その頃の噂では密使の手引はアメリカ人ハーバートという男だとか、またいま書いたような風説が外国記者間に流れ飛んでいた。私はこの噂をよく確めたかどうか、いまは記憶のたどりようもないが、風説のまま電報した。すると、京城にいたへラルドの特派員が大阪毎日に出た電報をパリ版へラルドへ打ち返えしてきた。へラルド社はカンカンになって、私に会見を求めてきてそのインターヴューが新聞にのった。私のインタヴューはあっさりしたもので、もちろん一言だって詫〈ワビ〉らしいことはいわない。新聞記者が風説を風説として報道するのはどこでもやっていることでしょうといった工合で、私もその程度の心臓はその頃すでに持っていたらしい。しかしへラルドはそれと同時に、社説欄でかかる荒唐無稽な風説を取り上げるとは余りにもばかばかしい話だと嘲笑的な一文を掲げて、この旨を大阪毎日の紙上にも出してもらいたいと付加えた。
侵略は罪悪視されず
とにかく、韓国密使のへーグ出現、それから来た日韓の新関係は、国際事件としてかなり各方面から注目の的となったが、ここでちょっと冒頭に書いた当時の国際正義観というか道義観というか、そういったようなものについて当時の世界を眺めてみよう。
今日こそ平和が世界を風靡しているが、わずか五、六十年前でも、口実さえあれば一国が他国の傾土を取ることは国際的罪悪とは見なされなかった。たとえば、この事件で、日本が力を背景に新しい協約を強要して、事実上、韓国を属国にしてしまったことに、どこからも横槍ははいってこなかった。自分たちの国が長いあいだやってきたことなのだから別に変ったこととも感じないんだろうし、これを国際不正義というほど国際道義はまだ確立されていなかった(現在でもほんとうには確立していない、うわべだけのことだ)。韓国皇帝譲位の報が伝わったときの日本の新聞に出た外国新聞の論評のうちで、一番にくまれ口をききそうな関係にあったロシアのノヴォエ・ウレミヤにはこう書いてあった(原文のまま)。
……近き将来において韓国が日本の一部となるは避くベからざる天の数なり。吾人はこの天の数に対して何事をもなし能はず
ドイツの新聞もほとんど同一の筆法で「日韓協約(注第一次〔ママ〕)によって、韓国の実権は既に日本の掌中に帰せり。されば吾人は今回の譲位一件によりて、韓国が故らに〈コトサラニ〉何物をも損失せりとは思惟〈シイ〉する能はず」という結論だったと、当時の日本の新聞は報じている。英国は大手柄だったという気持だった(英国にも不利なロシアの進出を防ぐ先手として)。
私のこの話ははじめに書いたように、古くさい上に、今の若い人には一番いやがられる侵略主義の手柄話みたいだが、これも厳粛な歴史の事実だから仕方がない。それと同時にいたらずに平和説に酔っている人々は、いま盛んに平和を唱えている国々が、どうして現在の大きな領土を持つに至ったかを検討して見る必要があるだろう。
つまらないことのようだが一言つけ加えることは、へーグの平和会議に日本の新聞から特派員として行ったのは私一人だけだった。今日、どんなことでも一紙の独占を許すなんて思いもよらないことだが、この会議にはどこからも人を出さず、平然として大阪毎日の独占を見ていた。ゆったりとした時代だった。
(当時大阪毎日特派員、元毎日新聞社長、現毎日新聞顧問)
ハーグ密使事件を扱った映画に『帰らざる密使』(一九八四)がある。申相玉監督が北朝鮮で作った映画である。私は以前、ビデオで、この映画を鑑賞したことがあるが、なかなかの傑作であった。映画の冒頭は、この事件について調べるために、オランダのハーグにやってきた北朝鮮の若者が、客死した李儁の墓に詣でるシーンだったと記憶する。