◎ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎
昨年末、『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、川辺真蔵の「〝光文〟事件の真相」という記事を紹介した。『サンデー毎日臨時増刊』の同号は、「毎日新聞七十五周年記念特集」と銘うたれており、興味深い記事が、多数、掲載されている。
本日は、そこから、ハーグ密使事件(一九〇七)に関する記事を紹介してみたい。
記事を紹介する前に、ハーグ密使事件というのは、どういう事件であったのかを、まず、おさえておこう。以下は、ウィキペディア「ハーグ密使事件」の冒頭にある記述である。
ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907(明治40)に大韓帝国皇高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約によって大日本帝国に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも具体的な成果は得られなかった事件。事件後、高宗は統監府統監伊藤博文によって追及され退位した。
ハーグというのは、オランダの地名Den Haagの日本語表記で、「ヘーグ」と表記される場合もあった。漢字表記は海牙である。
さて、当該の記事は、「平和会議の舞台裏」と題するもので、高石真五郎が執筆している。高石は、当時、大阪毎日新聞記者で、この事件をスクープしたことで知られている。
平 和 会 議 の 舞 台 裏 高石 真五郎
戦争審議の平和会議
話は今から四十九年前のことで、いわば五十年前のかびのはえた昔語りだ。私は当時二十九才でロンドンにいたのだが、その六年前の明治三十四年〔一九〇一〕慶応を出て大阪毎日新聞に入社し、翌年準留学生として英国に送られ、そのときまでだいたい学生生活みたいな日を送っていたのだから、新聞記者としては、ずぶの駆け出しだった。
ところが、明治四十年〔一九〇七〕六月オランダのへーグで開かれた第二回万国平和会議へ取材に行けという命令が突然本社から来た。ここで、いまでいえば、とてつもない大きなスクープを私がやったことになった。その和をするのだが、話はいま時タイムリーのものではない。古傷をいじくるようなもので、相手国民に憤懣を新たにさせるばかりか、若い読者などには侵略主義、帝国主義日本の歴史の一挿話として、慊悪〔ママ〕の心で迎えられるようなものだ。
けれども、五十年前の世界はまだまだ帝国主義旺盛の世界で、いまでこそ平和の守本尊〈マモリホンゾン〉のようなことをいっているアメリカでさえ真偽不明の口実で、フィリピンをスペインから召しあげてしまった時代だ。立ちおくれた日本が領土拡張に乗りだしたのは当然のことで、各国はもちろん他国の領土拡張を喜ばず、ときには妨害もしたが、理論的には領土拡張を非難するところまで国際道義はまだ進んでいなかった。だからこの話は当時では、ただ新聞のスクープというだけでなく、日本の領土拡張のきっかけを作った新聞記者の国家的大手柄として大いに騒がれたものだった。そして後にも書くが、外国でも「うまくやった」という批評をした新聞さえあったくらいだ。
大へん長い前口上だったが、これから本題にはいる。
第二回万国平和会議は、文字通り二回目の会議だったが、当時、平和を主題とした世界会議というものがほかになかったから、その重要性は各国から大きく評価され、派遣された全権や代表もそれぞれの国で、きわめて高い地位にあるものと、国際法の権威ばかりだった。日本からは都筑馨六〈ツヅキ・ケイロク〉が全権主席、専門委員には後年陸、海軍にその人ありと知られた海軍少将(当時)島村速雄、陸軍少将秋山好古〈アキヤマ・ヨシフル〉、それに国際法の梅威山川端夫〈ヤマカワ・タダオ〉(健在)と、外務省顧問のデニソンがいた。これだけの顔ぶれを見ても、この会議に対して日本政府が他国にひけをとらない陣容をととのえた苦心がわかる。だが、会議の任務は「平和会議」というのはおかしいので戦争に関する事柄を審議するのが大部分の仕事だった。詳しくいうと、陸戦法規とか海戦法規の改廃、新設を議したので、戦争を建前として、どんなふうに戦争をするかという国際規約を作ることだった。近頃のように、戦争を回避し、平和の国際関係を作りあげようといった政治的の会議ではなかったが。それだけに戦争が認められていた当時では、実質的には各国にとってきわめて重要な会議だった。
韓国密使を追って
こうした世界会議へ、当時日本から強い圧力を加えられていた朝鮮から密使が来て、朝鮮解放を訴願しようとしたのがことの起りだ。当時、朝鮮は第一次〔ママ〕日韓協約で日本の制約下にあり、伊藤博文が統監として政府および王室のお目付役をしていた。だから朝鮮から使者を出して万国平和会議に日本の「罪状」を訴えるということは、日本からいえば大の不信行為だった。日韓協約によると、皇帝は統監の許しなしに対外交渉などできないのだから、皇帝は最後まで、使者のことについては「朕は知らない」と頑張った。というわけで彼らは、密使ということになり、また彼らの行動も厳秘のうちに行われ、首尾よくヘーグへもぐりこんだ。ただしへーグへ乗りこんでからは、いっぱし全権気取りで動こうとした。
この使者たちがヘーグへもぐりこんだ途端に、私が全く偶然のことで彼らを発見したのだ。それから、日本の歴史に新ページを加える大事件が矢つぎ早におこった。
ある夕、私はいつものようにホテル・デザンデスのロビーでコーヒーを飲みながら、取材の網をはっていた。そこへ、顔見知りのパリ版ニューヨーク・へラルドの記者がはいってきて、私の肩をたたきながら「オイ、何ぞボヤボヤしているんだ、朝鮮から人が来ているじゃないか」と、いくらか嘲ける〈アザケル〉ような調子でいって、足早やに行ってしまった。私はこれはと一瞬びっくりした。すぐその足で、日本の全権本部へ行ってその話をすると、座にいた島村海軍少将(後の元帥)が「いや、わしは朝鮮から密使ぐらいはくると思っていた」さすがは名将、予感をもっていた。けれども、まだ雲をつかむような話でもあり、けっきょく私が密使の所在をつきとめるということに集議一決した。私はその席でいった。「ヘーグの人口は十三万ばかりだ、おまけに碁盤の目のような町並だ、一町一町歩いたって大したことはない」
翌朝、私は町端れから歩きだした。一時間ばかりウロウロしていると、とある木賃宿のような見すぼらしいホテルの窓から、見覚えのある算木(さんぎ)のついた韓国の旗〔大極旗〕が突きだしてあった。肩書のある名刺を出して面会を求めると、よろしいというわけ。室へ通るとそこには三人いた。もちろん銘々から名刺をもらった。面会時間は短かかった。談話の要領は、自分たちは皇帝の命によって、日本の罪状を万国平和会議に訴えるために来たのだ。皇帝からは信任状をもらって来ているというのだった。私はあなた方がヘーグに来ていることとその使命を大阪毎日に電報しても差支えないかと聞いたら、少しも差支えない、われわれは正義とともにあるのだと意気むしろ軒昂たるものがあった。このそき私はこれからあとのことは全権本部がやるべきだと思って、日本の官憲にも会うかと尋ねると、日本の役人にはいつさい会わないと強い口調で答えた。
三人の名前は李相卨(せつ)、李瑋鍾、李俊〔ママ〕。相卨が筆頭らしく、その後聞けばこの人は国事を憂えて南大門とかの鐘楼の鐘に自分の頭をぶつけて死のうとしたほどの愛国慵慨の士だったそうだ。李瑋鐘は口シア駐在の参事官で仏語にたんのうなハイカラ外交官、李俊は判事でかつて早稲田大学に在学し、日本語も相当話せた。私がこの三人の名前をローマ字電報で本社に打ったのだかから苦心したものだ。卨の字は読み方も知らなければ説明のしようもなく、似た字を説明してそれに朝鮮音を知らせたら、それが間違いなく新聞にでていた。【以下、次回】
三人の密使の名前だが、『サンデー毎日臨時増刊』の記事では、李相卨の「卨」という字の口の部分が、ムになっている。また、記事で李俊とあるのは、李儁が正しいようである。