礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

万巻の書を読み、かつ万里を行った小倉新平

2019-02-16 00:04:21 | コラムと名言

◎万巻の書を読み、かつ万里を行った小倉新平

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その五回目で、〔宮城県〕の項を紹介する。

〔宮 城 県〕
 仙台の小倉家には、六人兄弟の内五人の博士を出したといふ事で、天下に有名である。小倉新平〈オグラ・シンペイ〉博士は、その小倉家の出であり、六人兄弟の一人である。東京帝国大学言語学科の教授にして、京城帝国大学の教授を兼ね、朝鮮語・朝鮮方言の研究者として有名であり、「郷歌及吏読の研究」によつて思賜賞を授けられた事は人のあまねく知る所である。しかし、この名誉は決して無代価で得られたものではなかつた。むしろ、高きに過ぎる代価を払つて購はれた〈アガナワレタ〉ものである。日本が韓国を併合したのは明治四十三年〔一九一〇〕であるが、翌々年〔一九一二〕には、小倉博士の調査の手は既に済州島に延びて居た。当時は民心動揺、物情騒然、暴徒は各地に蜂起し、馬賊襲来の危険さへもあつた。交通は不便で、裸馬が唯一の交通機関であつた。小馬は物に驚き易い。馬から落ちて、手を折り、足を挫いた〈クジイタ〉人は数へ切れない程あつた。大雨一度至れば、至る所橋は流され、堤は切れた。二十五年の後、博士は往時を顧みて今まで命を全うし得たのは神明の加護に外ならないと述懐して居られる。古人は言つた、万巻の読まずんば、万里を行かんと。博士の如きは、万巻の書を読み、かつ万里を行つた人である。読書人にて旅行家、兼ぬるに難きこの二つを一身に兼ね備へたのは博士である。博士には、先に対馬方言の研究あり、後に「仙台方言音韻考」の著がある。
 戯曲家としての真山青果氏を知る人は多いが、医者としての青果氏、方言研究者としての青果氏を知る人は少なからう。仙台の医学専門学校を中途退学した氏は、仙台の近在の南小泉村に代診として数年間滞在した事があつた。その間の見聞を小説としてまとめたのが「南小泉村」である。これは仙台方言を使つて居るといふ点で、我々に親しいものである。その著者が三十年の後「仙台方言考」を著した。これは短日月で成る性質のものではない。事実、大正十年〔一九二一〕頃から志して漸く成つたものであると言ふ。
 菊澤季生【スヱヲ】氏はローマ字研究者として名あり、その方面の著書が多いが、方言についても、「宮城県方言の文法」(国語研究所載)その他数篇の論文が雑誌に発表されて居る。応用化学科を出て後〈ノチ〉、国語学科に学んだといふ変つた経歴の持主である。雑誌「国語研究」を毎月発行し、これには方言記事が多い。
 土井八枝さんについては、高知の部に譲る。
 石の巻市には、弁天丸孝氏といふ印象的な苗字の人があり、その著「石の巻弁」は装幀の凝つた点に於て、類書中の第一等である。同君は、羊羹のレツテル、酒瓶のレツテル何でもござれの蒐集家であるが、その蒐集趣味が無形の方言にまで及んだのは結構である。楽しんで集めるといふ態度は学んでよい。【以下、次回】

「郷歌及吏読の研究」は、原文では「郷歌と吏読の研究」となっていたが、国立国会図書館のデータに拠って訂正しておいた。「きょうかおよびりとのけんきゅう」と読むらしい。

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