◎『ことがら』の出所は明白であった(青木茂雄)
だいぶ前のことになるが、二〇一二年八月一七日のブログで、「雑誌『ことがら』の終刊と小阪修平」というコラムを書いたことがある。その最初の部分は、次の通り。
一九八〇年代に発行されていた雑誌『ことがら』については、先月末のコラム〔二〇一二年七月三〇日「幻の雑誌『ことがら』と青木茂雄氏の映画評論」〕で触れた。この雑誌は、一九八六年一一月発行の第8号を以て終刊した。その第8号(終刊号)の末尾には、「『ことがら』終刊にあたって」というコーナーがあり、そこには、青木茂雄・長野政利・小阪修平の三氏が寄稿している。
そこで、最も「思い入れ」の強い、最も長い文章を書いているのは、小阪氏である。少し引用してみよう。【引用略】
その後、昨年の終わりごろ、荒木優太さんの『これからのエリック・ホッファーのために』(日本書籍、二〇一六)を拝読した。その「小阪修平」の章に、雑誌『ことがら』のことを書いている節があった。
荒木優太さんは、第8号(終刊号)の「『ことがら』終刊にあたって」に注目し、青木茂雄さんの文章と小阪修平さんの文章を引いている。
この『これからのエリック・ホッファーのために』という本は、荒木さんが、ウェブ・スペースで発表されてきた記事を再編集されたものだという。ちなみに、「小阪修平」の章に相当する記事は、今でも閲覧できる。二〇一三年一〇月九日の記事「在野研究のススメvol.01 : 小阪修平」である。少し、引用させていただきたい。
・雑誌『ことがら』の編集
寺子屋塾は小阪にもう一つ重要なものを与えた。同人誌『ことがら』と、その同人たち(仲間)である。1982年の8月から四年間続いたその同人誌は、途中から竹田青嗣や笠井潔など今日でも活躍する書き手を迎い入れ、小さな同人誌ながらもその存在感を世間に誇示した。そして中心となった編集同人らは元々寺子屋塾での顔見知りから派生したものだった。編集にたずさわっていた青木茂雄は終刊に臨んで、メンバーの共通点について次のように述べている。
「同人のほとんどが「寺子屋教室」の出身者であり、そこを一時期の活動場所としていたこと。そして「それ」に飽き足らなさを感じていたことを共通項としてあげることができよう。「寺子屋教室」は「我々の思想を我々の手で」のコピイにあらわされるように、在野の学問研究を進めようとしてつくられた団体である。しかし、在野とは言っても、学問研究のスタイルにそうそう大きなちがいがあるわけではなく、それに対する飽き足らなさが、「寺子屋教室」内に様々な潮流をつくりだしていった。『ことがら』編集同人も、明らかにその潮流にひとつを形成していた」(『ことがら』第8号、1986、80p)
最初の三号までは編集作業、定期購読者への発送や会計など、すべて自分たちで行う原始的な手作業雑誌だった『ことがら』は、掲載料を書き手の方が支払うような小さな雑誌だったが、それ故に小阪に特別な愛着を抱かせた。実際、小阪は自分のライフワークになるはずだったが最終的には中絶してしまった「制度論」を毎号載せている。「各人が書きたいものを発表するための場」である新雑誌を立ち上げるにあたり、まず始めたことは、和文タイプを金を出し合い購入することだったそうだ。
「たとえば、わたしは『ことがら』に出す二年ぐらい前から、商業誌にそこそこ文章を発表できるようになったが、商業誌に文章を発表して一万円もらうより、『ことがら』を一部買ってもらうほうが、ずっとうれしいという実感があった」(『ことがら』第8号、84p)
この雑誌編集の経験が、年表にある小浜逸郎共編『家族の時代』や『思考のレクチュール』シリーズの編集といった、仕事の広がりに直結しただろうことはいうまでもない。【以下、略】
ここで、荒木優太さんは、「和文タイプ」に言及されている。その製品名が「モトヤのタイプレス」だったことは、以前、このブログで紹介したことがある(二〇一二年八月二六日〝雑誌『ことがら』の編集委員会「規約」について〟)。
ところで、青木茂雄さんは、ご自分の文章が、『これからのエリック・ホッファーのために』に引用されていることを御存じなのか。一昨日、電話でお聞きしたところ、「まったく知らない」とのことだった。
また、その際、「寺小屋教室」の表記について、確認してみた。この教室の表記は、「寺子屋」でなく、「寺小屋」である、とのことであった。念のため、『ことがら』第8号(終刊号)を取り出してチェックしたが、青木茂雄さん、小阪修平さんとも、「寺小屋教室」の表記を用いていた。