礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

火にも焼けず水にも流されないのは方言学である

2019-02-20 05:42:24 | コラムと名言

◎火にも焼けず水にも流されないのは方言学である

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)の紹介にもどる。同書の巻末にある「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その八回目で、〔東京府〕の項を紹介する。ただし、この項は、四ページ強あるので、二回に分けて紹介する。

〔東 京 府〕
 東條〔操〕さんが方言に興味を抱いたのは古い事である。大学の卒業論文が「方言資料としての東海道膝栗毛」といふのであつた。その時代としては珍しい研究題目で、大学の先生方も少しは驚いたかも知れない。しかし、当時(明治末期)は明治卅五六年〔一九〇二、一九〇三〕頃の方言研究熱のほとぼりが未ださめなかつた時代だから、この研究の現れたのも異とする程の事ではない。ただ驚くべき事は、この研究者がその方言研究熱を三十年の久しきに亘つて持ち続けたといふ点である。これは熱し易く、さめ易い日本人として、稀有の例である。明治時代の方言研究者にして、今日なほ、その研究熱を失はずに居る人が何人あるかと振返つてみる時、この事を一層痛切に感じるのである。大正五年〔一九一六〕頃、早くも「郷土研究」に「刊行方言書目」を発表したこの人が、その後昭和になる迄、ほとんど表面に現れなかつた事を不思議に思ふ人があるかも知れない。それは、止むを得ざる事情によつて、研究を中断され、再び出発点まで戻らなければならなかつたからである。止むを得ざる事情とは関東の大震災である。運命の神は、人を絶望の谷底に落さんとするや、先づ、その人を得意の絶頂に引上げ、然る後に、之を絶望の谷底に蹴落すといふ最も悪辣な方法を案出した。そして、この悪辣な方法の実践のために選ばれたのが東條さんであった。大正十二年〔一九二三〕八月の末の日、東條さんは得意の絶頂に在つた。多年計画して居つた「日本方言資料」の最初の一冊として、「南島方言資料」の印刷製本が出来上り、明日はそれを全国の学友に頒布しようとする前日であつたからである。しかし、翌日の東條さんは絶望の谷底にあつた。烈しい家鳴りと、震動と、地割れと、悲鳴と、火の粉と、煙の中から辛うじて救出されたのは僅か数冊に過ぎなかつた。残の大部分は、焼け落ちた屋根瓦の下に、灰の堆積となつて発見された。不幸はこれのみに止まらなかつた。東京帝大の国語研究室に預けてあつた方言書はすべて灰燼となつて居た。その大部分は地方出版の絶版書であり、再び揃へるには十年の捜索を必要とする程度のものであつた。当時の東條さんは国語調査委員会に関係し、全国的の方言調査に従事して居つた。その業は既に成り、原稿も完成し、印刷屋に渡すばかりになつて居た。その数百枚の原稿と九百通の基礎資料も亦、震火災の炎に焼かれた事が判明した。一切は空である。十年の苦心は一瞬にして火の粉と成つて四散した。常人ならば、これを機に、不愉快な思出を与へる方言研究から身を引く所である。しかし、人間の偉大さは逆境に於て初めて現れる。東條さんが一時の絶望と喪心から回復して、方言学を再びイロハからやり直さうといふ勇気を取返すには多くの時日を要しなかつた。震災後久しからずして出た「東京朝日新聞」の「探して居るもの」欄に、静岡高校教授としての東條さんが、探して居る方言書の幾つかを列挙した事を今日まで気憶して居る人はさう多くはあるまい。昭和二年〔一九二七〕三月には「国語の方言区画」「大日本方言地図」が発行され、翌年〔一九二八〕六月には「方言採集手帖」が発行され、斯くして、昭和方言学の礎石は据ゑられた。先に震災に焼かれた「南島方言資料」も昭和五年〔一九三〇〕には、増補訂正の上発刊された。
 世には、方言学の将来に対して、危惧の念を抱く人がある様である。しかし、昭和の方言学は一度火の中をくぐって来たといふ事実をシカと銘記する必要がある。火にも焼けず、水にも流されないのは方言学である。再び帝都が焦土と化し、文化の一切が灰燼に帰する時があつても、その灰の中から、不死鳥の様に最先〈マッサキ〉に飛出すものは方言学であらう。【以下、次回】

今日の名言 2019・2・20

◎再び帝都が焦土と化し、文化の一切が灰燼に帰する時があつても、その灰の中から、不死鳥の様に最先に飛出すものは方言学であらう。

 言語学者・橘正一が、昭和前期に発した言葉。「再び帝都が焦土と化し、文化の一切が灰燼に帰する時」という仮定は、不幸にして、その通りになってしまった。しかし、「再び帝都が焦土と化し」たあと、その灰の中から、「方言学」が不死鳥のように飛び出したかどうかは確認できない。

*このブログの人気記事 2019・2・20

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする