◎方言分布上注意すべき知多半島
橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一三回目で、〔愛知県〕と〔福井県〕の項を紹介する。
〔愛 知 県〕
加賀治雄氏が雑誌「土の香」を創刊したのは昭和三年〔一九二八〕の春であつた。創刊の当時は純然たる土俗雑誌で、方言の記事は殆ど無かつたが、昭和六年〔一九三一〕頃から漸く方言が現れる様になり、八年〔一九三三〕に至つて最高潮に達した。珍しく長命の雑誌で、百号記念号を出したのは去年の事であつた。この外に「趣味叢書」を発行し、既刊の方言書は十指に上る。加賀自身にも「尾張の方言」正続二巻の著がある。
知多半島の東岸にある河和町〈コウワチョウ〉は、今でこそ交通もよくなり、海水浴場としてかなり知られる様になつたが、十年前の河和と言へば、名古屋人でも知つてる人は稀であつた。その辺鄙な河和に、名古屋人である鈴木規夫氏が移住したのは転地療養のために外ならなかつた。河和は、穏和な気候と、明媚な風光と、新鮮な魚介とを兼ね備へた楽天地であつた。しかし、気候の穏和も、風光の明媚も、魚介の新鮮も、鈴木君の健康を回復させる力は無かつた。せいぜい、半年か一年と思つた苟且〈コウショ〉の地に、早くも十年の歳月は流れた。田舎の生活は開放的である。物珍しげに覗きに来る村の子供達の口から洩れる河和訛は、都会人としての優越感にひたる鈴木君をほほ笑ませた。しかし、三年四年と経つて、そろそろ田舎住ひが身につく頃には、鈴木君自身の口からも見事な河和なまりが出る様になつて居た。方言を集めてみようと思ひ附いたのもこの頃であつた。斯くして、拮据〈キッキョ〉数年の後、出来上つたのが「南知多方言集」である。知多半島は東西方言の境界線に近く、殊に袋の底の様な形になつて居るから、方言分布上注意すべき地点である。鈴木君がこの地を療養のために選んだのは、方言学上感謝すべき偶然であつた。
「愛知県方言集」の編者は愛知県女子師範学校黒田鉱一氏である。同書のはしがきに「方言に手をつけてから、十年に近い年月は流れ、研究を共にした生徒は、幾たびか越立つて去つた」とある。もし、これが事実であるとすれば驚くべき事である。このはしがきの書かれた昭和八年〔一九三三〕から満十年前と言へば、大正十二年〔一九二三〕で、方言学の暗黒時代である。満五年前としても昭和三年〔一九二八〕で、やはり、先覚者たる事を失はない。
尾張には今一人岡田稔氏がある。「尾三〈ビサン〉方言研究」といふ雑誌の発行をもくろんだ事があつたが、これは実現しなかつた。
三河には谷亮平氏があつて、「東三河方言の調査」を豊橋二中から出して居る。
〔福 井 県〕
福井師範学校の「福井県方言集」(昭和六年〔一九三一〕)は誰の担任であるかを知らない。師範学校の方言集としては、昭和になつて最初のものである。個人の著と違つて、師範学校のものは計画が大きく、分量も多く、その整理に長期間を要するので、たとへ昭和四五年〔一九二九、一九三〇〕に着手したとしても、それが本になつて現れるのが昭和七年〔一九三二〕以降に持越されるのは止むを得ない事である。ただこの書は比較的小著(四六判二二四頁)であつたため、一番先に出る事が出来たのだらう。
「福井の方言」の著者徳山國三郎氏は大阪毎日新聞の京都支局長として、久しく京都に居住し、後大谷句仏〔大谷光演〕師の秘書となり、今は郷里福井に晩年を送つて居る人である。
この外、福井県には「福井県大飯〈オオイ〉郡方言の研究」の著者松崎強造氏や、「敦賀町〈ツルガチョウ〉方言集」の著者山本計一氏がある。島崎圭一氏は早く死んだ。