礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飛騨の船津町に荒垣彦兵衛といふ人があつた

2019-02-25 04:35:09 | コラムと名言

◎飛騨の船津町に荒垣彦兵衛といふ人があつた

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一二回目で、〔富山県〕と〔岐阜県〕の項を紹介する。

〔富 山 県〕
 大田栄太郎(旧姓田村)は、東條〔操〕・柳田〔國男〕先生に次いで古い人である。その初女作「富山市近在方言集」は、昭和三年〔一九二八〕七月の序を持ち、昭和四年〔一九二九〕二月に出版されたが、その資料は大正十五年〔一九二六〕の春から暮まで、富山県下二百七十余小学校を遍歴して調べたものと、三百余個所に出して回答を求めた報告と、日頃心掛けて集めて置いたものとであると言ふ。これだけ大がかりな調査方法は今日でも珍しいが、大正十五年といふ時代を考慮に入れる時、更に一層驚かされるだらう。当時は未だ、柳田さんの方言論文は一篇も出ず、東條さんの著書も出ず、方言書の刊行されるもの、一年に僅か二冊平均といふ憐〈アワレ〉な状態であつた。従つて、大田氏を刺戟するものは皆無であつたはずである。大田氏が何処から、この活動の動力を得たかは知らない。ただし、学生時代、病気のため一年間休学して、帰郷静養して居た事があつた。その病床のつれづれに方言を集め始めたのではあるまいか。大田氏は、東條さんが企てて果さなかつた全国方言の集成を企て、「方言集覧稿」といふ書名で、群馬・長野・福島・栃木・福井・奈良・三重・和歌山諸県の方言集を出した。「言語誌叢刊」の「滋賀県方言集」は、その別動隊とも言ふべきものである。又、啓明会から、研究費の補助を受けて、山陰道や四国方言を調査した事がある。現在、帝国図書館に職を奉じてゐる。
 金森久二氏は、国学院大学在学中すでに方言の研究に興味を持ち、卒業論文も郷里越中の方言に関するものであつた。業を終へて、滑川〈ナメリカワ〉商業学校に職を奉ずるや、方言の研究を続行し、昭和六年〔一九三一〕には「越中方言研究彙報」といふ雑誌を創刊した。
 尚この県には柴山幸氏・中塩清之助氏がある。
〔岐 阜 県〕
 「言語誌叢刊」第二期の刊行書の中に、荒垣秀雄氏の名を見出した事は私に取つて意外であつた。何故なら、この人の名は私に取つて初耳であつたからである。およそ、方言書を東京から出さうとする程の人で、その名が比較方言学者に知られて居ないといふ事は信じ難い事である。論より証拠、「言語誌叢刊」に名を列ねた柳田・東條・三矢〔重松〕・山口〔麻太郎〕・小倉〔進平〕・金田一〔京助〕・大田・真山〔彬〕・湯沢〔幸吉郎〕・杉村〔楚人冠〕・内田〔武志〕諸氏は、それぞれ学界又は社会に名を知られた人ばかりである。一人荒垣氏だけが例外をなす。しかし、この書を繙けば、この書の成つたのは決して偶然ではないといふ事が判る。飛騨の船津町〈フナツチョウ〉に荒垣彦兵衛といふ人があつた。大正七年〔一九一八〕に六十一歳で死んだが、その人が壮年の頃、商売の傍、紙の断ち屑に飛騨のの方言を書きつけて置いた。この父の遺産を小荒垣氏が十数年に亘つて大切に保存して置いたのは、ひとり孝心の故ばかりでなく、方言研究の尊重すべき事を知つて居たからである。後、東京朝日新聞社に、柳田さんと机を並べる様になり、その「言語誌叢刊」の計画を聞くや、父の遺稿を自ら増補して出版する事を申出たのであつた。時恰も、満洲事変起り、世界の視聴はこの一ケ所に向つて注がれた。朝日新聞社は報道の任を全うすべく、特派記者として新進気鋭の荒垣氏を選んだ。荒垣氏は、この重任を荷うて戦禍の満洲に赴くに当り、草卒の間に原稿を整理し、出発の前夜之を柳田さんに渡し、「では万事宜しくお頼みします」といふ声を後に、颯爽として征途に上つた。数ケ月の後、重任を果して帰宅するや、机上には「北飛騨の方言」が美装をこらして待って居た。
 「岐阜県方言集成」は菊判三百五十九頁の大著である。著者瀬戸重次郞氏は先に岐阜師範学校の教諭たりし人で、その在任中、師範の生徒や県下の小学校から集めた資料を、退職の後、整理して出したものである。神奈川県に生れて、岐阜県方言を集成することに成功したのは敬服の至りである。この外、美濃城山村に服部俊三氏がある。

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