礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

午後二時ごろ末広旅館に一人の紳士が現われた

2020-11-04 00:12:22 | コラムと名言

◎午後二時ごろ末広旅館に一人の紳士が現われた

 大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)から、「17 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」を紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、紹介した箇所のあとに、【一行アキ】があって、次のように続く。

 最高検察庁でも異例の記者会見が行われた。福井総長〔福井盛太検事総長〕、木内次長〔木内曽益次長検事〕の他、東京高検・佐藤検事長、東京地検・堀検事正らが出席したが、記者団側から「他殺断定の根拠を聞きたい」と質問されると、堀検事正は、
「轢断された傷痕にメスを入れた結果、出血はないという事実による。つまり、轢かれたときは死んでいたもので、血が出るような状態ではなかったという理由によるのだ」と、死後轢断の確信を語っていた。
【一行アキ】
 私はそのころ、毎日新聞大阪本社の社会部四年生記者であった。占領軍担当だった関係もあり別件取材の用件もあって、社会部長の特命で約一週間、東京に出張し、下山事件の経緯、真相を東京社会部デスク・平正一から聴取してくるよう命じられた。
 というのは、事件捜査が発展していく中で、朝日、読売両紙が検察側見解に沿って「他殺説」 の線で報道したのに対して、平正一デスクを長とする毎日新聞の下山事件取材本部が、徹底的に 「自殺説」をとり、遂には「他殺」の容疑を共産党におっかぶせたがっていたGHQ当局から抗議を受けるという経緯があったからである。
 平正一デスクは、連日連夜の多忙な取材にもかかわらず、まる二晩、締切り後の深夜から夜明けまで、彼が「自殺説」に固執した論拠を語ってくれた。私はノート二冊分のメモをとった。
 東銀座の小料理屋の二階で、平デスクは杯を開けながら次のように語った。
「七月六日朝、轢断死体発見の直後だったな。入社一年生の取材記者から報告があったんだよ。五日夕方、五反野の現場付近で、下山らしき紳士を見たという目撃者を見つけた。成島正男という三十八歳の石油会社・隅田川営業所の社員だ。
 遊軍のベテラン記者を急行させて、二人でインタビューさせた。二人がメモを出して、成島が目撃したという紳士が履いていた靴の絵を描かせてみると、成島は靴の爪先に、馬蹄形の縫い取りの絵を描いたんだ。色を覚えているかと聞くと、チョコレート色だと答えた。捜査一課が轢断現場で発見した遺品の靴とピッタリだったが、七日付け朝刊では検察側発表を重視し、他殺ラインの本記につけて、成島の目撃談を小さく載せておいた。
 その翌日の七日夜の紙面作りから、ぼくは変わった。五反野付近の四十三歳の人妻が、下山らしい人を見た、と前日の成島談話をウラ打った後、例の一年生記者が、現場近くの末広旅館というところで、下山が失踪当日の五日夕方に休んだという新事実を掴んできたんだ。
 彼は現場界隈であちこち聞きこみ捜査をやっていたところ、その末広旅館の中から、五、六人の男が慌ただしく出てきたのにぶつかった。中に入って、女将〈オカミ〉に、いま出ていった人々は誰ですか?と聞くと、女将は警視庁の人だと答えた。お宅に犯人でも泊まったんですかとカマをかけると、女将は、とんでもない、国鉄の下山さんがお休みになったんですよ、と答えた。
 ぼくはデカ長というあだ名で通る事件記者を末広旅館に急行させた。デカ長は夜になって帰って来たが、女将・長島フク(四十六歳)談話は決定的だった。
 五日午後二時ごろ、末広に一人の紳士が現われ、六時ごろまで休ませてくれというので二階に案内した。宿帳を出すと、それは勘弁してくれと押し返された。夕方五時二十分ごろ、紳士は部屋代二百円とチップ百円を置いて出ていった。女将は翌朝、新聞を見て、びっくりして警察に届け出た。捜査本部から刑事が末広旅館に急行して、たくさんの写真を見せたが、女将はピタリ一枚、下山総裁の写真を選び出したんだな。
 七日夜の締め切り段階で、女将が新聞やラジオ・ニュースで予断を抱いていてはならないと思ったので、靴下の色を聞いてみさせたが、これもピタリ。無地の紺色だった。
 この夜の締め切りまでに何人もの取材記者が集めてきた情報は、すべて自殺をウラ打つものばかり。失踪前日の四日夕方、下山は予告もなく、東京駅二階の鉄道公安局長室に入ってきた。第一次整理リストが発表された直後だ。芥川〔治〕局長は給仕にお茶を命じようとしたが、茶などいらないと答えた下山総裁が、突然、芥川局長の飲みさしの茶碗に手をかけて一気に飲んだんだ。アイスクリームが芥川局長に届けられたときも、追加注文しましょうという芥川に、ぼくはいらないよ、と断っておきながら、同席していた公安一課長が席をはずすと、彼のアイスクリームを膝に滴るしずくを気にもせずに、ガツガツ平らげた。
 一課長が買ってきた夕刊紙を渡すと、下山総裁はじっと紙面を見つめて、そうか、三万七百人も首を切ったかと、溜め息をついて立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていってしまった。
 酒気を帯びたシャグノン中佐が下山邸を訪れ、ピストルを出して、首切り断行を迫ったのは、その前日三日の深夜だったからね!」
 七月八日紙面から毎日新聞は、「末広旅館に現われた紳士の客」を一面トップに、五反野現場の目撃者談話と鉄道公安局長室の奇怪な行動等で、「自殺説」の紙面を作った。
 九日付け紙面から、朝日新聞は「下山総裁自殺説は消滅」、「複雑巧妙な殺人・捜査線上に足取り浮かぶ」、「解剖結果、轢かれたのは死体、推定死亡時刻は五日夜九時から十時」と完全な他殺説をとった。社会面でも「蹴殺し説有力」、「三越地下街の喫茶店で二人連れ」。
 読売新聞も一面で、「轢断三時間前に絶命。捜査範囲狭まる」、「屋内で格闘、殴殺」、「凶行現場は近くか、自動車で運ぶ」と他殺説の紙面作りであった。
 平デスクは、大学担当記者を信濃町の慶応大学医学部・中館久平〈ナカダテ・キュウヘイ〉教授のもとに走らせた。東京都内で発生した事故死体の司法解剖は、中央線を境にして北側が東大法医学教室の古畑種基〈タネモト〉教授の管掌。南側が慶大中館教授。片や北町奉行、片や南町奉行の縄張りがあった。検察と警察の依頼で下山総裁の死体解剖を行ったのは、東大の古畑教授であった。【以下、次回】

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