◎その紳士は、しゃがみこんで草の葉をちぎっていた
大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)から、「17 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」を紹介している。本日は、その四回目〔最後〕。
平〔正一〕デスクは語り続けた。
「死後経過時間の判定は、法医学の中でも最も難しい、というのが中館〔久平〕教授の考え方だった。出血の程度、傷口のあき方、死体の硬直状況などの科学的所見を見て、総合的にはカンに頼るしかないんだね。東大裁判化学教室の秋谷〔七郎〕教授の乳酸最測定法があるが、まだ決定的なものではない、と中館教授は言うんだ。全犯罪の中で、法医学を含む科学捜査で解決できるものは、四、五パーセントだ、と言うんだね。
そこへ、名古屋大学法医学部の元教授だった小宮喬介博士が訪ねてこられた。ぼくが愛知県警を担当していたころ、お世話になった先生だ。業病に罹った朝鮮人が、蟹取の少年を殺害して肝臓を食ったという生きキモ取り事件で、優れた解決をした先生だ。
自殺を偽装した轢死体を解剖して、警察の自殺説を覆したこともある人だったので、ぼくはどきっとしたね。ところが、小宮先生は、自分はいまや一介の浪人だが、下山事件が自殺、他殺と割れてくると、黙っておられなくなり、新聞は隅から隅まで読んでいるが、下山〔定則〕総裁を轢いた機関車に血痕が付着していたという小さな記事があった。これは法医学者にとって大変なことなんだ、と小宮先生がその血痕を追及していくと、血痕がゼリー状だったことが分かった。ゼリー状というのは、堅く固まる前のある程度固まった状態で、これは生体から出た血液に限る。死体から出た血は凝固しない。死後轢断ではなく、生体轢断だ。下山総裁は自殺に間違いなし、とわざわざ励ましに来て下さったんだね」
平デスクを勇気づけた社会部記者の取材の中に、末広旅館の女将談話の他、十四名の目撃者証言中、二人の興味ある証言が入ってきた。
その一人は、東武線五反野駅勤務、萩原詮秋の証言で、「五日午後一時四十三分の下り電車が入ってきて、下りた二十人ぐらいの客の中で、背の高い人が、このあたりに旅館はないかと聞いたので、末広旅館を教えた」というもの。
足立区五反野南町の主婦、山崎タケの証言。「五日夕方六時四十分ごろ、ガード下近くの線路脇を歩いていたとき、洋服を着た人がぼんやり立っているのを見た。小豆とトウモロコシの畑だったので洋服姿は変だなと思い、立ち止まって見つめると、その紳士はこちらを見たが、きまり悪そうにしゃがみこんで、草の葉をちぎって、いじっていました。五メートルほど離れて後をついて歩きましたが、何か考えごとでもしている様子で、ズボンのポケットに両手を入れて、うつむきながら右手の土手を下りて行きました」
平デスクは、山崎タケ証言の現場近くにカラスムギが密生していた事実を突き止め、捜査一課が持ち帰った下山の上着のポケットからカラスムギが確認されたことを有力な決め手にした。
また、国鉄総裁付の大塚〔辰治〕秘書から、「総裁はポケットに手を入れて、前かがみで足元を見て歩く癖がある」というウラ打ちを取った。
さらにまた、平デスクは間もなく、慶大中館教授が、下山総裁の睾丸部分を調べた結果、睾丸は列車に轢かれたとき輪切りにされており、この輪切り個所に生体反応が確認されたとする報告を受けた。
平正一は、こういう話もしてくれた。
「下山総裁は学生時代ボート部の選手だった。一高・三高対抗レースで合宿したことがあるゆかりの地が、末広旅館のあった五反野付近だったので、死ぬ前にその辺を訪れたという見方にもなるんだね」【以下、略】
「17 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の紹介は、ここまで。
大森実は、このあと、「Ⅰ」の後半および「Ⅱ」で、下山総裁「他殺説」を紹介している。しかし、ブログ子としては、この部分の引用は控えたい。理由は単純で、ブログ子が一貫して、下山総裁「自殺説」を支持してきたからである。
ここで、時枝理論の紹介に戻ってもよいのだが、『日本はなぜ戦争に二度負けたか』の紹介を、もう少し続けてみたい。