◎時枝誠記のソシュール批判は不十分(三浦つとむ)
三浦つとむ著『言語学と記号学』(勁草書房、一九七七)から、「時枝誠記の言語過程説」という論文を紹介している。本日は、その五回目。
文中、■は、いわゆる「零記号」を示している。また、傍マル、傍テンが施されていた部分は、太字で代用した(本文で三箇所に傍マル、注で一箇所に傍テンが施されていた)。
従来の言語学に欠けていた重要な部分を補って、本来なら創造的な業積として評価されるべき主張が、難解として無視されあるいは誤謬として非難されている亊実は、まだほかにも指摘することができる。零【ゼロ】記号もその一つである。零記号というのは、いわば表現の省略であって、辞でも詞でも想定しうるが、辞の場合には、判断辞の省略として
花だね。 (A)
花ですね。 (B)
花■ね。 (C)
のようになり、「詞の零記号になる場合は、それが省略されても自明のこととして理解される様な場合である。(8)」
この花を折ったのはおまえだろう。 (D)
■じゃないよ。 (E)
表現に際して判断が存在したことは疑いないから、Cのような判断辞のない場合をどう説明するかが問題になる。山田孝雄のようにどれかの単語に負わせないと気のすまない学者は
人がいる■。 (F)
のように客体的表現にとどまっている場合にも、「いる」が陳述を表現していると解釈する。別のことばでいうと、内容と形式とをむりやりに一致させようとする。時枝の零記号は、内容と形式との間に矛盾が存在十ることを認め、乖離しうることを認めるものにほかならない。時枝は一方では論理的な結論として、「言語は宛も思想を導く水道管の様なものであつて、形式のみあつて全く無内容のものと考へられる(9)」といいながら、他方では経験的に事実上内容と形式との矛盾を扱っているのである。漫画の主人公の鼻に鼻孔が描いてなくても、読者はこの主人公には鼻孔がないのだとか、作者が鼻孔のない鼻を想定しているのだとか、考えることはない。だが同じ客体的表現であっても、EをDと切りはなしてこれだけをとらえ、零記号の部分は認識が存在しないものとして無視する者が多い。ましてCの場合にあっては、時枝さえはじめこれを無視してしまって、「敬辞の加つたものから逆推して(10)」いって(つまりBを検討することによって)はじめてこれを想定したのである。
この時枝のはじめのふみはずしにも、やはりそれなりの理由があった。言語哲学はもちろんのこと哲学に本質的な指導原理を仰ごうとしなかった(これは見識の高さを示すものである)時枝も、精神的過程を具体的に検討する必要に迫られて、その意味で現象学(Phänomenologie)の援助を求めたのであった。これは一方において、過程的構造の弁証法的 な性格をとらえることに役立ったけれども、同時に他方においては、観念論的な見解のために足をひっぱられて理論の展開を阻止されることとなった。過程的構造を平面的につかむようしむけられることとなった。否定や疑問は、まず一つの想像的な世界をつくり出してから、現実の世界に立ち戻って否定したり疑ったりするのであって、そこでは世界が二重化しており、否定辞や疑問辞以外に想像の世界での「主体的立場」を表現する判断辞ないし単純な陳述を必要とするのである。現象学はこの世界の二重化を観念論の立場から無視し一重化してしまうので、否定辞や疑問辞も「単純な陳述の変態と考えるのが正しい(12)」ことになり、立場の表現の二重化もこれまた一重化されることになる。そしてCの場合の主体的表現が、判断辞と感動表現と二重化されているにもかかわらず、このような場合の感動表現は 「客体的なものの表現の最後に位して、客体的なものを包む形に於いて統一を表してゐる(13)と、これを「客体界に対する言語主体の総括機能の表現(14)」にして一重化したのであった。
彫刻とは何かといえば、誰でも作品それ自体だと答えるであろう。作品以前に、作者の頭の中に彫刻とよばれるものが存在するなどと主張する者はない。彫刻の素材は何かといえば、誰でも木とか枯土とか大理石とか答えるであろう。作者の頭の中に彫刻の素材が存在するなどと主張する者はない。言語にしても同様であって、過程的構造をかくし持った音声や文字が言語であり、それ以外に言語は存在しない。言語の素材は空気やインクなのである。それにもかかわらず、言語それ自体が表現の素材ないし道具として、表現以前にすでに頭の中や辞書の中に与えられていると考えている人びとが、言語学者にも文学者にもすくなくない。この錯覚にも、やはりそれなりの理由がある。空気やインクが与えられるだけでは言語表現は不可能なのであって、表現以前に表現のための規範が与えられこれが作者の 概念を媒介する点に、言語表現の特徴がある。この言語規範を言語と混同するところに、言語が表現以前の頭の中に存在するという主張が出てくるのである。時枝はソシュール言語学を批判して、話し手たちの頭の中に「言語」(langue)が貯蔵されるという説明に反対した。このソシュール批判も難解に見えるであろうし、批判を不当だと見る学者も多いが、実は逆で不十分だと見るのが正しい。なぜなら時枝は、ソシュールの「言語」を否認するだけで、その正体を明らかにすることができなかったからである。「言語」なるものは、実は言語規範およびそれに媒介される概念のありかたを、カント的に歪めたかたちでつかんだものにすぎないのだということを、正しく指摘できなかつたからである。これは時枝が言語規範についての正しい理解を欠いていたためであり、言語の過程的構造の図解(15)にも言語規範の媒介過程は脱落している。
言語の本質を過程的構造に求める時枝理論では、単語の分類の基準を過程的構造からひき出すだけでなく、単語によって構成されている言語表現の統一体の分類の基準もこれまた過程的構造からひき出すことになる。「文章」という概念は常識的にひろく用いられているし、修辞学においてはこの種の言語表現が検討の対象になっているのだが、言語学として「文」と「文章」との区別を論じているものはほとんどない。時枝は「文章を一の言語的単位として、これを正面の対象に据ゑる(16)」べきだといい、「文章のことは、修辞論に属することで、科学的な言語研究の対象とするに値しないもののやうに考へることは正しいことではない。(17)」と主張するのである。また、表現以前に表現の素材としての言語が存在するという考えかたに反対して、表現それ自体が言語だと主張する時枝理論では、文学とは言語以外の何ものでもなく、鑑賞用言語であるという点で特殊性を持つにすぎないという結論をひき出すのである。
「言語を、個人の機能とは別に、個人に外在するものとする言語観に立つて、言語は文学であるといふことは不可能である。言語を表現理解の行為とする言語過程観に立つて、始めて、文学は言語であるといふことが云へるのであつて、ソシュール的言語観に立つならば、文学は、依然として言語とは別のものである。(18)」
「文学と言語との関係は、これを、芸術的な建築や調度品と、さうでない日常的な建築や調度品との関係に比べることが出来る。芸術的な住宅や寺院や机や茶碗といへども、その本質において、日常的な住居や器具と異なるものではない。ただ、我々は、前者において、快と喜びとを感じ、後者において、それが少いといふだけの相違である。即ち、前者がより多く美的享受の対象となり、鑑賞に堪へるものを持つてゐる点において異なる。(19)」
時枝の文章論も文学論も、その基本的な主張は正当である。ただこの主張を体系的な理論に具体化していくためには、対象を処理するための武器として科学的な認識論・論理学を持つことがどうしても必要になる。現象学の援助を受けていたのでは、武器として役立たないだけでなくあやまった道にひきずりこまれることにもなる。時枝は文章論でも文学論でも重要な発言をしているのだが、それは断片的な指摘にとどまっていて、まだ体系的な理論にはなっていない。【以下、次回】
(8) 『国語学原論』二六三頁。
(9) 同上、五三頁。
(10) 同上、四九三頁。
(11) 『国語学原論』の中の零記号の扱いかたが、文法論のそれ(三四八~五二頁)と敬語論のそれ(四九二~三頁)とはくいちがっている点に注意すべきである。
(12) 『国語学原論』三九〇頁。
(13) 同上、二五二頁。
(14) 同上、二三九頁。
(15) 同上、九一頁。
(16) 『日本文法・口語篇』二三頁。
(17) 同上、二四頁。常識的に文章とよばれるものは多くの文の集ったものであるが、それらがバラバラではなく背後でむすびついているのだということも、経験を反省してみれば納得できるはずである。それゆえ文と文章とを区別する基準も、このむすびつきの中に、統一体をつくりあげている過程的構造の中に、求めなければならないという結論が出てくる。そこで主題が言語学上の問題になってくる。
(18) 『国語学原論・続篇』一〇三頁。
(19) 同上、一〇四頁。