◎博士は自分で時枝学派を造ろうとしなかった
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第二十一 現代の国語学」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。
そういえばこの『現代の国語学』に対しては、金田一春彦博士も書評「時枝誠記博士著『現代の国語学』」(「国語と国文学」昭和三十二年八月号)を書かれているので見たいと思う。金田一博士もまた、
《これはいい本が出来たものだ。時枝博士の国語学を知る上に、また、在来の国語学に対する博士の考えをうかがう上に、こんな便利な本はない。博士の『国語学原論』は、特にその『正篇』は、難しすぎた。読んでヘンだなと思った箇所について、他の学者が提出した異議は、博士によつて、悉く誤解だ、誤解だ、としりぞけられた。伝達には「食ひ違ひが一般的である」(本書一九四ペ)とは言うものの、少し甚しすぎる。あれでは時枝学説の信奉者を以て自任している人たちも、果してどこまで理解しているのかと危まれてくる。時枝学説の真の理解のために、今度のこの本の出現は、非常に有意義だと言ってよい。
この本を読んで、まず感じるものは、時枝博士の強い自信である。博士は、博士以外の言語学説を一切引っくるめて「言語構成説」と呼ぶ。そうして、それは、博士の「言語過程説」に対立し、やがては対決を迫られている学説であると断じられる(一〇ペ)。「言語構成説」の中には、日本の諸家の学説はもとより、パウルの学説も、イェスぺルセンの学説も、ソシュールの学説も、包含される。恐らくアメリカのブルームフィールド一派の学説も例外ではない。その意気込みは、昔、「念仏無限禅天魔……」と恕号した日蓮上人の辻説法を思わしめる概〈オモムキ〉がある。論断の歯切れのよさと、文章の潤達さは、この自信にもとずく。一読、まことに男性的であり、壮快きわまりない。》
というふうに述べはじめて、おわりは、
《最後に、私がこの『現代の国語学』を読んでの感想を一言にして言えば、時枝博士は、国語学界における偉大な批評家だということである。
第一部における従来の学説に対する博士の批評眼については先に述べた。第二部で迫力のある部分は、今後の国語学の研究の方向を指示する部分である。私は、博士の所説のうち、ラングの国語学と交錯する分野に関する部分については、しばしば不満を感じた。が、同じ分野の論述の中でも、研究の新しい対象・方法を論じたところでは、一再ならず頭を下げざるを得なかった。
博士は、国語史を編むのに、いわゆる口語の歴史だけを取扱うべきではなく、文語の歴史をも取扱うべきだと言われる(七九ペ)。また、今までの国語史学者の構想は、樹幹図式的であったが、今後は、河川図式的でなければならないと説かれる(二二三ペ以下)。これらは、いずれも国語構成説に立つ学者の視野を広くする卓説である。
文壇には、作家と批評家とがある。そのように、学界にも研究家と批評家とがあって、よいはずである。この著に見られる時枝博士の位置はまさしく批評家である。
研究家としての学者を求めるならば、国語学界に人材が多い。しかし、批評家としての学者をたずねるならば、博士はまことに上田万年博士以来の学者で、他に比を見ない。橋本進吉・有坂秀世……と言った諸家の業績に接したあとで、時枝博士の著書を読むと、論語・孟子を読んだあとで、荘子の諸篇をひもとく思いがする。この意味において、博士がこの本の跋文に書かれた次の文字は、けっして無稽な揚言ではない。
―もし読者が、現代の国語学に踏み入つて、そこに突き破ることも、乗り越えることも出来ない壁を見出し、慄然たる感を抱くであらう時には、恐らく、第二部の言語過程説の理論は、それらの人々に、一つの突破口としての役を果すであらう。―》
というふうに結ばれる。金田一博士も時枝博士が自信というか見識をもって従来の言語学説を尻目に別個の言語学説すなわち言語過程説を唱え、それによって国語学の体系を確立したのを認められた上で、それはやはり時枝博士自身あまり自信があり少し独断に陥っているといわれているのであろう。この書評もまことに鋭く肯綮〈コウケイ〉にあたっている。
私は時枝博士は非常に独創的な学者であり大変な見識を持った人であったと思う。しかし、独創とか見識とかいうものはどうしても独断や焦りというものが伴い、その独断や焦りのほうが他の人の目につくようである。思うに時枝博士は自分の一生で学問の体系を完成させたいと考えていた。そうなると独創的な学者で見識を持った人であるだけに、独断や焦りがあってそれが反撥を招くことはわかる。博士は自分で時枝学派を造ろうという意志を持たなかったそういう学者であったと思われる。
金田一春彦の文章を引用しているところに、「潤達さ」という言葉がでてくる。「闊達さ」の間違えではないかという気がしたが、そのままにしておいた。
ここまでが「二」で、このあとに、「三」があるが、これは割愛する。
明日は、いったん話題を変える。