礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

京城大学を辞して京都大学に聴講に行きたい(時枝誠記)

2020-11-14 02:34:28 | コラムと名言

◎京城大学を辞して京都大学に聴講に行きたい(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第二十二 時枝誠記博士の国語学」を紹介している。本日は、その四回目。

     二
 私はいましがた時枝誠記博士がある時期から現象学にあまり興味を示されなくなったといったが、そこで思い浮かぶのは時枝博士の京城大学での上司であった高木市之助博士がものされた「時枝さんの思出」(「国文学」昭和四十七年三月、臨時増刊)という追悼文である。これは活字になったのがすでに時枝博士が逝去されて何年もたっていたのと、これが臨時増刊敬語ハンドブックに載ったためにあまり他人に知られていない文章のようである。これを読んでいくと、次に引用するような時枝博士と現象学に関して衝撃的なことがわかるのである。
《それについて思い出されるのは時枝さんが教授時代の或る日のこと、突如私の宅を訪れ、京城大学を辞して京都大学へ聴講に行きたいと言出されたことである。あっけにとられている私の前で時枝さんが語られた理由は、「自分の国語学は現象学を必要とする段階にさしかかったが、自分はこの方面の知識に比較的弱いので、今自分が信頼する××教授の許で直接勉強したい。」というにあった。これはつまり時枝さんにとって、自分の学問の操守の前には、大学教授やそれに附随する一切が魅力を喪失したことに外ならなかったのである。
 私が時枝さんのこの決意を翻えさせるためにどんな苦労をしたかについては、当時このことに協力して頂いた麻生さんが知っていて下さると思うが、常識的に言って、大学教授の職というものは自分の勉強のために犠牲にしなければならないほど窮屈なものとは思われなかったので、私達は時枝さんの辞職が京城大学の講座をどんなに窮地に陥れるかについて百方口説いて結局時枝さんを思い止まらせることに成功はしたが、時枝さんにとってはこの断念がどんなに不本意なものであったか。時枝さんの常識はずれの、国語学に対する操守の前に屈服しつつも、時枝さんにこの卑俗な常識を護って貰うためにのみ私達は働かなければならなかったのである。》
 これは時枝博士の学問的生一本さを証する例として認め〈シタタメ〉られたのであるが、時枝博士自身、京城時代のある日高木博士邸を訪れて現象学を勉強するべく、京城大学教授を辞して京都大学に聴講に行きたいと申し出たなど、学問的自叙伝ともいえる『国語学への道』にもしるされていない。ここに時枝博士がつきたいという××教授が京都学派でも体系的理論家として知られていた山内得立博士であることはいうまでもない。山内博士は明治二十三年〔一八九〇〕生まれで時枝博士より十歳年長であり、あのヨーロッパ哲学によって学んだ現象学の方法によって「いき」を分析した九鬼周造〈クキ・シュウゾウ〉博士と共に、西洋哲学史を講じられていた。ちなみに博士は昭和五十七年〔一九八二〕九月十九日九十二歳で不帰の客となられたが、京大哲学の最長老であった。とにかく高木博士はさきの文章で京城大学にこのままいるよう口説いて時枝博士を思い止まらせることに成功したと書かれているのであるが、それが昭和何年頃のことか明らかでない。それで推測するよりほかないが、高木博士が九州大学に転じられたのが昭和十四年〔一九三九〕であり、時枝博士の学問の進度から推して、昭和十年〔一九三五〕過ぎの出来事であろうと思われる。【以下、次回】

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