◎山内得立の『現象学叙説』(1929)と時枝誠記
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第二十二 時枝誠記博士の国語学」を紹介している。本日は、その三回目。
さらに時枝博士は昭和四十一、二年〔一九六六、一九六七〕の交、早稲田大学国語学会主催の下に、「言語過程説の基礎にある諸問題(国語学の出発点において考えるべき問題)」ということで何回も講演されている。これがさきほどの白石〔大二〕氏の「早稲田大学ところどころ」に出て来るものであって、『別巻』にそのまま収められている。この時も時枝博士は山内〔得立〕博士の『現象学叙説』が意味の問題をいろいろなところでよく取り上げていることをいわれて、「水がほしいという言い方をした場合に、その水はそのときには、それは一つの欲望の対象になっている。そうしますとここに水がある、これが欲望の対象。そうするとその水がほしいというこのことは、そのことが意味なんだ、こういうふうにいっているのです。〈私は一杯の水を欲する。対象は一杯の水であるが、この文章の意味は、一杯の水を欲するということでなければならない〉こういうことです。」と解しやすく説いているのに感じ入っておられる。そういえば山内博士はのちになり『意味の形而上学』(昭和四十二年)という大著を公刊し(2)、意味とは何であるかを本格的に研究された。意味があるということは日常の経験によって明らかであるが、それが何であるかは容易にわかる事柄ではない。あるということと何であるかかということは決して同一でないのである。『意味の形而上学』は博士がSuppositio〔代示〕という一つの原理によって、それこそ意味の形而上学を打ち建てようとされたのである。
さて時枝博士が現象学をいう場合このように専ら山内博士の『現象学叙説』を引かれるのであるが、ここで時枝博士が言語過程説を樹立される時期までに公刊された、わが国における現象学の主な単行本を見ていくと、
山内得立『現象学叙説』(昭和四年)
高橋里美『フッセルの現象学』(昭和六年)
大関将一『現象学概説』(昭和六年)
下程勇吉『フッセル』(昭和十一年、西哲叢書)
務台理作『現象学研究』(昭和十五年)
などの哲学者のものがあげられる。このうち『現象学研究』は若き日現象学に沈潜した務台博士の労作であるが、刊行がおそくて、時枝博士の『国語学史』(昭和十五年)、『国語学原論』(昭和十六年)などと時期を同じくするので、時枝博士は見られることはなかったであろう。やはり時枝博士が読まれたのは山内博士の『現象学叙説』なのであろうが、この書は、「私はここにフッセールの現象学を解説し叙述しようとする。さうしてそれは要するに単に一つの解説であるにすぎず、それ以上の、またはそれ以外の何ものでもあることを要求し得ぬものである。私はできるだけフッセールの思想に忠実であらうとするとともに、及ぶかぎり之を自由に理解することに努めたが、しかしそれはその孰れ〈イズレ〉の方面に於ても遂に失敗に帰したもののやうである。即ちそれが彼の思想に忠実であらうとする限り、余りにそれに即きすぎてゐると批難せられ、それが自由に解説せらるる限りに於て既にフッセールの立場から離れてしまつてゐると評せらるるであらうことを知つてゐる。それがまたフッセールの思想発展の余りにも初期的な立場に――即ち 彼の『論理研究』によりかかりすぎてゐると難ぜらるべきことをも十分に私は知つてゐる。」と静かに語りはじめられる。山内博士はフッセルの思想発展はのちに大なる進歩をとげるが、内容的には初期のほうがむしろ豊かな思想の展開を見せているので、この書ではフッセルの現象学の初期的な思想形態を叙説すると序に述べられる。したがって、同じ哲学者でも大関〔将一〕氏などは山内博士の『現象学叙説』がフッセルの現象学をよく叙述したというが、その説くところは少しも賛同できないとし(3)、フッセルの学説の一般を知るためにはむしろ高橋〔里美〕博士の『フッセルの現象学』が推奨に値するといっておられるのである。が、時枝博士がこの書に興味を覚えられたかどうかはよくわからない。いずれにしても山内博士の書や高橋博士の書は、今日私たちの目に触れるむずかしい現象学の書と違っており、読んでいけばある程度まで理解できるわけである。いま山内博士の『現象学叙説』を読みさらに時枝博士の諸論文を読み返して みると、「語の意味の体系的組織は可能であるか――此の問題の由来とその解決に必要な準備的調査――」(京城大学文学会論纂第二輯『日本文学研究』昭和十一年三月)、「心的過程としての言語本質観」(「文学」昭和十二年六月、七月)、「言語に於ける場面の制約について」(「国語と国文学」昭和十三年五月号)などはやはり現象学的なものをよく入れていると思う。しかしながら、このあと時枝博士は現象学に対する興味を失われたのか、博士の論文において現象学的なものの比重がだいぶ軽くなっていくのである。それはなぜであろうか。【以下、次回】