◎原稿用紙一枚に満たない、前代未聞の起訴状であった
大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)から、「19 三鷹、松川事件のデッチ上げ証言」の章を紹介している。本日は、その四回目。
昨日、紹介した箇所のあとに、【一行アキ】があって、次のように続く。
事件発生後百十日目の四九年〔昭和二四〕十二月五日、特急列車のようなスピードで行われた松川事件第一審公判は、福島地裁で長尾信裁判長ら四判事、検察側は山本諫ら四検事、弁護団側は岡林辰雄、大塚一男の他に共産党の袴田里見、読売争議の鈴木東民〈トウミン〉らが特別弁護人として立ち会った。
山本諫検事が読み上げた起訴状は杜撰そのものであった。
「被告人らは他数名と順次共謀の上、八月十七日午前二時ごろより三時ごろまでの間、バール、スパナ等を使用し、線路左側軌条継ぎ目板のボルト・ナットを抜いて取り外し、犬釘、軌条、支材等を抜き取り……、四一二号列車を脱線、転覆、破壊せしめ……」
全文三百二十数字、原稿用紙一枚分にも満たない前代未聞の起訴状であった。
弁護団側は反論した。
「共謀の他数名とは誰のことなのか、順次共謀とは、いつ、どこで、誰が、何を、共謀したのか。バール、スパナ等の、等とは何か。軌条支材等、とは何か。これでは、被告側は防御のしようがないではないか」
検察側は、「順次共謀」は、当初、「一回の共同謀議があった」としていたが、公判が回を重ねると、犯罪構成の土台となるべき共同謀議の回数を、二回にしたり、三回にしたり、五回にしたり、醜態と言えるまでに変えていった。
松川事件の犯罪構成のカナメは、共同謀議の成否にかかっていた。
検察側が共同謀議の構成を、東芝松川労組側から参加した「太田省次自白」を根拠としたことは先に述べた通りだが、太田省次は三十三歳の共産党員で東芝松川労組の副組合長をしていたにもかかわらず、弁護団側が要請した精神鑑定に対する東北大学石橋俊実教授の鑑定結果は、「精神病質で偏倚性格があり、拘禁、脅迫、暗示で動かされやすい状態にあった」であった。事実、 最高裁への上告中に、拘禁性反応のため勾留が停止されて入院した。
結局、共同謀議は二回行われたとして論争された。
第一回共同謀議(事件発生四日前の八月十三日)は、座長をつとめたとされた国労福島支部執行委員長の武田久と、同闘争委員の斎藤千の両幹部が、同日、郡山署に逮捕されていた労組員と面会するため同署留置場を訪れていたアリバイが立証されたため、まず、崩れた。
検察側主張の第二回目共同謀議は、第一回謀議を継承して八月十五日に福島で行われたとされていたが、ここにも、強力なアリバイが発見された。謀議に参加したとされた東芝鶴見工場・執行委員長の佐藤一(二十八歳)が、同日、松川工場内で会社側と団交していた事実が立証され、団交後の昼食時にも松川工場八坂寮にいたところを目撃したという証人が多数出てきたため、この第二回謀議も崩れた。
次に検察側が出した物的証拠も崩れてしまった。
第一の物証は、赤間勝美が列車転覆工作に使ったという手袋だったが、手袋が鑑定に出された 結果、山形大学繊維工学・田中道一教授の鑑定報告によると、証拠品の手袋には赤間が自白したような「修繕の跡」はなく、「麻糸」もついていなかったことが明らかとなり、手袋の物証は完全に崩れた。
第二の物証は、スパナとバールであったが、山形大学工学部・武蔵倉治〈ムサシ・クラジ〉教授の鑑定によると、「二十四センチのスパナで、継ぎ目板のボルト・ナットを取りはずすことは、物理的に不可能だ」と断定された。
バールとスパナは、現場近くの水田の中から発見されたとされていたが、高橋二介・松川線路班工手長の証言によると、「裁判所に提示されたバールに、Yのローマ字が刻みこまれており、 爪の先にXの字が認められるが、Y印もX印も松川線路班には存在しないものだ」とされた。
通産省工業技術院の鑑定でも、証拠品のスパナは非常に柔らかい軟鋼製で、日本標準規格品としては不合格品だと断定された。いったいどこで製造されたものであろうか?
さらに、破壊工作容疑者・高橋晴雄の身体障害度の医学鑑定を行った東北大学医学部は、高橋が奥羽線庭坂駅で転轍手をしていたとき、雪に滑って左・坐骨骨折、右・恥骨骨折で尿道破裂を縫合。普通の状態では椅子に腰をかけられない。継ぎ目板をはずすどころか、夜道を歩いて現場に行けるような状態ではなかった、とされた。【以下、次回】
福島地裁長尾信裁判長の「信」の読みは、調べていない。山本諫検事の「諫」の読みも調べていないが、あるいは「いさむ」か。