礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飯坂温泉・若喜旅館に対敵情報部の工作員がいた

2020-11-10 00:16:18 | コラムと名言

◎飯坂温泉・若喜旅館に対敵情報部の工作員がいた

 大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)から、「19 三鷹、松川事件のデッチ上げ証言」の章を紹介している。本日は、その六回目(最後)。

 日本の自由民権運動は福島県で発生したが、幕末から維新にかけて貧困は常に同居し、大正時代の米騒動でも事件が多く、猪苗代湖の発電所開発には「ウサギ狩り作戦」の中国人や朝鮮人が大量投入された。ゼネストからドッジ・ラインにかけて、福島県は最も先鋭的な労働運動の拠点とされていた。
 GHQが作成した統計では、福島県の登録共産党員は千三百五十九名、シンパは三万四千四百二十七名で、松川事件発生前から仙台に拠点を置いた対敵情報部〔Counter Intelligence Corps〕は、福島、若松、平、郡山に分隊を設置、事件発生時の福島分隊は、アンドリュース少佐以下、三十名の工作員を抱えて、大尉、中尉の白人将校の他に、ハワイ出身の数名の日系二世将校と下士官がいたといわれた。
 弁護団側が疑惑の目を向けた「日本少女歌劇団」について付記しておきたい。
 事件発生時、虚空蔵〈コクゾウ〉祭りの客を集めて、松川駅前の「松楽座」で興行を打っていた「日本少女歌劇団」は、戦時中、満州、朝鮮で軍の慰問興行をやってきたドサ回りの田舎芝居で、座長の島幹雄は、噂だが、各地の軍政部や対敵情報部に取り入っていたそうだ。
 弁護団は、この島幹雄が対敵情報部の了解の下に、パージされた多数の元特高警察の残党を雇っていたことを明らかにしたほか、「松楽座」の楽屋裏を仕切っていた野地タケの次のような証言を手に入れた。
「列車転覆事件の夜は興行予定はなかったのに、急にやることになりましたが、松川の旅館に泊まっていたバンドの男十人が、急に布団が汚れているとケチをつけて、福島で宿を探すと出ていきました」
 岡林〔辰雄〕弁護人(前出)は、この少女歌劇団の全資料を公開せよと迫ったが、差し戻しの二審公判までは、検察側は少女歌劇団の捜査はノータッチで、差し戻し判決後になって急に捜査をはじめたものの、逆に証拠隠滅を行った疑いさえ抱かれるフシがあった。
 五八年〔昭和三三〕十一月のことだったが、名古星の熱田郵便局の消印つきの封書が、松本善明〈ゼンメイ〉弁護人(国会議員となる)に届けられた。差出人は名古屋・丸高旅館とあっただけで不明だったが、内容は次の通りだった。
「被告は全員犯人ではない。真犯人は私たち七名と共産係(何かの機関と思われる)二名だ。真犯人でない被告たちが十年も苦しんでいるのを見るのは気の毒でたまらない。最高裁の公判によっては、自首するつもりだから、被告たち頑張ってください。私たちは名古屋に三人、前橋に二人、岡山に三人いるが、国鉄、東芝とは関係ないものだ」
 転覆事件発生当夜、松川の呉服店〔大槻呉服店〕の土蔵破りを企んだという二人組の強盗が、差戻し審で証言したが、二人は事件当夜、現場近くで九名の不審な男を目撃し、「男たちが、飯坂温泉はどっちの方向か、と話し合っていたのを聞いた」というのだ。福島民報・編集局長をしていた永沢茂美の証言は、「福島郊外の飯坂温泉の若喜〈ワカキ〉旅館には、対敵情報部のジョセフ・マッサーロという工作員が住みこみ、警察や右翼と会っていた」という。
 その職業柄、この永沢証言も軽視できないが、「日本少女歌劇団」のケース以上に、対敵情報部を絡めた捜査は当時は不可能に近いものだった。

 文中、「二人は事件当夜、現場近くで九名の不審な男を目撃し」とあるが、正確には、不審な男を目撃したのは、二人組の強盗のうちの一名である。
「19 三鷹、松川事件のデッチ上げ証言」の章は、松川事件の紹介としては、よくまとまっているが、残念ながら、大森独自の取材のあとが、あまり見られない。
 ただし、章の最後、本日、紹介した部分で、日本少女歌劇団、バンドの男十人、島幹雄、九名の不審な男、飯坂温泉、対敵情報部、若喜旅館、といったキーワードを次々と繰り出すことによって、読者の想像を書きたてる筆力は、さすがと言わざるをえない。
 明日は、時枝理論の紹介に戻る。

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コメント
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