◎浅薄で非科学的な哲学とは
古在由重『現代哲学』(三笠書房、一九四六年五月)の「新版への序」によれば、同書の初版(一九三七)は、「初版発行と同時にけづりとられた」箇所があるという。それは、第四章の一部、および第八章の一部だという。
この削られた箇所を確認したいところだが、あいにく、国立国会図書館の利用が制限されていて、すぐには確認できない。とりあえず、「四 観念論のドイツ的形態」を、少し、読んでみることにしたい。
文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。註とあるのは、章末にあった原註である。
四 観念論のドイツ的形態
アメリカの典型的な哲学すなはちプラグマティズムの代表者だつたウィリアム・ジェイムズは今世紀のはじめにいつた――
『哲学のやうな主題においては、人間性の外気との連結をうしなひ職業的伝統の術語だけで考へるといふことは、まことに致命的なことだ。ドイツでは形式が非常に専門化されてゐて、だれでも講座をしめて本を書いた人ならば、たとへ偏屈偏狭であらうとも、主題の歴史においては琥珀のなかの蝿のやうに永久に異彩をはなつべき正当な権利がある。あとからきた人々はすべて彼の言葉を引用し、自分たちの意見を彼の意見とくらべあはせる義務がある。職業的競技の規則はかうである――彼らは排他的に仲間から、仲問のため、仲間だけで考へたり書いたりする。このやうに外気を排除するにつれて真の展望はすべてうしなはれ、極端な説や奇妙な説が正気として通用し、おなじやうに注意を要求する。そしてたまたま何人かが直接に主題に心をそそいで結論だけについて平易に書けば、それは浅薄〈センパク〉な代物で全然非科学的なものとみとめられる。……さいはひにもイギリスの精神やフランスの精神の方が、なまな技術や野蛮をきらふことによつて、まだ真理の自然らしい姿のちかくにゐる』。(1)
ヘーゲルを最後の環とするドイツ古典哲学の歴史の終結とともにドイツ人の理論的感覚は『教養ある人々』からドイツ労働者階級へうつされた事実にエンゲルスはいくたびか言及した。 ジェイムズがドイツの亜流哲学者および哲学研究者たちに痛烈な皮肉をむけたのは、決して理由のないことではない。なほそこでジェイムズはいたづらにドイツ哲学のアカデミー的な形式だけをまねるアメリカの若い神学研究者たちにも警告を発してゐる。
ドイツ哲学への偏執といふ事実はおそらく日本のアカデミー哲学についてもいはれうることだらう。そしてここにおいてもドイツ哲学はおほくの場合に形式的な模倣の形で移植されてゐる。哲学研究のためドイツにおもむいた日本の一留学生がドイツの一哲学教授から『なぜ君たち日本人は、わかりやすいイギリスやアメリカの哲学のかはりに、むづかしいドイツの哲学をえらぶのか?』とたづねられたといふ話を、かつて私は耳にしたやうに記憶する。不幸にして私はこの留学生がどんな答をしたか知らない。しかしいづれにせよこのことは注目すべき一つの事実である。
ジョン・デューイおよびバートランド・ラッセルはそれぞれ現代のアメリカおよびイギリスの最も代表的な哲学者といへよう。この二人の哲学者はその講演および著作によって隣邦・中華民国の若いインテリゲンチャには多大の感銘と広汎な影響をあたへた。中国にのこした彼らの思想の足跡はいまもなほいちじるしい。しかるに世界戦争後に日本をも訪問したこの二人の哲学者は、なんら永続的な感銘も影響をものこさなかつたやうに見える。日本のアカデミー哲学もまた、少数の例外をのぞいては、イギリスおよびアメリカの哲学を『浅薄な代物で全然非科学的なもの』として軽蔑してゐるやうに見える。それはことに哲学におけるアメリカニズムに対しては完全な黙殺か、さうでなければ神経的な反撥をもつてこたへてゐる。しかし日本に流行するところのドイツ亜流哲学の拙劣な模倣もそれと同様に、――いなそれ以上に浅薄な、非科学的なものではないだらうか?【以下、次回】
註
(1) ウィリアム・ジェイムズ『多元論的宇宙』一九〇九年・第一講・一七頁以下。