礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝理論はなぜ難解といわれるか

2020-11-27 01:39:00 | コラムと名言

◎時枝理論はなぜ難解といわれるか

 三浦つとむ著『言語学と記号学』(勁草書房、一九七七)から、「時枝誠記の言語過程説」という論文を紹介している。本日は、その四回目。
 文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。

    時枝理論はなぜ難解といわれるか
 時枝理論は「難解」だという定評がある。ソシュール理論に徹底的に反対するものとして、小林英夫はオグデン=リチャーズの『意味の意味』と時枝の『国語学原論』をあげ、「いずれおとらず難解であって、批判力の養われないうちにひもとくことわ、好ましくない。(1)」と書いている。誤謬のとりこになるぞ、という警告である。けれどもこの二書は難解な点で同じでも、難解の理由はかなりちがっている。オグデン=リチャーズは対象を処理しかねてあちらこちらで混乱しているので、難解の責任は著者の側にあるのだが、時枝はふみはずしがあるとはいえ本質をかなりよくつかんでいるので、難解の責任はむしろ読者の側にあるといってもいいすぎではない。別のいいかたをすれば、時枝理論を一応正しく理解してその弱点をもある程度訂正できるくらいの能力がないと、言語学で創造的な仕事をすることはおぼつかないのである。
 従来の言語学では、言語における「立場」などというものを論じたことがない。それゆえ時枝が、「主体的立場」と「観察的立場」との識別はきわめて重要な問題だと強調しているのを読んで、首をひねって難解だとつぶやいた人も多かったであろう。むりもないことである。
「言語を行為し、実践する立場を、主体的立場といひ、言語を観察し研究する立場を、観察的立場といふ……(2)」
「言語に対する立場 一 主体的立場――理解、表現、鑑賞、価値判断
          二 観察的立場――観察、分析、記述
 言語に対する一切の事実即ち日常の言語の実践より始めて、言語の教育、言語の政策及び言語の研究等は、凡てこの二〈フタツ〉の立場を明かに識別することから始められねばならない。先づ最初に、言語の具体的実践が、主体的な表現行為であつて、それ以外のものでないといふことは、極めて重要なことである。(3)」
 この二の立場がなぜ区別されなければならないか、どんな過程で成立するかの、理論的解明はない。それはこの立場論が、古典解釈の実践から経験的にひき出されたからである。「解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へ。(4)」「言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならない(5)」と考えて、この追体験する立場とそうでない立場とを区別する必要を認めたからである。ところで古代人の和歌や日記などノン・フィクションの文章にしても、書き手の言語体験はとっくの昔に消滅してしまっているのであるから、その表現過程を逆に辿って追体験するということは観念的にしかなしえない。漱石の『吾輩は猫である』がフィクションであることはいうまでもないが、漱石の言語体験は漱石としての立場ではなく「猫」の立場でなされているのであるから、読者の追体験も同じように「猫」の立場ですすめなければならないことになる。漱石がそして読者が「猫」の立場になったとしても、それは観念的なことであって、漱石も読者も依然現実的には人間である。それゆえ時枝のいう「主体的立場」とは、人間が観念的な自己分裂においてつくり出したところの、現実的な自己と区別されるべき観念的な自己のありかたにほかならない。(6)「猫」の立場では、苦沙弥〈クシャミ〉先生は存在するが夏目漱石は存在しないし、現実的な読者の立場では、夏目漱石は存在するが猫も苦沙弥先生も空想的な存在でしかない。この二の立場を正しく職別しなければならないと強調するのは、当然すぎるほど当然である。しかしながら、時枝が「言語主体」とか「主体的な表現行為」とかいう場合の「主体」は、「話す人」で「哲学の問題とは、全く無縁な、常識的な考へ方に過ぎない(7)」にもかかわらず、「主体的立場」という場合の「主体」はフィヒテ的観念論の自我に相当するものであって、哲学的に・正しくいうならば認識論的に・説明しなければならないのである。常識的な考えかたの主体と常識では処理できない特殊な主体とが、同じことばで、しかもその成立過程の解明なしに問題にされているのであるから、読者がこの両者を混同してしまって、難解だとなげいたり観念論だと非難したりすることにもなったわけである。
 右の引用にもあるように、時枝は表現も理解もどちらも「主体的立場」だと説明している。けれども野球の実況放送のように、話し手が目の前に存在している事物を観察して表現する場合もあれば、ポオの小説「黒猫」のように、空想の世界の話し手が一人称で物語を展開する場合もあって、前者は現実に「観察的立場」で表現するが、後者は観念的な自己分裂によって観念的な自己が空想の世界の話し手にならなければならない。しかも、この現実には主体的立場をとっている話し手が空想の世界の中では黒猫に対して観察的立場をとっているという対立物の直接的な統一すなわち矛盾が存在する。そして聞き手や読み手のほうは、話し手が「観察的立場」で実況を語っていようと、書き手が主体的立場で空想を述べていようと、いずれの場合でも観念的な自己分裂なしには追体験することができないのである。時枝は、理解がすべて「主体的立場」でなされるという正しい理解から、表現もすべて「主体的立場」でなされるかのように不当に拡大解釈してしまった。これでは読者が難解だとなげくのも当然である。【以下、次回】
(1) 小林英夫『言語学通論』(一九四七年)二二六頁。
(2) 『国語学原論・続篇』五頁。
(3) 『国語学原論』二三頁。
(4) 『国語学への道』七七頁。
(5) 『国語学原論』一四~五頁。
(6) 観念的な自己分裂についての詳細な説明は、三浦つとむ『認識と言語の理論』二二頁以下参照。これは認識論における矛盾の発展であって、中国的にいえば一分為二の一つの形態であるが、マルクス主義の教科書類は従来この矛盾をまったく無視していた。
(7) 『国語学への道』一〇一頁。

*このブログの人気記事 2020・11・27(なぜか穂積八束が急上昇)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする