◎毎夜安眠できただけでも感謝のかぎりだ(石川武美)
『主婦之友』第三〇巻第四号(一九四六年四月)から、石川武美のエッセイ「陽気な生活」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
そんなことを考へながら歩いてゐると、ひよつこり出遭つたのが旧知の実業家だ。苦労を共にした奥さんに死に別れ、女医にまでなつた長女に先きだたれ、残る一人の娘さんも長病【ながわづら】ひで、疎開先で床についたままといふ。〝この齢【とし】になつてこんな目に、遭はうとは思ひませんでした〟といふ歎きは、不幸を誇張したものではなかつた。〝でもお宅は焼けのこつたし、あなたも御丈夫だし〟といふと、〝もつと不幸な人のゐることを思ふと、不平どころかありがたいことですよ〟と、元気よくわかれていつた。不幸の上塗【うはぬ】りをするものは、自分の不幸を気にしすぎるときだ。もつと不幸な人のあることを思ひ、残された自分の幸福を思ふと、喉【のど】まででた愚痴【ぐち】もだせなくなる。〝幸福〟はひとのもので、自分のものではないやうに、思ひひがんでゐたことが恥づかしい。そして、ながく忘れてゐた〝感謝〟が、胸によみがへつてくる。
〝今ごろ感謝があるものか〟と、思ふかもしれぬ。それも尤【もつと】もだが、かういふときなればこそ、感謝がありはせぬか、空【す】き腹には一椀の粥【かや】や雑炊【ざふすゐ】にも、はじめて知るよろこびがある。贅沢【ぜいたく】の日には感謝はない。今だからこそ感謝がある、火の気のないこの冬は寒かつた。その冬も過ぎた。やがて春だ。寒かつたといつても、空襲のはげしかつた前の冬を思ふと、ありがたい冬であつた。一夜に二度も三度も空襲警報でおこされ、そのたびに防火用水の厚い氷をわつたことを思ふと、この冬はその苦労も心配もなくてすぎた。毎夜安眠できただけでも感謝のかぎりだ。冬の食糧欠乏もつげられてゐたのに、経済失調はしたが、 栄養失調もせずに生きのびた。ありがたいことだ。数へあげると感謝は山ほどありはせぬか。
〝感謝は感謝を呼ぶ〟といふ。〝感謝は奇蹟の母〟ともいふ。五つのパンと二つの魚で、数千人を食べあかせた、イエスの奇蹟の物語かある。弟子が用意した弁当であらう。この弁当のほか手許【てもと】に食べるものはなかつた。数千の聴衆をこのまま帰らせては可哀さうだ。途中でひもじいだらう。イエスにはそれが心配であつた。食べさせてやりたいが、せいぜい一人か二人分しかない。ほかの数千人はどうなる。その空腹を思ふと、じつとしてはをれぬ。一人でも二人でもいい。とにかく〝私の弁当を食べてゆきなさいよ〟と、傍【そば】にゐたものにイエスはわたした。お弁当よりもその情けを、貰つたものはよろこん だ。〝なんといふ御慈愛だらう〟と、感謝してうけた。この同情に感激したのは、もらつたものばかりでない。それをみて皆んなが感動した。そして、〝私も弁当がここにあつた〟といつて、隣の人に、〝どうぞおあがりください〟とわけた。この光景にうごかされて、あつちでもこつちでも、〝どうぞ〟〝どうぞ〟とわけ、〝ありがたう〟〝ありがたう〟とうけ、 感謝は感謝の波をよび、みんなが腹も心もみたされて、食べ残りが籠【かご】にいくつもあつたといふ。
実に美【うる】はしい話だ。五つのパンの物語は、人の世の奇蹟であるが、断じて奇術ではない。五つのパンにはじまつたが、愛の行為はいつの世でも、誰がやつても、かういふ驚くべき結果をうむ。今の世にもこの奇蹟はある。われわれの身辺にないといふのは、あまりに自分のことばかりに執着【しふぢやく】して、ひとを思ひ人に尽すことがないからだ。奇蹟はもとめぬが、わがなしうる愛の行為は、なさねばならぬ。物資の不足もさることながら、さらに不足してゐるのは、ひとを思ふ心である。この心さへあれば,敗戦国ながらもゆたかな生活が、できるにちがひない。
わづか五つのパンでも、〝ひもじい目をさせては可哀【かはい】さうだ〟といふ同情心を添へると、数千倍のはたらきをした。われわれは貧しい日本の敗戦国民だが、五つのパンにまさるものをもつ。ただそれに添へる心をもたぬのだ。信仰をはなれても、この物語の意義はふかい。理窟なしにやつてみればわかる。一度でもやつてみることだ。人の情けに飢ゑたこのごろは、心のうるほひは大きいはすだ。このうるほひが、ものを育てる力だ。この世を明るくする素【もと】だ。
(一九四六年、一月廿五日、石川武美)
いかにも、キリスト者的な「説教」ではある。しかし、コロナ禍の今、これを読んでみると、妙に説得力がある。
イエスにパンを要求した数千の聴衆を誰が笑えるか。この間、日本人の多くが、政府からの給付金に感謝したではないか。休業補償の手続きに奔走し、Go Toの恩恵にあずかろうとした者もいたではないか。
かつて私は、ここで石川武美がおこなっている「パンの奇蹟」の説明を読んで、ハタと膝を打った。これは、「パンの奇蹟」に対する、ほとんど唯一の合理的な解釈である、と思った。イエスにパンを要求した聴衆の多くは、実は、それぞれのフトコロに、パンを隠し持っていたということだ。――こう解釈することが、石川の真意とズレることは、もちろん承知している。