礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

言論機関を味方にする必要がある(山口一太郎)

2021-01-30 04:16:07 | コラムと名言

◎言論機関を味方にする必要がある(山口一太郎)

 石橋恒喜『昭和の反乱』下巻(高木書房、一九七九年二月)から、「二十二 やった! 革命だ――」の章を紹介している。
 本日は、その三回目。

 襲撃を免れた東京日日
 やがて午前九時、東京朝日が武装部隊に襲われているとの情報が伝わってきた。私は覚悟を決めた――来るべきものが来たのだ、と。すなわち、彼ら皇道派青年将校が、東京日日、東京朝日などに憎悪の目を向けていたことは前述のとおりである。それは真崎〔甚三郎〕教育総監の罷免事件のさい、両紙のとった報道論評態度が、あまりにも〝反皇道派、親統制派〟的(反軍的であったというのではない)であるというにあったからだ。
 たちまち編集局内は騒然となった。東京朝日が襲われたからは、次は東京日日の番だ。間もなく〝来たぞ、来たぞ〟という声が聞こえてきた。編集総務の杉山幹〈カン〉が、〝しずまれ、しずまれ〟と一同を制止している。私は三階の窓辺へ駆け寄って、武装部隊の動きを見守った。先頭は一団の将校を乗せた乗用車。そのあとには機関銃と着剣の下士官兵を満載した軍用自動貨車二輌が続いている。乗用車から飛び降りたのは栗原安秀である。いよいよ乱入かな――と考えていると、庶務部長の小泉が、雪の路上へ呼び出された。栗原が何か言いながら、印刷物を小泉に手渡した。すると意外にも、彼らはあわただしく立ち去ってしまった。印刷物というのは例の「蹶起趣意書」だ。それを新聞に掲載して欲しい、というにあった。私は放心状態になって、しばらくその場に立ちつくした。ヤレヤレ、助かった、と。
 では、なぜ東京日日を襲撃しなかったのか? 私がそのわけを知ったのは、事件から七年後のことである。そのわけはこうだ。
 ――昭和十八年〔一九四三〕の晩秋、大東亜戦争勃発とともに、南方戦線にあった私は、二年ぶりで東京の土を踏んだ。ある日、読売新聞の友人、鴇沢幸治から電話があった。彼は陣軍省詰めの軍事記者を経て、当時、同社の航空部長のイスについていた。
「ワン太さん(山口一太郎)が君に会いたがっている。彼はこのほど出所し、いま萱場〈カヤバ〉製作所の技術部長として飛行機の増産に懸命となっている。これから用事があって彼のところへ出かけるが、どうだ、いっしょに行ってみないか」
 早速、鴇沢の車に同乗して、製作所を訪問した。山口は長い獄中生活の疲れを顔に浮かべていたものの、元気で製図台に向かっていた。そして、獄中では戦闘機の二〇ミリ機関砲の設計と取り組んでいたこと、私の書いた日中事変従軍記を読んでなつかしかったことなどを語って、話は尽きなかった。その時、彼は笑いながら言った。
「そうだ! 君におごってもらいたいことがある。それは二・二六事件の突発した朝のことだった。小藤連隊長〔小藤恵歩兵第一連隊長〕から臨時の連隊副官を命じられたわしは、栗原部隊の偵祭に総理大臣官邸へ車を飛ばした。官邸前へ到着すると、ちょうど栗原中尉が出動しようとしている。〝栗原! どこへ行くのか〟と呼びとめた。すると彼は〝東京朝日と東京日日に、一発お見舞いしてくるのだ〟という。驚いたことには、重機、軽機まで装備している。そこでわしは〝乱暴はよせ。昭和維新を成功させるためには、言論機関を味方にする必要がある。ことに東京日日の襲撃はやめろ〟と命令した。栗原は大きくうなずいて出て行った。どうだ、わしの一言で君の社は難をのがれたし、東京朝日も、活字ケースをひっくり返されたくらいの損害ですんだわけさ」
「そうだったのか、ありがとう」――私は彼に礼をいって、鴇沢といっしょに辞去した。

 山口一太郎が事件当時、栗原中尉に向かって、「ことに東京日日の襲撃はやめろ」と言ったかどうかは、不明である。しかし、本当に、そう言ったとしたら、それは、東京日日には石橋記者がいるから、という含みだったのであろう。
 文中、鴇沢幸治という人名が出てくる。「鴇沢」は、「ときざわ」と読むのであろう。「幸治」の読みは不明。
「二十二 やった! 革命だ――」の章は、このあとに、もう一節、「〝昭和維新の断行あるのみ〟」の節があるが、同節の紹介は割愛する。
 石橋恒喜著『昭和の反乱』の紹介は、このあとも続ける予定だが、明日は、いったん、話題を変える。

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