◎氏神様の氏子であって仏教徒であることに矛盾を感じない
『日本教育』(The Nippon Kyoiku)の第五巻第六号(一九四六年三月)から、「国家神道と教育」と題された座談会記録を紹介している。本日は、その四回目。
記者 神棚とか御写真を教室に掲げてゐたに就ては、それ等を取除ける〈トリノケル〉のに、先生達は心理的に非常な困難を感じてゐるらしいのです。神棚は寧ろ問題がはつきりしてゐて、学校で祀つてはいけないといふ建前ではづしたさうですけれど、一番困つたのは、宮城〈キュウジョウ〉等の御写真です。国民学校に大概〈タイガイ〉宮城と、皇太神宮〈コウタイジングウ〉の御写真がある。それを如何に撤回するかといふ事で困つたのです。或る国民学校では、教師の各自に委す〈マカス〉と云つたさうです。それで、その委された教師に聞いて見た処が一人の先生は、室内の装飾を全体的に変へやうと云ふことにして、この御写真も余り長い間かゝつてゐると云つて、何時の間にか無くしてしまつた。もう一人の先生は、後一週間すると、休暇になるから、その間に、生徒の居ない間に取除かう〈トリノゾコウ〉と思つてゐるといふやうなことを言つて居りました。
篠原 神棚の問題もありますけれども、宮城の御写真は今度禁止せられてゐるのですか。
岸本 宮城の御写真が単に学校にあるだけなら差支えないでせう。併し、これを宗教的な気持で、拝むといふことになると、一応は問題になると思ひます。
篠原 〔東京高等師範附属国民学校では〕教室の正面にかかつてるのですが、これはどういふものでせうか。
近藤 それは宮城を遥拝する意味で拝んで居つたのではありませんか。
篠原 今度明治神宮でも、伊勢神宮でも、遥拝は差止められたが、宮城遥拝は差支えなしといふことになつて居ります。それと関係しまして、教室の正面に掲げてあるのは宜いのでせうか、悪いのでせうか。
岸本 問題が余り具体的になると、何とお答へしてよいかわかりませんが、要するにこれはかけ方と、取扱ひ方の問題であると思ひます。
斯様な写真が学校にあることには差支えないと思ひます。神棚撤回の問題は、その時に、若し先生が児童に「銘々が神と信ずることは今迄と同じやうに尊いことだ、然し神道以外の神を信ずることも亦尊いことなのだ。今後は自分の立場から判断して、各々が尊いと信ずる神を信じたら宜いのだ」と言つて戴けたら宜かつたと思ひます。又実際の解決もさうあつて然るべしと思ひます。
近藤 私の方〔東京第三師範附属国民学校〕には教室には神棚がありませんでした。小使室と、宿直室にあつたので、学校とは関係なかつたのです。
篠原 岸本先生の只今仰有つた〈オッシャッタ〉やうな具合で撤回をして行けば、家庭で神棚を毀す〈コワス〉といふことはなかつたと思ひます。
湯田 躾け〈シツケ〉の方でありますけれども、神社の清掃、作業奉仕といふやうなことを、吾々教師の側から言はずとも、児童達子供同志の自治会とか何かで毎日やらうぢやないかといふやうな申合せのやうなことで。やる場合には干渉しないでも宜いのですか。
岸本 勿論宜しいと思ひます。唯その時に、信教自由の精神に徹せられるならば、同時に、お寺の前の掃除も、したらどうでせう。教会の前も綺麗にしようではないか、と云ふ指導も可能だと思ひます。そこ迄徹せられることが、立派ではないでせうか。氏神様だけ大事にして、お墓のあるお寺は大事にしないと云ふのは知らず識らずの間に片寄つてゐるのではないでせうか。
記者 神社の前を通過の際の敬礼ですが、あれはどうですか。
岸本 銘々がほんとうにさういふ気持になつた場合に、さうするのは宜いことではないでせうか。少し話が一般的になるかも知れませんが、嘘があり過ぎるのはいけないと思ひます。デモクラシーといふことも、一番の根本は何かと言ふと、銘々が自分といふものに忠実であり、自分の心を尊敬することだらうと思ひます。お辞儀したければするのが宜いし、したくなければしないのが自然ではないでせうか。勿論これも行きすぎると放縦に流れる恐れがありますが、したくないのに無理にさせて、それで実効が挙つてゐると形式的に考へてゐた所に、今迄の教育に多分の間違ひがあつたのではないでせうか。
記者 強制され観念があつてはならないといふのですね。
岸本 子供の心の中に、常に強制されてゐると云ふ意識が動いてゐることは教育の遺憾なことだと思ひます。
湯田 家庭で朝起きて顔を洗つて神棚を拝む、仏壇を拝むといふ、従来やつて来たことにも、干渉せず、家庭の美徳として教師側からも、干渉しないのですね。
岸本 氏神についてもう一言ついでに申上げると、この問題については、向ふ〔司令部側〕の宗教関係者の側に充分に諒解が求めてある積りです。即ち、それは仏教や基督教の場合と違つて民の神道の場合は氏神様の氏子でありながら、仏教徒になり、基督教徒になつて、少しも矛盾を感じてゐないといふのが、大多数の日本人の現実の事実なのです。
随つて氏神に対する態度といふものが、基督教や仏教に於けるものと違ふといふことは、司令部側もどれ程かは諒解してゐることと信じます。又吾々も斯様な伝承の事実を強いて忘れる必要はないと思ひます。勿論其処にも程度問題が出来ますが。
中島 又宮城の御写真のことになりますが、それと天皇の問題との関係はどう云ふことになりませうか。子供の中には色々の考への者もありませうから、さういふ雰囲気の中に、御写真があるといふことは如何なものでせうか。
岸本 天皇の問題については日本人が個人としてその自由意思によつて、天皇を崇拝するのであれば、如何に崇拝しても差支えない筈だと思ひます。併し学校といふ教育機関の場合は、問題がおのづから別です。然し崇拝と尊敬とは別だと考へます。天皇を尊敬することはいくら尊敬しても、又尊敬することを教へても宜いと信じます。
丁度〈チョウド〉アメリカで大統領を尊敬し、イギリスでキングを尊敬するのと同じことです。そこで二重橋の写真に立戻つて考へて見ると写真そのものの問題ではなく、それが天皇を崇拝する道具として用ひられ、それによつて天皇崇拝が強制されることになると問題が起ることになると思ひます。【以下、次回】
記者の発言の中に、「神社の前を通過の際の敬礼」とあるのは、戦中、路面電車に乗って靖国神社の前を通過する際は、神社に向かって敬礼するなどの不文律があったことを示していると思われる。
なお、ここでの岸本英夫の発言を見ると、彼はこの当時、日本の学校教育における宗教の扱いという問題をめぐって、司令部側と何らかの交渉をおこなう立場にあったと推測される。