◎教育者自身も空疎を感じてゐるのです(出席者一同)
『日本教育』(The Nippon Kyoiku)の第五巻第六号(一九四六年三月)から、「国家神道と教育」と題された座談会記録を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
近藤 国定教科書の中に「日本よい国強い国、世界に一つの神の国、世界に輝くえらい国」といふのがあります。曽て文部省に居られた某氏が、是は敗戦後の今から考へると、いやな感じがするけれども、立派に日本の文化国家、道義国家の理念を為すものだから、残して置くといふ事を或時の師範学校の会議の時に言つて居られましたが、国家神道が全面的に変失する事になつた今日、比の意見は通用しなくなつたと思ひますが、当時でも私の考へでは削除されて宜いやうに思ひました。
岸本 神の国といふやうな考へ方に就いては、さう考へるか考へないかは、銘々の自自だと思ひます。併し、それを強制する事は行き過ぎになると思ひます。各人が信ずる自由 は何処迄もあるとしても、国民学校の教育が義務教育であるといふ点に立脚して考へると問題は非常にはつきりして来ます。処で読方など、削除された教科書を使つて居られますか。
篠原 文部省から来てゐる達示には、一部削除といふのもあり、一部分修正といふものもあります。それを消しますと、文のつながりが悪くなつてしまふ。然し先生の手加滅一つで、何とかわかるのではないかとも思ひます。
近藤 遠慮のない所を申しますと、削除してしまつたら、今となつては、教科書の何処を開けてもさつぱりした気がしますね。
岸本 国民学校の先生方が、削除を天降り〈アマクダリ〉的に考へて、已む〈ヤム〉を得ないものだといふ風におとりにならずに、削除の意味をお考へになるといふ事が、非常に望ましいものではないか。削除する方は相当慎重に考へて削除してゐるですから、その意味を充分に理解して行かれると、これは不思議な言ひ方かも知れませんが、削除された事実の中に、日本の行くべき新しい方向を見出すことが不可能ではないと思ひます。アメリカ側としては、今日の立場ではいけないものはいけないと言はなければならない。しかも一面アメリカの理想を日本に押付けてはならないといふ事を考へてゐます。アメリカの理想を日本に押付けたのでは、付焼刃〈ツケヤキバ〉になってしまふ、従つてアメリカの意志は消極的にしか現はれて来ません。併し日本としては、もとより新しい、良い理想がなければならぬ。削除されたものを充分に噛んでその意味を考へて見ると、その中に積極的なものの暗示が含まれてゐると思ふのです。
近藤 私は〔東京第三師範附属国民学校で〕六年の女の子を持つて居りますが、修身の何処を皆で消さなければならぬかといふ事を子供達に訊ねました。ところが、「ダバオ開拓の士」といふのがありますが、「是はどうなんでせうか。」と質問されました。私は、「是は宜しい。宜しいが太平洋戦争になつて、フィリッピンを侵略し、アメリカ人を追ひ払ふといふ事が書いてありましたが、其処はいけない。日本もフィリッピン人から慕はれるやうにならなければならない。」といふ結論に達して置きましたが、子供達の方からもやはりさうして言つて来ます。
岸本 何の為に削るか。良い理想の為に削るのですね。でもう一つ申上げてみたい事は神道教育と宗教教育との関係です。従来日本の学校では、宗教と教育との分離は、はつきりして居りました。学校で宗教教育を行ふことは全く認められない建前にたつてゐたのです。ところがこの事を司令部の当事者に説明すると、司令部では別の見解を持ってゐる事を知りました。司令部側としては、さうではなくて、日本の学校には大変に強力な宗教教育が行はれてゐたと考へてゐるのです。
それは、神道を中心とした徹底した宗教教育であつたといふわけです。これは、はじめに意外に感ぜられたのですが、よく考へて見るとその中は多分に真理が含まれてゐると思ひます。吾々は神道は宗教でないといふ建前につられて、これを別にして考へてゐたが、神道も宗教といふ建前に立てばその通りです。事実、国民学校の生徒の心の歓び〈ヨロコビ〉、心の拠り所といふやうなものを、どうして与へて来たかを考へてみると、神道といふものを通して与へてゐたのではないか。そこで今後、それらが教材から取り去られることになり、教室で教へられなくなると、子供達は何を頼りにして、心の歓びを持っだらうか。精神の歓びを持って行くだらうか。さういふ所が大きな穴として残つて行く事になると思ひますが、皆さん如何でせうか。
一同 さうです。教育者自身も空疎を感じてゐるのです。
近藤 私共の学校では、〔一九四六年〕一月から公民といふ課を置きました。まだ一年ではどう、六年ではどうといふ事には至りませんが、担任がさういふ方向に向つて、一週間に二時間から一時間位の割で指導してをります。
湯田 私の方〔東京高等師範附属国民学校〕では、公民とか、法政経済を国民学校で取扱ふ訳にも行かないので、道徳といふやうなことで、空疎な時間割を埋めてをります。併し、先程の岸本先生のお話は、それよりももつと深い心の対象になるものといふ意味ではないのですか。
岸本 今迄はこの一つの理想の為には、富も名誉もいらぬといふやうな拠り所であつた。勿論それはイデオロギーとして誤つてゐたかも知れません。併し、今後は左様なイデオロギーは矯め〈タメ〉られたけれども、さういふ心の拠り処が全面的になくなるといふ結果になる虞れ〈オソレ〉があるのではないでせうか。
湯田 宗教教育の必悪な時がやつて来たのです。
岸本 少なくとも、私が恐れて居りますのは、神道の教育を止めた結果、それでなくても宗教、情操を養ふのに欠けてゐた日本の教育が益々空疎に、無味乾燥になるのではないか、といふ事です。神道だけと云はず、神道も含めて全面的に宗教といふものを尊敬する人間の精神的な心の歓びの意味を、生徒に益益与へて行くといふ事が却つて〈カエッテ〉必要になつて来るのではないか。随つて、神道と限らず、基督教、仏教を含めての、その本当の意味を教へるといふ事は、信教自由の精神に少しも抵触しないのではないか。仏教の良い話も其処ヘ持つて行く、基督教の良い話も導き入れる。さういふのが将来の日本の行方〈ユクエ〉であるべきでないかと思ひます。殊に心配になりますのは、先生方が此の際虞れをなして、宗教的な問題に触れなくなるのではないかと云ふ事です。寧ろ、神道が教へられなくなったといふので、宗教情操を涵養するといふ必要が、他の角度から起つて来たといふ事を、国民学校の先生が自覚されるといふ事を望んでやまない次第であります。
海後 今日はこの位に留めたいと思ひます。色々と有難う御座いました。