◎歴史と神話とがごつちやになることがいけない(岸本英夫)
『日本教育』(The Nippon Kyoiku)の第五巻第六号(一九四六年三月)から、「国家神道と教育」と題された座談会記録を紹介している。本日は、その五回目(※)。
海後 神道と教科書との関係は、どうなりませうか。
近藤 それについては具体的個人の問題になりますが、神話の問題は如何に取扱つたら宜いのですか。
岸本 神話がいけないと云はれてゐるのは、神話それ自体がいけないことと云ふことではなくて、歴史と神話とがごつちやになることがいけないのです。例へば、古事記や日本書紀の中に出て来る国造りの神話を、歴史的事実であるかの如くに教へ、考古学や人類学や或は進化論を実現する様な傾向が強かつた処に問題があるのです。それですから、それは古代の日本人の間に伝へられた物語りであると云ふ点を明かにして教へることが出来るならば神話も差支えないことになります。猶、こう一つ微妙な問題として、日本では神話と神道とが結びつき易いと云ふ点があり、それが信教自由の問題に触れて来る面もありますが。
篠原 さうしますと、神話を国語の教師が教へるのは差支えないのですね。
岸本 日本神話は歴史よりも、国語か何かで教へた方が宜いといふことでせうね。
篠原 その時に、是は、昔の人の物語りとして教へましても、小さい子供には事実として受取る傾向が強いけれども、それは差支えないのですか。
岸本 子供が知的に疑ひを待つ迄は、子供自身が神話の世界に居るのですから、日本の神話も本当と思ふでせうし、イソツプに出る物語りも本当と思ふ。それで差支えないのではないでせうか。やがて二年三年生となつて疑ひを持ち出した時に、それが物語りとして理解され、不合理でも事実として信ぜよと云ふ様な力が働かなければ、それでよいのではないでせうか。
湯田 此の〔一九四六年の〕四月から行はれる新教科書には神話は入らないのでせう。
岸本 さあ、教科書がどう云ふ形で出るかと云ふことは、それ自身の様々の問題があると思ひますが、然し神話が将来日本の教科書 の中で占めるべき位置は、主として説話的な文化戦としてでせう。
湯田 先程神話が神道と結び付ぎ易いといふ説がありましたが、忠臣を祀つた湊川神社とか、藤鳥神社とか、さういふ忠臣を祀つた神社との関係はどういふものですか。
岸本 今後も楠木正成のことは教材に出て来るでせうが、湊川神社や藤島神社のことは出て来ないと思ひます。
読方〈ヨミカタ〉の一に「ここはどこの細道だ」といふ歌がありますね。あれは「天神さまの細道ぢや」と云ふ言葉に続きますが、あれ位は残して欲しいものと思ひます。併しあの頁を開けると非常に面白いのです。
反対側の頁にはお宮と石段の話があります。あれには何か神道教育の意図が感ぜられます。
篠原 修身の一年生に「がくかう」といふのがありますが、それに氏神様に礼をしてゐる画〈エ〉があります。ああ云つた取扱ひは、今後入つてて宜いのでせうか。
岸本 それ等を、一つ一つを見ると全く偶然に入つてゐるやうに思はれるのですが、全体を通観して見ると別の意味が出て来ます。あつちにもこつちにも、不必要な処にまで神社やお宮が入つて来てゐます。其処には明かに背後に潜んだ待定の意図を感ずることが出来ます。さう云ふ意図の解消とともに、さうした教材は、今後なくなつて行くと思ひます。
海後 靖国神社、明治神宮、伊勢神宮など此の辺の教材はどうですか。
岸本 教材としては取除かれることになるものと思ひます。教室では教へない筈の事柄になるのです。然し将来は事〈コト〉教養の宣布に関しない限り、例へばお寺の材料も使ふ、基督教の材料も使ふ。さうすると、神道の材料を使つて宜いといふことになるのではないでせうか。併し差当りは一応綺麗に洗つてしまふ趨勢にあるのです。さうしなければ、信教の自由が成立たぬ恐れがあるのですね。【以下、次回】
文中、「考古学や人類学や或は進化論を実現する様な傾向が強かつた」というところがあるが、このままでは意味が通じない。
※昨日は、不注意から、「四回目」を飛ばして、「五回目」紹介してしまいました。そこで、昨日の分の前に、「四回目」だった分を補い、昨日の分を、「四回目」とすることにしました。したがって、本日の分が、「五回目」となります。不注意をお詫びします。