◎佐川さん、その小切手はとんでもないシロモノですよ
『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、杠国義執筆の「日本堂事件」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
同時に現れた二人の上客
銀座の午前中は閑散なものときまっている。昭和二十二年〔一九四七〕十二月二十九日といえば、年の瀬もせまった慌しさを想像するが、さすが銀座だけに日本堂にも客の姿はさっぱり見当らなかった。ただ年末の万引を警戒してかり集めた臨時雇を加えて、三十人もの店員が手持不沙汰〈テモチブサタ〉につっ立っていた
そのとき茶の背広に鳥打帽という五十過ぎの落着いた紳士がはいってきた。と、同時にもう一人、背の高い頑丈な体を紺の背広に包んだ三十余の男が現われた。二人は連れのようでもあったが、店内ではお互いに口をきかず別々に飾窓〈カザリマド〉を物色した。
「いらっしゃいませ」
ひまなときの店ほど愛想がいい。
「その指環をみせてもらいたい」
年配の方が指さしたのはダイヤ入りの高価な指環だ。
「これでございますか」
「ああ、それからこちらの時計も――」
つぎからつぎへと宝石類や高級時計ばかり、数十点も並べさせて、まるで子供がおもちゃでもいじるようにもてあそび出した。
――これは危い!――
店員の目は光った。混雑にまぎれてそのうちの一個ぐらい、こっそりポケットに忍ばせるのはよくある手だ。
ところが驚いたことにはもう一人の若い男までが離れた場所で、同じように高価な品ばかり片っ端から並べさせるのだ。ますますいけない。まさか計画的な共犯者ではなかろうが――と三十人の店員は二手に別れてそれとなく二人を監視していた。そのうち年配の紳士はその気配を察したらしく、いとも無造作に、
「これだけいただきましょう」
ダイヤモンド入指環をはじめ計六点を求めた。やはりイカサマではなかった。上客だ――と、店員はホッと胸をなでおろして、
「ありがとうございます」
「全部で、幾ら?」
「十六万五千円になります」
すると客はポケットからくしゃくしゃになった小切手一枚ひっぱり出した。
「おつりは現金でほしいのだが――」
みると帝銀大森支店支払いの額面二十万円で「大田区入新井〈イリアライ〉四ノ一山口譲」と裏書きしてある。つまり品物といっしょにつりを三万五千円よこせというわけだ。
さきほどから不審に思っていた佐川〔久一〕店主はこれでピンときた。幾度も上客を扱いなれてはいるが、こうも無造作に高級品ばかり買い集めるのはおかしい。しかも小切手の場合は値段をきいてから金額を書きこみ、店員に渡すのが普通である。その小切手はとんだくわせものだ。といって万一ほんとうに上客ならせっかくの商売をフイにする。素早く店員に目くばせすると、ソッと店を抜け出した。そして大急ぎで、かねて取引きのある筋向いの第一銀行銀座支店に飛びこみ、帝銀大森支店に電話で問い合わせてもらった。その間店員は、心得たもので、わざと包装に手間どるふうをよそおい時をかせいでいた。
「佐川さん、その小切手はおよしなさい。とんでもないシロモノですよ」
第一銀行の行員は親切に忠告してくれた。
「へえ、不渡りですか」
「そんな、なまやさしいものじゃありません。銀行の改ざん通帳を抵当に手に入れたらしい。おそろしく手のこんだ詐欺らしいのですが――」
「わかった。わかった」
佐川さんは慌てて店に引き返した。だがときすでに遅し。件〈クダン〉の客はあまり手間どるので感づいたようだ。
「ちょっと煙草を買ってくるから……」
そういい残して店を出るやいなや、近くにある銀座四丁目の地下鉄通路に飛びこみ、あっという間に姿をくらましてしまった。
「シマッタ。逃げたか!」
佐川さんが地駄太〈ジダンダ〉ふんでも後の祭りだった。だがもう一人いる。一同の視線は期せずして若いほうの客に集まった。彼も真ッ蒼〈マッサオ〉になった。
そして、
「またきます」
そそくさと店を出ると、これも地下鉄の方向に消えていった。別に彼はイカサマ小切手を差出したわけでもなく、何ら犯罪らしき証拠がみつからぬので店員も舌打ちして見送る以外に術〈スベ〉はなかった。
失敗に終った小切手サギ
事件はそれだけで、日本堂としては何ら被害があったわけではなく一応所轄の築地署に届けたまま忘れられていたのが、帝銀犯人の人相書をみて、年配の紳士の方がピタリ、年格好から頬のシミ、アゴの辺の傷あとまでこれほど似通った人物はいないというわけである。また佐川さんの弁によれば、
「若い方はてっきり共犯だ。年配の紳士が小切手を怪しまれるといけないので姿をかくし、その時若い方が様子をうかがってその連絡に当り、もし安全なら年配の方が再び品物とつりを受け取りに現われる寸法だったらしい」
との解釈を下していたが、これは単なる客の鉢合せにすぎなかったのかどうか。後の平沢公判では日本堂事件も単独犯として片づけられている。
とにかくわたしはこの事件にたいへん興味をもった。少し時が経ちすぎてはいるが、まだ解決がついているわけではない。もし帝銀事件にくっつきでもすればもっけの幸いだ。山口名刺の線から、とんだ駒が飛出したものだ。社会部のデスクに連絡して、当分この事件のために足を棒にした。
まず小切手の支払い先となっている帝銀大森支店から当ってみると、
「あんな馬鹿げた話はありませんね。小切手を切った方はそれだけ預金がないので本店に入金するまで支払いを待ってくれとこちらにかけつける。すると小切手をもらった側でも、つまりその小切手を利用して一もうけしなければならないはずがいきなり金を引出しにやってくる。そしてここでバッタリ顔合わせ、いったい何のために金を動かしたのやら……、あわてて退散してゆきましたがね。まったくおかしな具合でしたよ」
と笑いながら語ってくれた。なんともはやわかったようなわからぬような奇妙な話である。いずれにしてもわたしは、小切手を振出したという大田区馬込東〈マゴメヒガシ〉三丁目に住んでいる金融業、竹内孝雄さんを訪ねてみることにした。
こうして日本堂にまつわる詐欺事件の糸をたぐるため逆行したのだが事件そのものをわかりやすく説明するためにその発端から順を追って述べることにする。【以下、次回】