◎座談会「国家神道と教育」(1946年初頭)
年末に、部屋の片づけをしたところ、しばらく目にしていなかった本や雑誌が出てきた。『日本教育』(The Nippon Kyoiku)の第五巻第六号(一九四六年三月)もそのうちの一冊である。
なかに、「国家神道と教育」と題された座談会記録がある。読んでみると、非常に興味深いものがある。「史料」としての価値があると思った。本日は、これを紹介してみよう。座談会が開催された日時が明記されていないが、一九四六年(昭和二一)の一月ないし二月と推測される。
国 家 神 道 と 教 育 座 談 会
出 席 者(発言順)
司会 東京帝国大学助教授 海 後 宗 臣
東京帝国大学助教授 岸 本 英 夫
東京高等師範附属国民学校訓導 湯 田 幸 吉
東京第三師範附属国民学校訓導 近 藤 修 博
東京高等師範附属国民学校訓導 篠 原 重 利
東京第三師範附属国民学校訓導 中 島 彦 吉
海後 今晩は岸本先生を中心として、昨年〔一九四五〕十二月十五日に司令部から指令として出された、国家神道の問題に就いて、お話を伺つたり吾々が疑問としてゐる所を論じ合はうと思ひます。殊に国家神道の問題は、神道そのものの問題であると同時に、吾々が関係を持つてゐる国民教育の上に於て、非常に重大な影響がある。又学校に於ては、この指令に基いてどんな教育がなされるかといふ、具体的な問題が発生してゐるやうに思ひます。殊に指令がどのやうに実現せられるかといふことになると、考へ方にも依ることですし、国民学校の教職者の間には、色々な臆測が入つたり、又特別な点を強調し過ぎたりするといふことも、無きにしもあらずと思はれます。又さういふことでなくても、子供を取扱ふのに国家神道の問題に付いでの自信がなかつたなら、本当の教育は出来ないと思ひます。今晩は、実際の教育の上に於て長い間貢献を積まれた教師とか、児童訓練といふ問題に就いての専門の方々にお集りを願つたのですから、全国の教育者の気持を代表した意味で、此の問題に就いて自由に御発言になつて戴きたいと思ひます。
先づ最初に、どういふ事情で国家神道に関する指令が発せられるやうになつたのか、又 あの指令が持つてゐる一般的な意味を、岸本先生から能くお伺ひしたいと思ひます。
岸本 何故〈ナゼ〉神道が、終戦後、こんなに問題にされることになり、十二月十五日の指令が出ることにまでなつたか。その理由に就て、皆さんにはつきりした御諒解があるかないか。その辺から少し申し述べて見たいと思ひます。
此れには、根本的に云つて二つの点があります。その一つは、ポッダム宣言にも見られる通り、将来の日本が、再び世界戦争を捲き起す原動力となる様なことがあつてはならない。さう云ふ様な要素は未然に刈り取つて仕舞はなければならないと云ふことであります。もう一つは、信教の自由と云ふ問題であります。此等の二点で相寄つて、その焦点を神道の上に集中することになつたと考へてよいでせう。
第一の、将来再び戦争の原動力となる様なことのないよい日本を創り出すと云ふ点に関しては、それを妨げるものとして、好戦的思想と偏狭なる国家主義とが、挙げげられませう。好戦的思想については、色々なる面があると思ひますが、戦死と云ふ事実に対する考へ方を例にとつて見るとします。大切な自分の生命を公の事の為に敢へて犠牲にすると云ふこと、その限りで戦死は何時の世にも尊いことであります。それは世界中何人〈ナンピト〉も充分に認める処であります。併し、若しそれが、戦場で死ぬことが他の如何なる職域で公の為に 死ぬことより勝れて居り、人間のあらゆる死に方の中で一番尊いものであると云ふ様な考 へ方になつて来ると、そこに問題があります。これは将来国を戦争に持つて行く力となり得ます。好戦思想の胚珠〈ハイシュ〉となる惧れがあります。又次に、偏狭なる国家主義と云ふのは、例へばこんな事です。各国の人が銘々自分の国を尊重するのは自然であり、日本にとつて日本の国が大切なのは当然ですが、日本云ふ国が世界中で他の国々と比較を絶して 勝れて居り、従つて、その日本が、或は天皇が、当然世界を支配すべきものである、又かく支配することが世界にとつても最上の幸福である、と云ふ様な考へ方にまで至ると、これは明かに行き過ぎであります。ここにも将来の戦争の危険性が潜んでゐます。
日本には、従来かうした好戦的思想や偏狭なる国家思想が強く行はれて来ました。何故斯様〈カヨウ〉な思想が強力に行はれて来たか。その源泉が神道に触れて来るのであります。その源泉の在処〈アリカ〉を色々検討した結果、少くともその一つとして神道を挙げ得ると云ふことが、連合国側の強い確信となつて来ました。果して神道がさうした意味でどれ程の力を持ち、どれ程の役割を勤めて来たか、実際には、未だ研究を要する多くの問題が残つてゐます。併し、その程度の大小は暫く別として、其処〈ソコ〉に神道が問題となつて来た第一の点があるのであります。
第二は、信教の自由と云ふことであります。我々には、将来日本を戦争の方向に持つてゆかないと云ふ限界内に於いてではありますけれども、考ヘる自由、物を言ふ自由、信ずる自由がある。さうした自由を持ち得る社会にならなければならない。信ずる自由と云ふことは、人の宗教的信仰は、銘々の自由意志によつて決定し、他から、殊に政府の権力によつて、強制や束縛が加はゝつてはならないと云ふことであります。ある特定の宗教を信ずるが故に、或は信ぜざるが故に、日本国民として完全なものであると考へられたり、 ないと考へられたりする様な思想、さう云ふものがあつてはならない。要するに、国家が他人の信仰を強制してはならぬ。又、国家が特定の宗教のみに偏頗〈ヘンパ〉な保護や恩典を与へてはならぬと云ふことであります。その結果、神社が国家から切り離されて、仏教やキリスト教と合し同じ待遇を受けることになりました。
以上が、根本的な二つの点であります。
さて、問題の焦点を国民学校教育に移して見ますと、若し神道が好戦的思想偏狭なる国家主義と直接なつながりがあるとすれば、当然国民学校教育から排除されなければならないことになり、問題は其処にもあります。併し、更に重要な点は、国民学校が義務教育であると云ふことであります。国民のすべてが其処へ行って勉強する義務を背負つてゐます。斯様な義務教育の分野に於て、特に神道が教授され、神道的な行事が遂行されると、 それは信仰の強制になります。殊に、教育と宗教との分離と云ふ根本的方針に基いて、キリスト教や仏教の教授が禁止されてゐる国民学校で、神道だけが熱心に自由に教へられてゐるといふ状態は、著しい差別的取扱ひを示すものと考へられます。これは不公平であつて、信教自由の精神に反します。それ故、国民学校の教育から神道的要素を取り除き、国民学校の教科書から神道的教材をすべて削除すると云ふことになつたのです。
斯様な方針をとることになると、予ねてから時折問題になって来た学童の神社参拝等は当然とり止めなければならないことになります。学校に神棚があると云ふことも不都合になつて来ます。教科書にして見れば、修身を筆頭に、歴史等、大いに問題となることになつたのであります。【以下、次回】
文中、「ポッダム宣言」とあるのは、原文のまま。