◎私はトマトが好きでね(平沢貞通)
『サンデー毎日』特別号「六十五人の死刑囚」(一九五七年九月)から、杠国義執筆の記事「天国の鍵を捜す男」を紹介している。本日は、その三回目。
トマトをおごらされる
みずから潔白でさえあれば、平然と死につくことができる大人物か、必要に応じてどんなポーズでもとりうる天才的な役者なのか、東大医学部の内村祐之〈ユウシ〉教授の精神鑑定によれば、
〝平沢は二十九才のとき狂犬病予防接種をうけ、そのときのワクチン禍で脳の一部に空洞ができた。コルサコフ症というウソつき癖はこれ結果だ〟
ということになっている。つまり平沢は、中学生のころ十九才ではやくも二科展に入選。後に帝展無鑑査にまでなった天才的なテンペラ画家でありながら、脳の欠損のため、どんな残虐な行動をとったあとでも、平気でごまかせるだけの精神分裂をきたしているというわけである。もっともこれには弁護団側で異論があり、あれだけの大犯罪に東大系だけの精神鑑定では心もとないとして、近く改めて提出するはずの再審要求の材料になっているよう である。
とにかく仏典とか梵語について平沢が語り出したらきりがないので、話題を転じることにした。
「高検で中野訴状を調べているし、再審が話題になっているのを御存じですか」
「ええ、□□(中野訴状による帝銀の新容疑者)は、女をつれて遊ぶのに、山口二郎(帝銀事件で登場した名刺と同名)の偽名を使う常習犯らしいですね」
とてつもないことを知っている。たとえ独房にいても、弁護士やら教戒師、また所内の床屋などから色んな知識を得るらしい。また事件に関しても必要な新聞や出版物をみるのは許されている。なかなかよく勉強している。話がグンとくだけて面白くなりかけたが、
「もう時間です」
わたしと同じように、せっせとメモとつていた高木課長からうながされた。
「では、お大事に――」
起ち上ると、平沢は、
「すみませんが相模屋に寄って下さい。差入れ屋ですよ。私はトマトが好きでね、定期的に入れているんですが、こんどはまだ着きません。すみませんが帰りに請求して下さい」
「承知しました。早速差入れるようにしましょう」
約束して外に出た。陰うつな空気から 解放されてホッとした。平沢に対する質問にはまだ心残りもあったが、明るい陽の目を浴びるのは有難いと思った。
さて門前の相模屋によると、
「そうでしたか、まだでしたか、すみません」
帳簿をくって調べていたが、
「いや、平沢さんには十日にトマト五個、ちゃんと入っていますよ。本人が忘れたのでしょう」
死刑囚でもお得意となると大事らしい。ちゃんと平沢にも〝さんづけ〟で呼ぶ。平沢の場合は週に一回、トマトを五個ずつ入れることになっているそうだ。その他の差入れ物とともに留守宅で精算するという。
「そう、忘れたのかも知れませんね」
だが差入れするよう約束したから仕方がない。そうなると、まさかトマト五個だけというわけにもゆかない。
「じゃ、これで適当にみつくろって下さい」
これはトリックにかかったかな――と平沢のナゾの微笑を思いうかべながら、わたしは何枚かの札を引張り出した。【以下、次回】
文中、□□には、原文では「新容疑者」の実名(姓)がはいっている。しかし、その容疑は誤解だった可能性が高いので、実名は伏せた。「中野訴状」については、次のところで詳述される。