◎渋川善助から教育総監暗殺計画を聞いた(石橋恒喜)
今年にはいってから、『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)、そして『サンデー毎日』特別号「六十五人の死刑囚」(同年九月)を紹介した。
前者には、二・二六事件関係の記事が、ふたつ載っている。そのうちのひとつは、石橋恒喜(つねよし)執筆の「二・二六事件秘話」である。
本日以降、この「二・二六事件秘話」を、何回かに分けて、紹介してみることにする。
二・二六事件秘話 石 橋 恒 喜
最後の謀議を見る
「ニュースにならない特種」という話があるとすれば、新聞記者にとってこれほどばかげたことはほかにあるまい。ところが事実わたくしの陸軍省詰記者生活十余年―昭和四年〔一九二九〕から同十五年〔一九四〇〕―はこの新聞に書けない大事件の連続であった。曰く三月クーデター、曰く錦旗革命、血盟団、五・一五、神兵隊、士官学校事件、永田事件、一二・二六クーデター・二・二六事件等々皇道派対統制派(清軍派)の派閥抗争を中心とする血なまぐさい嵐を追って、奔命につかれきったわけである。といって、事件がおこってから担当 記者たるものがあわてふためいたのでは醜態だ。どうしてもふだんから関係者と接触を保ってその動きを知りつくしておく必要がある。だが口でなら「接触を保つ」というのは簡単だが、新聞記者が秘中の秘ともいうべき革命団本部に心やすく近寄れたものでないことは当り前のはなし。しかし虎穴に入らなければ虎児もまた手にいれることのできないのも当然である。なに糞! 一部将校(過激思想の持主と目されてブラックリストにのった青年将校につけられた憲兵用語)といっても罪のない新聞記者を煮て食うこともあるまい。ままよ、ニュースは足で書け、と自分で自分の胸にいいきかせたわたくしは、雨の夜も風の晩も「一部将校」の家庭回りや部隊の訪問にうき身をやつしたものである。
昭和八年〔一九三三〕の七月のこと。ジフテリアのため長女がT病院の伝染病室で死亡し た。そしてこの日、主治医はもはや全く絶望の宣告を下していたのである。不甲斐のない貧しい父親であればあるほど、せめて最後のみとりだけはしてやるべきだったのだろう。しかし社会部デスクの電話はこれを許してはくれなかった。富士山麓の演習で近衛師団に大事件が突発した……という。危篤の愛児をすてて三宅坂(陸軍省)へかけつけた。はげしい号外戦……。報道を終って病院へ帰ってみると、もちろん愛児は父親の留守の間に死んでいた。
こんなめちゃくちゃな取材戦のうちに月日は流れた。当時彼らは新宿宝亭を根城として会合をつづけていたが、時折りその会合を張り込むと「遠慮なく傍聴したまえ」と秘密会議の席にまで招じいれてくれたものである。この結果、西田税〈ミツギ〉、渋川善助、亀川哲也、山口一太郎、柴有時〈シバ・アリトキ〉、松平昭光、大蔵栄一、安藤輝三、香田清貞、磯部浅一、林八郎といった若い将校や民間右翼の面々と顔見知りとなったことはいうまでもない。二・二六をめぐる彼らの行動や思想の是非は別問題として、一個の人間としてみた場合、その多くのものの性格は世間知らずなだけに純粋であったと思う。したがって一度信用すればトコトンまで信じてくれる。わたくしの必要とする情報は包みかくさず打明けてくれたものである。たとえば 反乱突発の数時間前―昭和十一年〔一九三六〕二月二十五日夜―わたくしは歩兵一連隊前(麻布区龍土町〈リュウドチョウ〉の亀川哲也邸で亀川(無期)西田税(死刑)村中孝次〈タカジ〉(死刑)等による最後の謀議の場に居あわせた。第一師団司令部(永田事件軍法会議法廷)の一室で渋川善助から「教育総監渡辺錠太郎の暗殺計画」の決意を話されてビックリしたことも忘れられない。このように長いあいだ彼らからキャッチした情報はどれをみてもまさに「大特種」であったといってもよい。しかも折角〈セッカク〉号外もの級の大特種をにぎりながら、ニュースにならない大ニュースとあってはなんらむくいられるところがなかったのだからなさけない。イヤ、むくいられなかったのならまだいい。むしろあべこべに「デマをとばす奴」として幹部からきついお目玉をさえちょうだいしなければならなかったものである。【以下、次回】