◎敵の糧食の量を知つて、その戦力を計る
きだ みのるの『気違ひ部落周游紀行』(吾妻書房、一九四八年四月)を紹介している。本日は、その四回目で、「33 英雄たちの日課について/彼等は日々に十三頁の本を反覆熟読し玩味すること」の一部を引いてみよう。
おはなさんの家にサダニイがゐる。通り掛りに立ち寄ると彼女は私にお茶をすすめ、 「うまかあなけんど」とお萩を出してくる。小豆が取れたので作つたのだ。見るとサダニイの前にもお萩が並び、それには手がついてゐない。
おはなさんは他に何のお愛想もないので、話の合間に間にその手製のお萩をすすめる。サダニイは悠然としてお萩の存在は完全に無視してゐる。彼は煙草に火をつけるだけだ。あまりすすめられるので彼女を失望させないため、その一つを口に特って行く。塩餡である。そして小豆の衣の下はすりつぶしたじやがいもである。量が大きいので全部を嚥下するには若干の困難があつた。
サダニイの前には依然として手をつけないお萩が悠々と並んでゐる。
外へ出たときわが英雄サダニイは如何にも私の無智と冒険を憐れむかの如く教訓するのであつた。
あんなお萩を喰ふちゆうことがあるもんぢやねえ。あの家に米も砂糖も無いといふこたあ解つてゐらあ。味は塩だつたんべえ。中身はせえだに違えねえ。そんなもなあ真逆(これは真と逆があべこべでもの原意で、日常的には如何にしても、如何にもと同義語として使用されてゐる)喰はれたものぢやねえ。
正に敵の糧食の量を掌〈タナゴコロ〉を指すが如く知つて、その戦力を計る孫子の徒の慨がある。
しかもこれは単に糧食に関するだけでなく、家系、親族、系列に示された病気、先祖の行つた悪事等に及ぶのである。
きだは、真逆(まさか)という言葉に注釈を付しているが、これは別に珍しい用法ではない。東京多摩地区の方言でもない。ここでは、「まさか」は副詞として使われている。広辞苑には、「〔副〕①(下に打消・反後などの語を伴って予期しない仮定を表す)よもや。いくらなんでも。」とある。その原意は「真と逆があべこべでも」という、きだの説明は疑わしい。そもそも、「まさか」に「真逆」という漢字を当てること自体に問題があるのではなかろうか。