礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本語のアスペクト研究は口語研究とともに成長してきた

2022-03-13 01:39:13 | コラムと名言

◎日本語のアスペクト研究は口語研究とともに成長してきた

 金田一春彦編『日本語動詞のアスペクト』から、高橋太郎執筆「解説 日本語動詞のアスペクト研究小史」を紹介している。本日は、その六回目(最後)で、「まとめ」の項を紹介する。

 ま と め
 いままでみてきたことをふりかえってみると,(今世紀にはいってからの)日本語動詞のアスペクト研究は,松下大三郎1901,1924からはじまる。松下は,単語を,観念をあらわすとともに文の材料になるものとしてとらえることによって,既然態(している,してある),完全動態(してしまう),予備態(しておく),経験態(してみる)などをそれぞれ動詞の形態としてとりだした。また,そのような諸形態の実現する意味を動詞そのものの意味とも関連させ,のちに金田一1950,1955などにまとめられた諸問題の基本的なものをさしだしている。
 しかし,松下は,既然態を運動性動作動詞に属する一相としてとらえただけで,アスペクトにかかわる諸形式を全体的にとらえるところまではいかなかった。1927年,小林好日〈ヨシハル〉は,いくつかのアスペクト形式をまとめて,「動作態」の名をあたえた。小林は,また,動作態がテンスと別の概念であることをのべ,さらに,その両者のあいだの歴史的な移行の問題にも言及している。
 しかし,小林はテンスやアスペクトを助動詞または準助動詞の問題としてとらえた。この点は小林が松下より一歩後退したことを意味し,それは,佐久間鼎1936によって克服されなければならなかった。佐久間は,動詞のあらわす動作そのものの性格を分析し,その動作の動力学的過程から時階(テンス)や動作態(アスペクト)を解明しようとする。そして,始・中・終という動的事象の結構を中心にすえて,いくつかのアスペクト形式をひきだしたのである。
 佐久間が動詞のあらわす動作の過程を中心に論を展開したのに対して,動詞の形態を中心にすえた宮田幸一1948の「様態」があらわれた。宮田は,アスペクトを意味によって分類するのでなく,形式によって分類・命名した。宮田の「様態」は,シテ分詞と小動詞のくみあわさった彩式の総称であり,それぞれの名称をもつ各形式がそれぞれアスペクトに関するいくつかの意味をもつのである。こうして,宮田1948によって,はじめてアスペクト研究に形態論的な接近法がもちこまれたのである。しかし,宮田1948は,まだ,シテ分詞と小動詞のくみあわせ形式のなかから,アスペクト的なものをひきだしてカテゴリー化する根拠をみいだすところまではいかなかった。宮田の「様態」はアスペクトとやりもらいの混合集団であった。
 1950~55年,金田一春彦は,今世紀初頭以来の松下――小林――佐久間という先人の業績のうえにたって,日本語動詞のアスペクトをシステムとしてうちだし,また,アスペクトの観点から動詞の分類を提出した。金田一がアスペクトをテンスと対立させ,アスペクト形式の全体像をえがきだしたことと,すべての動詞をアスペクトの観点から分類したこころみの意義はおおきく,このことによって,金田一1950, 1955は,今世紀後半のアスペクト研究の出発点となった。金田一のシステムの内容は,藤井正1966,その他によってすこしずつ修正されているが,現在でも,アスペクトといえば,金田一論文がまずひきだされるのがふつうである。
 金田一1950,1955は,アスペクトをシステムとしてとりだしたところに意義があるのだが,それは,意味による分類であって,形態論の視点がなく,そのため,動飼の形態の全体像のなかでのアスペクトの位置づけはよわかった。動詞研究を形態論として展開するためには,伝統的な文法論をさけてとおるのでなく,宮田のように,それを否定しなければならなかったのである。
 その後,金田一と宮田の両方から影響をうけた鈴木重幸1957,1958が,奥田靖雄1953「正しい日本文の書き方」に代表される民主主義科学者協会言語部会――言語学研究会の動詞理論のうえにたって,意味と形式の統一をはかり,さらに,それをうけついだ「文法教育」(1963),「にっぽんご 4の上」によって,動詞の形態の全体像のなかでのアスペクトの位置づけが,しだいにイメージ化されてきた。そして,そのことによって,アスペクトが,よりおおきなわくぐみのなかでしらべられる条件がつくりだされたのである。
 しかし,このアスペクトの位置づけは,まだ不完全であり,寺村秀夫1969も提起したように,形式と意味の関係の問題は,まだ解決されたわけではない。これを解決するためには,おおくのデータにもとづいて実証的に研究し,そこから帰納しなければならない。この実証的な仕事は,高橋〔太郎〕1969をへて吉川武時1973にうけつがれ,吉川のしごとによって,アスペクトに関する事実がこまかな点までかなりはっきりしてきたというのが現状である。この実証的な研究の進展とあいまって,アスペクトにかかわる諸形態間の関係,テンポラルセンターをふくめて,アスペクト的な意味の成立条件,動詞の分類における,カテゴリカルな性格と語い的な意味の関係などがあきらかになるだろう。
 金田一以後現在までのアスペクト研究は,アスペクトをテンスとクロスするカテゴリーとするとらえかたによってすすめられてきたし,また,そのことによって,おおくの成果をあげてきた。しかし,アスペクトとテンスは,ともに時間的なものであって,小林1927,1941や楳垣〔実〕1958のいうように,歴史的に移行過程をもっていて,歴史的な産物である言語形式のうえでは,からみあったすがたをていしている。ある面からみると,<した――している――する>が<過去――現在――未来>として対立しているということもできるし,「していた」の経験・記録をあらわす用法は,大過去と接しているともいえる(高橋1975)。このようにかんがえると,松下1901「日本俗語文典」がアスペクト形式をどうして相対的なテンスとしてとらえたのかということも,また,興味ある問題となる。そのような,カテゴリー間の関係がこれから問題になるだろう。
 「する」「した」が連体形になると,テンス性をよわめ,アスペクト性から,さらに,形容詞性をおびてくる。他のカテゴリーとのからみあいは,その機能や意味のちがう語形ごとにちがっていて,それぞれの語形のすがたをあきらかにしないと,動詞の形態の全体像がうかびあがってこない。そうだとすると,鈴木1957~58が考察のはんいを述語動詞にかぎり,しかも<スル←→シテイル>の対立と<シタ←→シテイタ> の対立をべつべつにしらべたような,語形ごとの分析がこれから重要になってくるようにおもえるのである。
 なお,ここで,伝統文法などのことにふれておきたい。この小史をふりかえると,伝統文法のながれ,とくに,現在の学校文法の主流をしめる橋本進吉や時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉の学説の系統からは,アスペクト研究がでてきていないことに気がつく。伝統文法では,助詞や助動詞を名詞や動詞からきりはなして独立の単語と認定し,文法的な意味は前者がうけもつとかんがえるので,「して いる」「して しまう」のような分析形は,単位としてうかびあがってこないのである。小林好日1927などは,「ている」「てしまう」などを「準助動詞」と認定することによって,かろうじて動作態をあつかいえたのであった。
 橋本は,「して」と「いる」をそれぞれ文節とした。そして,その文節間の関係として「いる」が「して」に従属するとした。けれども,「して+いる」という単位を文からとりだしてあっかわなかったから,これは研究の対象にならなかった。時技になると,「して」が「いる」を修飾することになるのであるから,これまた「している」は問題にされなくなる。いずれにしろ,かれらにとっては,「して」と「いる」の関係は統語論的でしかなかったのである。
 こうしたことは,単語の認定をあやまった,形態論なしの学校文法がいかに不毛であるかをおしえてくれている。佐久間鼎が心理学者であり,宮田幸一が英語学者であることも,そして,金田一1950が国語学関係の雑誌でなく,言語学会の「言語研究」にのせられたことも,このあたりの事情とあわせてかんがえると,うなずけるのである。
 一方,言語学のほうでも,意義素説がテンスやアスペクトの研究にブレーキをかけた。
 「世界言語概説」下巻において,金田一1955bは,完了態「~た」が「次に述べられる事柄あるいは話してゐる時より以前であることを表はす」とのべたが,これに対し,服部四郎は,監修者注として,つぎのようにかいた。
 《「次に述べられる事柄」或いは「話してゐる時」といふ二本立てで説明するより,<その動詞の表はす動作・作用を以前に終了した>といふ意義素一つで十分であるとする方がすぐれてゐる。(304ページ)》
 これは,「たり」―→「た」を存在態から過去への移行としてとらえた小林好日1941(303~304ページ)よりまえの時代への逆行である。つまり「~した」は,アスペクトの性格―→相対的テンスの性格―→絶対的テンスの性格という移行の過程にあって,現在でも,この語形のなかにその三要素がふくまれている。これらの要素をよりわけ,さらに,そのからみあいをみることこそ,たいせつな研究であるのに,意義素一つで十分だなどということは,第一に,現実の言語のみかたがまちがっているし,第二に,歴史的視点をもった精密な記述的研究にみずをさすものである。 
 また国広哲弥1967は「テイル」の意味を「生物・無生物を問わず,ある行為者が自発的にある行為の継続中・状態にある。」(52〜53ページ)とすればことたりるようなことをいっているが,すでに,この解説でもかきつづけてきたように,「~している」は,けっしてそんな単純なものではないのである。服部や国広のこうした発言は積極的な研究の歴史をかくばあいには,無視してよい。しかし,そういうかんがえが現在一定の影響力をもっているので,あえてつけくわえた。
 さいごに,アスペクト研究の背景をかんがえてみたい。
 日本語のアスペクト研究は,口語研究とともにうまれ,口語研究とともに成長してきた。最初に「既然態」をとりだしたのは松下1901「日本俗語文典」であったし,佐久間の研究には川柳での使用例がふんだんにつかわれている。佐久間の論文には,保科孝一 1911「日本口語法」や春日政治1918「尋常小学国語読本の語法研究」がひかれる。三尾砂〈ミオ・イサゴ〉は「話言葉の文法」(1942)で「している」などをあつかった。戦後いちはやく,宮田,金田一,三上〔章〕らは,「口語」とことわらないで,口語のことをかきはじめた。国語改革以後は,日本語といえば,まず口語をさすようになった。金田一以後アスペクト研究のテンポがはやめられてきたのは,この口語の有力化と密接なつながりがあるだろう。
 口語の有力化は,言文一致以来のもろもろの国語問題,民族語教育などと関係があるだろう。春日の研究は,口語を中心にすえるようになった国語読本の改訂(ハナハト読本)と無関係にはかんがえられないだろうし,言語学研究会の研究は,「こどもたちをすぐれた日本語のにないてに」というスローガンをかかげた教育科学研究会国語部会の運動と関係がふかい。研究の背景は,おおきなワクのなかでかんがえる必要があるだろう。
 ひとつの背景として,外国語との対比研究や,外国語教育としての日本語教育とのつながりをあげることができる。金田一のアスペクト研究の動機は中国人に日本語をおしえた経験だとかかれているし,60年代後期からは,外国人に対する日本語教育の実践者や,海外在住の言語学者のしごとがめだってふえてきている。この傾向は,ますますつよくなりそうである。

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