◎これぢや家で食ふのがありやしねえ(ジンザ老雄)
きだ みのるの『気違ひ部落周游紀行』(吾妻書房、一九四八年四月)を紹介している。本日は、その八回目で、「43 自慢百姓は収穫の多い百姓でないこと/自慢百姓は思想界にも少なからざること」の一部を引いてみることにする。
ある日ジンザ老雄は山に上つて来る。自分の万鍬が破損したので、借りに来たのだ。
――先生、一緒に下りて来なさいよ。さつまを掘つて進ぜべえ。好う育つとるでずぜ。
で私は鍬を担いだ爺さんの後について行く。畑につくと彼は鍬を下し、ほれぼれと畑を眺め、それから私を振り返る。
――よう出来とるでせうが。こんなに出来ようとは思はなんだな。
さう云つて彼は一番繁つた個所に私を案内する。
――一つ掘つてお眼にかけるかな。どうだこのさつまは、よう出来たわい。
鍬の先からは肥つた藷が茎にぶら下つて掘り出される。
爺さんは相好〈ソウゴウ〉を崩してその一つ一つを愛撫する。彼はいま正に至福の境に遊んでゐる。
――一つ計つて見るべえな。
そして爺さんは腰に差した天秤〈テンビン〉を抜き出す。葉を切り去り、土を振ひ落した一株の藷がはかりの先にぶら下り、紐を持つ爺さんの手は歓びに震へてゐる。
――八百五十匁〈モンメ〉ぢや。
爺さんはやや不服さうだ。この数字に満足してゐないのだ。
いま一つ、掘つて見るべえな。
第二の分は七百三十匁、爺さんは少しく周章てる〈アワテル〉。こんな筈ではなかつたがと云ひたげである。そしてまた一つと掘つてみる。此度こそは! それは七百五〇匁。ジンザ老は憂欝さうである。
私は爺さんを慰める――この石塊畑〈イシクレバタケ〉でようもかう出来たものよ。
だが気質としては空想的で、傾向としては進歩的なこの爺さんは慰まない。失望がありと彼を引き摑んでゐる。
反〈タン〉四百五十貫の供出の差し紙が来たとき、一番不平を鳴らしたのは爺さんであつた。
――これぢや家〈ウチ〉で食ふのがいくらもありやしねえ。
文中、「万鍬」とあるのは、「万能鍬」(まんのうぐわ)の略称である。一般に、四本の爪があるものを指す(これは、備中鍬ともいう)。読みは、たぶん「まんが」(まんぐわ→まんが)。