礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

先輩方の水圧に負けない水貯めを作りたい(吉川武時)

2022-03-07 00:59:33 | コラムと名言

◎先輩方の水圧に負けない水貯めを作りたい(吉川武時)

 金田一春彦編『日本語動詞のアスペクト』の紹介に戻る。
 本日は同書から、吉川武時(よしかわ・たけとき)さんの論文「現代日本語動詞のアスペクトの研究」を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、最後の「あとがき」のみである(三二四~三二七ページ)。文中、「つつある」の四字には、上に傍点(・・・・)が施されていたが、下線で代用した。「ている」「でいる」の下線は、原文のまま。
 吉川武時さんは言語学者で、現在、東京外国語大学名誉教授。『日本語動詞のアスペクト』が刊行された当時は、東京外国語大学附属日本語学校助教授。

    あ と が き     吉 川 武 時

 「いま本を続んでいる,いま手紙を書いている」などは現在進行中の動作をあらわすのに,「人が死んでいる,戸が開いている」などは,それをあらわさない。同じ「している」という形が,このように別のことをあらわすのを昔,英語を習い始めたころ,不思議に思ったものだ。「戸が開いている」でも現在進行中の意味にとれるのではないかと,何度も自分で考えてみた。しかし,いくら内省して考えてみても,「いま本を読んでいる」と同じような意味にとるのは無理がある。そこで,では反対に,戸が開くことを現在進行中のものとしてとらえて表現するには何と言えばよいのか,と考えてみてもいい考えがうかばない。「戸が開きつつある」と言えば言えるが,これでは文体的に古風だと思ったりした。そのうちに, 「開いていく」または「開いてくる」と言えば,ある程度この意味があらわせるのではないか,と考えるようになった。
 そして,東京外国語大学在学中に,金田一〔春彦〕先生の国語学のレボートに,このことを書いた。あとで,先生の,動詞の四分類の論文を見せていただいた。(本書所収の「国語動詞の一分類」をさす。)
 先に書いたことは,ことばに興味を持つ日本語の話し手なら,だれでも気がつくことである。そのようなことについて研究を始めようとする人たちが,どんな考え方をするものか,私の場合を例にとって,自叙伝風に少し述べてみようと思う。
 はじめに,他動詞の「している」の形は,動作の継続をあらわし,自動詞の「している」の形は,結果の状態をあらわす,と言えるのではないかと考える。しかしすぐに反例が見つかる。「あるく」は自動詞で,「あるいている」は継続の意味である。「待つ,知る」は他動詞で,「持っている,知っている」は結果の状態の意味である。とすると,「あるく」や「持つ,知る」を別に自動詞とか他動詞とか規定する必要もないのではないか,と思われてくる。自動詞と言い,他動詞と言うこの区別は,「開く,開ける」「つく,つける」「ならぶ,ならべる」のように,対応のある動詞についてのみ,必要とされるのではないか,とも考えた。しかし,ここでもすぐに不都合な例が見つかる。「預かる,預ける」はともに他動詞,「着る,着せる」もともに他動詞である。――このような反例,不都合な例を克服しつつ,より合理的な動詞の分類を目ざすのである。
 いま上にあげた「着る」であるが,この「着ている」という形は,もう一つの面で,アスペクトの初学者を悩ませる。継続をあらわすかと思えば,結果の状態をあらわす場合もあるからである。一一このような問題を解決しようとする時にこそ,研究が進歩するものである。
 次に,研究者の間で問題になるのは,「寝ている,すわっている,起きている」の類〈タグイ〉である。午後十時から朝六時まで「寝ている」と考えれば継続であり,午後十時という時点に「寝た」と考えれば,それから後は(朝まで)「寝ている」(結果の状態)ということになる。――私は,この論文で,場所をあらわす助詞「に,で」と関係づけるなどして
て,これらに一応の結論を与えておいた。(本書180~181ページ参照。)
 私は,前にも書いたように,「ことばに興味を持つ日本語の話し手ならだれでも気がつく」ようなことをレポートに書いたわけだが,金田一先生の論文を見て,そのことは学問的に深い意味と内容を持っていることを知った。こうして,折にふれ〝アスペクト〟のことを考えるようになったのだが,本格的にこれを研究してみようと思うようになったのは,もっとあとのことであった。

【中略】

 金田一先生の,先にあげた論文は,非常によく引用される論文である。その後,その考えを受けて,鈴木重幸〈シゲユキ〉・藤井正〈タダシ〉・高橋太郎の各氏などが,進んだ考えを論文にして示されているのに,宣伝が行きとどいていないせいか,世の文法学者・研究者は必ず金田一論文にたちかえって,これを引用する。金田一先生のお考えも,その論文をよく読めば分るように,先学,松下大三郎博士,佐久間鼎〈カナエ〉博士らの影響を受けていらっしゃる。金田一論文は,いわば,松下・佐久間らの水流を集めたダムである。このダムから放出された流れをせきとめて,さらに一段と大きなダムを作らんと,先に述べた三氏らは研究を進めたのである。そのさらに下流に,どれほどの大きさのものになるかは知らぬが, 水貯めを作ろうとして書いたのが,この「現代日本語動詞のアスペクトの研究」である。しかし,水貯めは完成したわけではない。補助動詞論とからませて,半分ぐらいだけせきとめた(つもりだ)が,「~おわる,~つづける,~あげる」等,複合動詞の側がふさがれていない。せきとめた(と思った)方も,せきとめ方の不十分なところがあるかもしれない。
 ここに麦書房からこの論文を刊行するにあたり,読者諸兄のご批判をあおぎ,今後,先輩方の水圧に負けないような水貯めを作りたく考えるしだいである。
 この論文は,1971年(昭和46年),高橋太郎先生の御指導のもとに,Monash大学日本語科の方々の暖かい御支援を受けつつ書き上げたマスター論文(英文要旨の部分は本書から除いた)であり,1973年(昭和48年)に,そのままの形で同大学の紀要にのせられたものである。今回の刊行に際しては,ほんの少し体裁をととのえたほかは,ミスプリントを訂正するだけにとどめた。ご恩を受けた皆さまに感謝する。     1975年(昭和50年)大晦日

 初校の校正の折,読みかえしてみて,必要以上に例文の多いことが,今さらながら,気になった。日本語教育にたずさわる方々が,例文集として活用してくだされば幸いだと思う。日本人の言語形成に最も強い影響を与えると思われる小学生用国語科教科書からの例文が多いので,これらの例文を参考にされることは,言語教育上意味のあることであろうと,ひそかに思っている。     1976年(昭和51年)3月17日

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