◎この時の教え子の一人が小町和義さんでした
『丘もゆる』(『暴風雨の中で』の出版を祝う会、一九九七)から、田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
わたしは第三小学校の期間代用教員(これは当時、男子師範の卒業生は、卒業後直ちに三ヶ月間、軍隊で軍事訓練を受けるために、その期間だけの教員制度)として勤務しておりました。この時の教え子の一人が小町和義さん(番匠設計)でした。私はこの一学期が終わると東京府立代用八王子盲学校に勤務することとなり、校長は深沢〔洋治郎〕先生、給料は四十円のうち五円を学校基金として寄付し、その代りに寮生と一緒に暮し、生徒の面倒を見ることで、寮費は無料でした。当時の私は給料の半分を郷里へ送金(学費返済のため)しておりましたから大へんありがたいことでした。
その頃の盲学校は台町〈ダイマチ〉の広い広い原っぱの中にぽつんと建っており、寮といっても校舎の一部にあり、生徒の部屋とは襖一つで仕切られており、寮生も十名足らずでしたから、当時十九歳の私と寮生とは家族のような感じでした。生徒達は私の旧姓の曲田(まがりた)が難しいらしくて、歌を唄うことが好きだった私に、「うぐいす先生」と仇名をつけて呼びました。廊下で逢うと、皆がよって来て、私の身体中を撫で廻し、私がなけなしの給料で購入した香水の香りを、いい匂いがするといって、よろこんでくれました。
毎朝五時には起きて、小使(用務員)のおばさんと二人で朝の食事を造って食べさせたあと、教室へ出ました。放課後は三時から小学一、二、三、四年の子供の入浴を一緒にしましたから四、五人の子供を洗ったあとは、のぼせ上がる程でした。生徒達の一番好きなのは音楽でした。殊に低学年はよく唄いました。私も古びたオルガンを弾きながらとても楽しい毎日でした。
生徒は小学一年生から、五十歳代の鍼灸〈シンキュウ〉を学ぶ学生、高等部、中等部の生徒達それぞれ一人一人別々に教えるという感じでした。若い私には総てが初めての経験であり、楽しみでした。殊に高学年の女生徒達には冬休み前に、短か編みの足袋の編み方を教えたので、冬休みには一足ずつ家へのお土産が出来たとおおよろこびで、中には二足編んで、一足は自分用に、他の一足はお母さん用にと編んだ生徒もおりました。三学期になって、その一人の母親から、「娘が他にもおりますが、盲の娘から手編みの足袋を貰い、ありがたくて、ありがたくて、神棚に供えました」といわれ、ほんとに嬉しかった記憶があります。【以下、略】
文中、「期間代用教員」について触れているが、こういう制度のあることは知らなかった。調べて、何かわかったら、このブログで紹介してみたい。
番匠設計の小町和義さん(一九二七~)は、著名な建築家である。八王子の宮大工棟梁の家に生まれている。インターネット情報多数。
東京府立代用八王子盲学校は、現在の東京都立八王子盲学校の前身。一九三〇年(昭和五)三月、「八王子盲学校」として、文部省から開校認可。一九三一年(昭和六)三月、「東京府立代用八王子盲学校」に指定。一九四一年(昭和一六)一二月、「財団法人八王子盲学校」として設立認可。田中紀子さんの文章に、「給料は四十円のうち五円を学校基金として寄付し」とあるが、この「学校基金」というのは、財団法人化のため基金だったのであろう。財団法人八王子盲学校は、戦後の一九五〇年(昭和二五)二月、東京都に移管され、「東京都立八王子盲学校」となって、今日にいたっている。
田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」は、ここまでで約半分だが、以下は、割愛させていただく。
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