◎皇民九千万ノ名ニ於テ貴下ノ反省ヲ促ス
美濃部亮吉の「狙撃された天皇機関説」を紹介している。本日は、その二回目。出典は、『文藝春秋』臨時増刊「読本・現代史」(一九五四年一〇月)。
昨日、引用した部分のあとに、「自動車が大きらい」という節があるが、これは割愛し、そのあとの「議会での弁明」の節から、引用を続ける。
自動車が大きらい【略】
議 会 で の 弁 明
その日――というのは昭和十年〔一九三五〕二月二十五日のことである――の貴族院は、議場も傍聴席も立すいの余地のないほどの大入りであつた。傍聴券を手にして貴族院に入つた私〔美濃部亮吉〕は、背のびをして漸く議長席をかいま見ることができるほどであつた。その日、父は、数日前同じ貴族院で演説した菊池武夫に反駁を試みる予定であつたのである。菊池は、機関説を反逆思想と断じ、父を学匪〈ガクヒ〉とのゝしつたのである。父はこれに対し『一身上の弁明』をしようというのである。
草稿を手にして、父は檀上に立つた。『去る二月十九日の本会義において菊池男その他の方から私の著書について御発言のあつたことにつき一言一身上の弁明を試みるのやむを得ざるに至りましたことは私の深く遺憾とするところであります』という言葉で父の演説が始められた。議場はしんとしてきゝ入り、やじの声さえない。大学で講義をする時と同じように、眼を半眼にとじ、正しい姿勢を少しもくずさず一ケ所に立ちつくしたまゝ、頭のしんからしぼり出るようなしかも淡々とした言葉で演説はどんどん進められた。それは、口調だけでなく内容も大学における講義そのまゝであつた。父は理路整然と、機関説とはどういうものであるかを説き、その正しい所以を力説した。父の説いた主要な点は次の二点にあつた。
一、天皇の統治の大権は法律上の観念として権利とみるべきでなく権能であること。即ち、天皇はその御一身上の権利として、換言すれば天皇それ自身に属するものとして統治の大権をもつておられるのではなく、天皇は国の最高機関として天下国家のために統治の大権をもつておられるというのであつた。
二、天皇の統治の大権は万能無制限のものではなく、憲法の条規に従つてのみ行い得る権能であること。従つて天皇は議会の開会、閉会、停会、解散のような憲法にうたつてある条項以外は、議会に対して命令することはできないということになる。だから、少し拡張して解釈すれば、統治の主体は議会であつて、憲法にきめられている少数の例外的事項だけが、天皇の権能に属するということになるかも知れない。議会を無視して、独裁的に何んでもやろうとする軍部やファッショにとつてはまことに都合の悪い学説だといねねばなるまい。
『もし私の学節について批評せられますならば、ところどころから拾い集めた断片的な片言隻句を捉えて、徒らにざんぶ〔讒誣〕中傷の言を放たれるのでなく、真に私の著書全体を通読して、前後の脈絡を明かに――真の意味を理解して然る後に批評せられたいのであります』という言葉で、父は約一時間に亘つた一身上の弁明を終つた。父はひごろのうつぷんを、この最後の言葉のうちに晴らしたかつたのであろう。父の態度にはまことに意気軒昂たるものがあつた。いつもはめつたに拍手をしない貴族院の議場にも、万雷のような拍手が湧き起つた。
父は政治家が嫌いであり、あまりにも学者的あつた。それだけに無邪気すぎる所もあつたように思われる。理論的に反対論を打破れば、それで問題に終止符が打たれると思つていたらしい。たしかに、理論的には父の方が数段まさつていたことは疑いない。父は、理論的に打ち勝つたことにより、問題はこれで片づいたといつていた。ところが、事件はむしろこの時が発端であつたのである。
舞い込む脅迫状
ファッショや軍部がねらつたのは、機関説の理論の当否ではない。正しかろうがまちがつていようがとにかく機関説が邪魔なのだ。だから、父のいうところが正しいという印象をあたえればあたえるほど、彼等の排撃運動は猛烈となり、暴力的とならざるを得ない。
右翼の諸団体はこぞつて機関説撲滅の決議を行つた。陸軍も海軍も機関説を容認しないことを声明した。機関説こそ議会の権能をもつとも高く評価するものなのに、政党である政友会さえ反対ののろしを上げた。
こういう外部からの圧迫にたえかねて、政府の態度も段々に硬化して行つた。所謂『國體明徴』の声明を発して、機関説は我が國體とは相容れない学説であることを明らかにした。
昭和十年〔一九三五〕の四月六日の土曜日に、満洲国皇帝が日本を訪問された。首都東京は、その歓迎のためにわきかえつていた。その騒ぎをよそに、その翌日の七日に父は検事局に出頭した。これは不敬事件として江藤源九郎によつて告訴がなされたので、その取り調べるためであつた。検事は、前にも書いた通り、思想犯を調べるので勇名を轟かしていた戸澤検事であつた。調べは午前午後ぶつつづけで、夕方おそくまでかかつた。父の教えた若い戸澤検事に調ベられたのはよほど不愉快であつたにちがいない。帰つてから、晩酌をまずそうに傾けていた父の姿が今でも目に浮ぶ。
二日おいて四月九日には、憲法に関する著書の大部分が発禁になつた。本を書きそれが出版されることを無上のたのしみとし、自分の理論はあくまで正しいと確信し、正しいことは世の中に通用すると信じていた父にとつてこれは大きい打撃であつた。それだけではない。既に停年で大学教授の職を退いていた父にとつては、その著書が収入の中心であつた。その著書の発売が禁止されたのであるから、それは糧道を断たれたことをも意味する。少し後のことであるが、父は茅ケ崎にあつた別荘を売つて金に換えた。
そのころから、小石川――後に吉祥寺に引つ越した――の家には十数人の巡査が護衛としてたむろすることになつた。これ等の巡査は、父の身辺を警戒するために派けんされたのにちがいない。しかし、彼等の食事代は父が負担しなければならなかつたし、寒くなれば炭や薪を供給しなければならなかつたし、女中達には悪ふざけはするし、まことに厄介なしろものであつた。その上、後にのべるように、いざ鎌倉という時にはまるで役に立たなかつたのだから、何のための護衛だかまるでわからない始末であつた。
そのころは、毎日のように右翼団体から脅迫状が舞いこんだ。これ等の脅迫状はどれもこれも大同小異であつた。その一つを示すと大体次のようなばからしいものである。
『万邦無比ナル我國體ノ尊厳ヲ冒涜スル天皇機関説ヲ多年ニ亘リ提唱且ツ大権ヲ私議スルハ将ニ逆賊ノ所為ナリト断ゼザルヲ得ズ
我等ハ悲憤極リナク斯ル国民ヲ惑ス学説ノ絶滅ヲ期スルモノナリ茲ニ皇民九千万ノ名ニ於テ敢テ先ヅ貴下ノ反省ト虔澤ヲ促ス』
このころの父の生活は不愉快極りないものであつたろう。それでも父は機関説の正しいことを主張して自説をまげなかつた。【以下、次回】
引用されている右翼団体の脅迫状の中に、「虔澤」という言葉がある。手元の漢和辞典には載っていない言葉だった。
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