礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

美濃部亮吉「狙撃された天皇機関説」

2017-05-04 04:23:41 | コラムと名言

◎美濃部亮吉「狙撃された天皇機関説」

 昨日に続き、本日も、美濃部達吉銃撃事件(一九三六)を取り上げる。本日、紹介するのは、美濃部達吉の長男で、経済学者の美濃部亮吉(一八〇四~一九八四)が書いた「狙撃された天皇機関説」という文章である。
 出典は、『文藝春秋』臨時増刊「読本・現代史」(一九五四年一〇月)、長い文章なので、何回かに分けて紹介する。

狙撃された天皇機関説   美濃部亮吉【みのべ りようきち】

――二・二六事件の直前にその著書が禁止せられ脅迫された苦悩の貴族院議員美濃部達吉博士をその嗣子が描く――

  天皇は汽車の機関車
 相当の年配の読者は、天皇機関説といえば『あゝあの美濃部博士の事件か』とすぐそのあらましを頭に思い浮べられることであろう。しかし、若い読者は天皇機関説といつてもすぐにはピンと来ないかも知れない。こういう方々のために簡単に事件のあらましを物語つておこう。
 そもそも天皇機関説というのは、戦前の日本の憲法の解釈に関する学説の一つで、それは私の父即ち美濃部達吉によつて代表されていた。その解釈によれば、国家というのは一つの法人のような有機的な組識で、天皇はその機関の一つであるというのである。天皇が国家の機関である以上、よしそれが最高のものであつても、天皇も国家に奉仕すべきものである。従つて又、天皇の権限も無限のものではなく、国家そのものに関する規約ともいうべき憲法によつて色々の制限を受ける。こういうのが天皇機関説の大体の骨子である。天皇も国家の一機関にすぎないといい、その権限も無限で絶対的なものではないと主張するのであるから、この説は、古い日本の憲法をもつとも民主主義的に解釈したものだといえるだろう。それだけに、こういう主張に対する風当りも昔から相当に強かつた。一般の官吏そのうちのお巡りさんも当然国の機関である。そうするとお巡りさんも天皇も同じもだということになる。これは甚だけしからないといつて反対したものもあつた。天皇を国の機関だというのは、天皇を汽車の機関車に例えるものである、こういう解釈は悪逆きわまるのだというばかばかしい反対論もあつた。
 満洲事変から日支事変へと戦火はりよう原の火のようにもえひろがつてゆくにつれ、国内ではファッショの勢力が次第に協力となつて来た。それにつれて、天皇機関説への反対も段々と猛烈になつて来た。ある右翼の団体が協力な反対を展開した。その背後に軍部があつたことはいうまでもない。その時の野党であつた政友会もこれに同調した。遂に政府も、天皇機関説に反対する態度を明瞭にせざるを得なくなつた。
 憲法に関する父の著書は殆んど全部発売禁止の憂目〈ウキメ〉にあつた。こういう著書は、三十年間にわたつて発売され読まれて来たのである。その著書を教科書として長年に亘つて大学の講義がなされて来た。又、そういう理論に基いて高等文官試験が行われ、何十万人かの人が試験をパスして官吏となつた。そういう著書を今になつて、安寧秩序を乱すものとして発売禁止にするのもずい分変な話であつた。
 ファッショとしては、それほどの『変なこと』を犯してまで天皇機関説を葬り去る必要がかあつたのだろう。軍部及びファッショは、天皇を神聖犯すベからざるものに祭り上げ、その権限を無限大のものにし、天皇の名においてあらゆることを独裁的にやつて行きたかつたのであろう。天皇は国家の機関の一つにすぎず、その権限は無限でないと説く天皇機関説が、こういう人達にとつてまことに邪魔に思えたのも無理はない。父の著書を発禁処分にするだけでは?足しなかつた。父そのものを社会から葬り去らなければ充分でないと思つたらしい。
 父は出版法達反で告訴された。そして戸澤〔重雄〕検事の取り調ベを受けた。彼は当時多くの思想犯を扱い、勇名を轟かしていた検事であつた。しかし、彼も又天皇機関説の講義をきき、天皇機関説で司法官試験をパスしたのであつた。政府は、もし父が一切の公職を辞さない限り起訴するとおどかした。起訴された結果どうなるかは分らなかつたが、恐らく、何年かの刑に処せられて、刑務所に行くことになつたろう。政府は、刑務所を使つて父を脅迫したわけである。父は一切の公職を辞した。
 彼等はそれでも追及の手を止めなかつた。
 昭和十一年〔一九三六〕二月一日、或る右翼団体から派遣された刺客によつて、一発の弾丸が父の細い足に打ちこまれた。命に別条はなかつたが、事実上父もその学説も社会から葬り去られることになつたのである。
 これが、天皇機関説事件の概略である。【以下、次回】

 この文章が発表されたのは、一九五四年(昭和二九)一〇月であった。一方、昨日のブログで紹介した、有松祐夫執筆「護衛に撃たれた美濃部達吉」が発表されたのは、一九五五年(昭和三〇)一二月である。美濃部亮吉は、「父の細い足に打ちこまれた」弾丸が、警官のピストルから発射されていた事実を知らなかったものと思われる。

*このブログの人気記事 2017・5・4(7・8・10位にかなり珍しいものが)

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