◎伊藤博文、九段坂付近で塙次郎を暗殺
昨日の続きである。大場義之さんの『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)から、昨日紹介した部分に続く部分を紹介する。
文久二年(一八六二)の伊藤博文と山尾庸三による塙忠宝暗殺については、『伊藤博文伝』上巻所収の「塙次郎斬殺に関する田中光顕書翰」(九七七~九七八頁)に、田中が伊藤から聞いた話として次のような証言が記録されている。
「山尾と二人にて、国学入門として塙の宅に至り、よくよく其面貌等を見認め〈ミサダメ〉置き、或夜塙他より帰宅の途上番町同人宅の附近にて斬殺せしと申事〈モウスコト〉確に〈タシカニ〉承り申候」(一九七七頁)。
伊藤博文と山尾庸三による塙忠宝(塙次郎)暗殺は、若き伊藤たちの誤解によるものであった。『国史大辞典』第二巻によれば、
「和学講談所御用掛であった塙忠宝は老中安藤信正から委嘱を受け、寛永以前の外国人待遇の式例を調べたことが、前田夏蔭〈ナツカゲ〉とともに廃帝の事例の調査をしたとの誤解を招いて勤皇志士の憤怒を買い、文久二年(一八六二)十二月二十一日夜、中坊広伴邸での歌会の帰途、九段坂付近で伊藤俊輔(博文)、山尾庸三の凶刃に倒れ、翌日死去した」(六四七頁)
とある。
二十年の歳月が過ぎていても、伊藤博文の脳裡には文久二年のその夜の光景が消えることなくまざまざと残っていたのである。若気の至りで起こした事件であったとはいえ悔やんでも悔やみきれない想いに加えて、深い罪悪感が、その夜の伊藤の胸のなかに、酔いに混じって一挙に込み上げてきたのであろう。いわゆるフラッシュ・バック現象(過去の事件の情況がそのまま記憶によみがえる)がおこっていたのかもしれない。【以下略】
なお、上に文久二年(一八六二)とあるが、塙次郎が殺された文久二年一二月二一日は、西暦でいえば、一八六三年二月九日になるはずである。
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