◎木下重助「何ものだ、出て来やがれ」
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その二十二回目で、第二部「農地改革」の5「つるし上げ」を紹介している。この章の紹介としては四回目(最後)。
こうして私は江刈小学校を出て、五日市に向った。こちらに集まっていたのは、前の半分の人数にもならない。しかし皆なごやかな笑〈エミ〉を私に向けてくれた。私はほっとした気持になった。ここでは話はかんたんに済み、質問も殆んどないので、閉会ののち、関係者だけ残して開拓組合創立の打合せをしようと思っていた。
ところが、会半ばにして、いきなりドアを排し、どやどやと侵入して来た一団があった。先の小学校で別れたばかりの、漆真下〈ウルシマッカ〉を先頭に四、五名の闘士たちである。あとで判ったことだが、私が発ったすぐあとから、守山商会の集乳車で追いかけて来たのである。計画に反し、私を退冶してしまえなかったことが、よほど口惜しかったのであろう。はいって来て、「傍聴は許さないのか」ときく。「許すも許さんもないが、ここまで傍聰に来るぐらいなら、なぜ向うで聞かなかったのだ。何か質問でもあるのか」といったが、ともかくその場に大あぐらをかいて、講壇の側に坐りこんだ。会場の空気は一瞬嫌なものになってしまった。早々に話をきり上げて、「これで本日の会は閉じる。これから開拓希望者だけ残って、組合創立の相談をしたいから、それに関係ないものは帰ってもらいたい」といったところ、またまた「傍聴してはいかんか」と例の奴らがいう。今度はつっぱねた。「君らには無関係な話だ。そんなにしつこくして何になる」といったら、ぶつぶついっていたが、やがて引き揚げた。職員室に行って、「村長の野郎、人を退場させやがった」といっていたそうだ。
開拓組合創立の打合せを終ったときは、もう暗くなっていた。皆に挨拶して外に出たら、一人の男が来て皆で夕食を差し上げたいといっているから、そこまでおいで下さいという。私は朝食も食っていなかったが、別に空腹を感じてもいなかった。しかし、この申し出はしみじみと有難かった。その家へ行ったら、二十名ばかりの人たちが集まって、酒肴の用意もしてあった。酒宴が始まった。皆で今日私を追っかけて来た連中を憎んだ。私にとってはこんな酒席は思いがけないことだったし、こんなに多くの味方のいることも意外だった。
この付近の部落民は、たいてい村木家の名子〈ナゴ〉や小作人たちだった。村木は小地主たちのようには騒がなかったし、他には地主らしいものはいなかった。そんな事情が彼らをして初めから私の側に立たしめたのであろう。五日市を中心に、山岸、日渡〈ヒワタシ〉、滝沢、小泉と五部落の人たちである。私は当初この人々が、未墾地の解放に反対はしまいかと心配した。開墾適地となっている山は、すべてこの人々が村木家から薪炭林として借用している場所である。これが買収されれば、必らずしも自分のものとなって返って来る保証はない。彼らが使用権を盾に反対して来れば、地主の反対どころではない。しかし私の心配は杞憂であった。彼らは、殆んど残らず開拓賛成者であった。そしてこの日以来、ゆるがない私の味方となって、多難な前途をひらいて行った。
酒宴がまだ終らぬうちに、私は便所に立つふりをして、こっそり帰ろうとした、靴をはいて庭に出たが、今日の空気から見て或いは途中に待伏せするものがあるかも知れないと思ったので、薪を積んである中から武器として手ごろなのを物色していた。そしたら、中で私のいないのに気づき、障子をあけてまた帰るなという。疲れているから失礼するといったら、どうしても帰るといわれるならやむを得ないが、今夜は一人ではあぶない、誰かに送らせるといってきかない。それぐらいの覚悟はもっているから心配するなといっても、何人かがついて送って来ることになった。その中には、かつて村一番の相撲取といわれた木下重助という男がいて、護衛の責任者の形になった。一里ばかりの道を途中何事もなく今の酪農工場附近まで来た。ここは昔ら狐狸〈コリ〉の巣窟といわれ、寂しいところであった。古い県道が崖に沿ってつづき、新らしい道につながっている。ここに差しかかったとき、重助はいきなり大きな声でどなった。「何ものだ、出て来やがれ」そしてどなりながら、崖下の暗がりへ突進して行った。すわとばかり私たちも身構えたが、彼の錯覚か、酔ってのいたずらか、敵はいる様子もなかった。
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