◎片岡良一、菊池寛の「恩讐の彼方に」を語る
本日も、片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)の紹介。
本日は、菊池寛の「恩讐の彼方に」について解説しているところを紹介してみよう。
『恩讐の彼方に』と『蘭学事始』
そのくらいだから、この時代の作家とすれば最も常識的な世界を持っていた菊池寛などでも、『恩讐の彼方に』(大正八年・後戯曲化して『敵;討【かたきうち】以上』)のような作品を書いている。
主人を殺した市九郎〈イチクロウ〉改め了海が、諸人済度〈ショニンサイド〉のため「青の洞門」のくりぬきを志す。「三町をも超える大盤石〈ダイバンジャク〉を刳貫【くりぬ】かうと云ふ」彼の悲顆を、はじめ人々はあざわらって彼を気ちがい扱いしたが、その業が進むにつれて人々も感激して力を合わせるようになった。「十九年の歳月を費して」その業が「九分迄は竣工」した時、彼に殺された男の一子実之助〈ジツノスケ〉が、ようやく彼を探しあてて敵討をしようとした。了海を援ける人々に妨げられて、その刳貫【くりぬき】の完成するまで敵討を延ばさねばならなくなった時には、ひそかに彼を討ち果そうとして人々の寝しずまった深夜に洞穴の中にしのびこんだ。が、
【一行アキ】
「入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッくと間を置いて響いて来る音を耳にした。彼は最初夫【それ】が何であるか判らなかったが一步進むに従って、その冇は拡大して行って、おしまひには洞窟の中の夜の寂静【しゞま】の裡に、こだまする迄になった。夫は、明かに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音に依って、自分の胸が烈しく打たれるのを感じた。奥に近づくに従って、玉を砕くやうな鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲って来るのであった。彼は、此の音をたよりに這ひながら近づいて行った。此の槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。私【ひそか】に一刀の鯉口を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼は槌の音の間々に囁【さゝや】くが如く、うめくが如く、了海が、経文を誦【じゆ】する声を聞いたのである。
そのしはがれた悲壮な声が、水を浴びせるやうに実之助に徹して来た。深夜、人去り、草木眠って居る中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振って居る了海の姿が、墨の如き闇にあって尚、実之助の心眼に、歴々【ありあり】として映って来た。夫は、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、たゞ鉄槌を振って居る勇猛精進の菩薩心【ぼたつしん】であった。実之助は、握りしめた太刀〈タチ〉の柄〈ツカ〉が、何時の間にか緩んで居るのを覚えた。」
【一行アキ】
こういう感動から闇討などすることができなくなった実之助は、空しく時がくるまで待つより、その時を一日も早くこさせるようにと、了海と力を合わせることになって二年、了海がこの仕事をはじめてから二十一年目、みごとに洞門の刳貫に成功した時になると、もう敵討などするどころではなく、彼は了海に「ゐざり寄っ」て、彼の手をとって「感激の涙に咽【むせ】」んだという。
一念の力が難事業を成就するばかりでなく、その壮厳さは、敵討という昔の武士にとっては一種の至上命令であるようなものをさえ、高く乗り越えてしまう。それを我執といってはむろん当らぬであろうが、とにかくそうして敵討などという個人感情的なところを越えた高い境地のあることを考えている点にも、この作の示した白樺派との共通性の一面はあったのである。〈145~147ページ〉
今日、ウィキペディアには「恩讐の彼方に」という項がある。それによれば、この作品の初出は、『中央公論』1919年(大正8)1月号。翌1920年(大正9)、菊池自身の手により、『敵討以上(かたきうちいじょう)』として戯曲化されたとある。
本日も、片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)の紹介。
本日は、菊池寛の「恩讐の彼方に」について解説しているところを紹介してみよう。
『恩讐の彼方に』と『蘭学事始』
そのくらいだから、この時代の作家とすれば最も常識的な世界を持っていた菊池寛などでも、『恩讐の彼方に』(大正八年・後戯曲化して『敵;討【かたきうち】以上』)のような作品を書いている。
主人を殺した市九郎〈イチクロウ〉改め了海が、諸人済度〈ショニンサイド〉のため「青の洞門」のくりぬきを志す。「三町をも超える大盤石〈ダイバンジャク〉を刳貫【くりぬ】かうと云ふ」彼の悲顆を、はじめ人々はあざわらって彼を気ちがい扱いしたが、その業が進むにつれて人々も感激して力を合わせるようになった。「十九年の歳月を費して」その業が「九分迄は竣工」した時、彼に殺された男の一子実之助〈ジツノスケ〉が、ようやく彼を探しあてて敵討をしようとした。了海を援ける人々に妨げられて、その刳貫【くりぬき】の完成するまで敵討を延ばさねばならなくなった時には、ひそかに彼を討ち果そうとして人々の寝しずまった深夜に洞穴の中にしのびこんだ。が、
【一行アキ】
「入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッくと間を置いて響いて来る音を耳にした。彼は最初夫【それ】が何であるか判らなかったが一步進むに従って、その冇は拡大して行って、おしまひには洞窟の中の夜の寂静【しゞま】の裡に、こだまする迄になった。夫は、明かに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音に依って、自分の胸が烈しく打たれるのを感じた。奥に近づくに従って、玉を砕くやうな鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲って来るのであった。彼は、此の音をたよりに這ひながら近づいて行った。此の槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。私【ひそか】に一刀の鯉口を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼は槌の音の間々に囁【さゝや】くが如く、うめくが如く、了海が、経文を誦【じゆ】する声を聞いたのである。
そのしはがれた悲壮な声が、水を浴びせるやうに実之助に徹して来た。深夜、人去り、草木眠って居る中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振って居る了海の姿が、墨の如き闇にあって尚、実之助の心眼に、歴々【ありあり】として映って来た。夫は、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、たゞ鉄槌を振って居る勇猛精進の菩薩心【ぼたつしん】であった。実之助は、握りしめた太刀〈タチ〉の柄〈ツカ〉が、何時の間にか緩んで居るのを覚えた。」
【一行アキ】
こういう感動から闇討などすることができなくなった実之助は、空しく時がくるまで待つより、その時を一日も早くこさせるようにと、了海と力を合わせることになって二年、了海がこの仕事をはじめてから二十一年目、みごとに洞門の刳貫に成功した時になると、もう敵討などするどころではなく、彼は了海に「ゐざり寄っ」て、彼の手をとって「感激の涙に咽【むせ】」んだという。
一念の力が難事業を成就するばかりでなく、その壮厳さは、敵討という昔の武士にとっては一種の至上命令であるようなものをさえ、高く乗り越えてしまう。それを我執といってはむろん当らぬであろうが、とにかくそうして敵討などという個人感情的なところを越えた高い境地のあることを考えている点にも、この作の示した白樺派との共通性の一面はあったのである。〈145~147ページ〉
今日、ウィキペディアには「恩讐の彼方に」という項がある。それによれば、この作品の初出は、『中央公論』1919年(大正8)1月号。翌1920年(大正9)、菊池自身の手により、『敵討以上(かたきうちいじょう)』として戯曲化されたとある。
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