礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西部邁の入水と三島由紀夫の切腹

2018-04-07 02:11:00 | コラムと名言

◎西部邁の入水と三島由紀夫の切腹

 本年二月一三日の当ブログに、〝自殺には「必然の脈絡」というものがある(西部邁)〟というコラムを書いた。そこでは、西部邁氏と栗本慎一郎氏のふたりが、三島由紀夫氏の自殺について語りあったときの様子を紹介した。
 同コラムの一部を再掲する。

◎自殺には「必然の脈絡」というものがある(西部邁)
 一九九一年九月に、光文社のカッパ・サイエンスの一冊として、『立ち腐れる日本――その病毒は、どこから来るのか』という本が出た。西部邁〈ニシベ・ススム〉氏と栗本慎一郎氏とによる対談をまとめた本である。
 数日前、偶然、この本を手にとったところ、三島由紀夫氏の自殺について論じあっている箇所があった。引用してみよう。
西部 死ということで言いますと、僕は三島由紀夫氏の自殺というか自裁はいまだに納得できないんです。僕にも自殺願望が皆無というわけではありませんが、それでもやはり必然の脈絡というものがなければ納得できない。自分がガン細胞に蝕まれ、数週間以内には意識を失って、親族その他に不愉快な思いをさせる、そういうプロセスのギリギリのところで青酸カリを飲むというような自殺はすごく理解できるんです。
 政治でも、たとえば楯の会という小さな軍隊が、あっちとぶつかり、こっちとぶつかりしていくなかで、ここでひとつ死んでみせなければどうにもならんという必然の力学、マキャベリふうに言うとフォルトゥーナ〔Fortuna〕という運命の力学が働いてギリギリまできたところで、自分の意志が決定的に発動されて死を選ぶというのならわかります。ところが三島氏のように、どうみてもフォルトゥーナがわずかしか働いていないように思われるときに、自裁して果てるというのが、どうにも納得できないわけです。私の保守主義というもののなかには、そういうフォルトゥーナの力学を迎え入れたいということがあるんですね。
栗本 私もまったく同感ですね。死に方としては、戦っているうちにスパッと死んでしまうのが最高なんですよ。【略】
 けれども三島由紀夫氏の場合には、共感を得るのはどうしても無理なんですよ。私自身は、そうかそんなに追込まれてしたのか、きっと不幸だったんだろうなという逆のシンパシーを感じますけど。
西部 三島氏が自決したあと、多くの文学者や思想家たちがその理由を説明しましたね。「ホモであった」とか「サン・セバスチャン信仰にとらわれていた」とか、「お祖母【ばあ】ちゃんの過剰な愛のせいだった」とかいろいろな説が出てきたけれども、僕の目から見れば、みんなまちがっていると思うんです。というのは、それらの説明では、彼がなぜ市谷の自衛隊のバルコニーで決起を呼びかけ日本刀で死ななければならなかったのかということがわからないからです。ホモが理由だというのならば、どこぞのホモ・バーで死んだっていいわけでしょう?
栗本 僕の価値観では、そのほうがカッコいいと思います。
西部 僕の説は簡単なんです。これは先ほどの必然論につながるんですが、三島氏は小さいとはいえ楯の会という軍隊をつくったとき、若者を前にして、「時が至れば俺は死んでみせる」と言った。相手は若者ですから、当時のいろいろな状況もあって、「あなたはいつ死んでみせるんですか」という問いを発しはじめた。そこで「遠からずやってみせるよ」となった。つまり「死んでみせる」と言った己れの言葉の責任をとらなければならなくなって、また、とらざるをえないと思い、あるいはとりたくなり、そして死んだのである、という仮説なんですね。》

 以上、二月一三日のコラムの一部を再掲した。西部邁氏は、三島由紀夫氏の自殺を強く意識し、それについて西部氏なりの考察をおこなっている。また西部氏は、この対談があった当時(一九九一年)、自分に「自殺願望」が皆無でない旨を表明している。
 その西部氏が、昨年末にいたって、いよいよ「自殺」を決行しようとしたときに、三島由紀夫の「自決」を意識しなかったはずはない。仮に意識しなかったとしても、その「態様」などにおいて、無意識に、三島由紀夫のケースを模倣する、ということがあったのではないか。
 まず、西部邁の入水「自殺」と三島由紀夫の切腹「自殺」との共通点を整理してみよう。

一 周囲の友人知人に、「死んでみせる」といようなことを言い、次第に自分を自死に追いこんでいった。
二 自死の場面に、同性の知人複数名を立ち会わせている。
三 この知人複数名は、本人から、自殺に立ち会うこと、および、自殺が未遂に終わらないようにするための補助を依頼され、それを引き受けている。

 端的に言ってしまえば、両者の「自殺」は、孤独にして自己完結的な自殺では「ない」ところ、言いかえれば、あくまでも、カッコ付きの「自殺」であるところに「共通性」がある。私見では、この「共通性」は、偶然に生じたものではなく、西部邁氏が、三島由紀夫のケースを模倣した(たぶん無意識のうちに)ことによって生じたものである。
 なお、昨六日の報道によれば、西部氏の「入水自殺」の立会人となった報道関係の知人二名が、「自殺幇助」の容疑で、一昨日の五日、警視庁捜査一課に逮捕されている。
 また、インターネット情報によれば、三島由紀夫の「切腹自殺」の立会人となったのは、「楯の会」会員四名であった。うちのH・Mは、三島と同様、その場で、「切腹自殺」を遂げている。三島由紀夫およびH・Mの首を刎ねたのは、四名のうちのひとりで、剣道の心得があったH・Kである。H・Kは、「自殺幇助罪」で逮捕され刑に服したが、すでに出所しているという(YAHOO JAPAN! 知恵袋、2011/3/13、fuu********さん)。

*このブログの人気記事 2018・4・7(西部氏が3位に急浮上)

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