◎「年金付き出国」を命じられたモナコの死刑囚
昨日の続きである。昨日は、木村亀二の『断頭台の運命』(角川書店、一九五三)から、「死刑囚のこころ」というエッセイを紹介した。本日は、同書から、「断頭台の運命」というエッセイを紹介してみたい。紹介するのは、同エッセイの後半部分である。
断頭台に関係のある小説で思い出すのはアナトール・フランスの「神々は渇く」である。もう二十何年も前にパリに留学していた頃に読んだので、話のすじもほとんど忘れ、邦訳で今一度読み返して見たく考えながら仲々その機会がないのであるが、この小説は最後に熱狂した群集の叫びの中にロベスピエールが断頭台へ送られて行くところで終つていたように記憶する。或いは記憶が間違っているかも知れないが。
しかし、今一つ面白いのはモーパッサンの「水の上」の一節である。これはモナコ王国での出来事。一人の男が、激情の上で、その妻を殺した。それは、嘗て〈カツテ〉この王国では殺人罪が行れたことがないのではなはだ稀らしい〈メズラシイ〉事件であつた。しかるに、この殺人事件には何らの酌量〈シャクリョウ〉すべき事由がなかつたので最高裁判所は全員一致で死刑の言渡をしたのである。判決書に対しては王の署名がなされ、残すところは死刑の執行だけということになつた。ところが、一つの難問題が起つた。それは、この国には死刑執行人もいなければ、ギロチンもないということである。そこで、どうしたらよいかということになつたのであるが、結局、外務大臣の意見に従つて、国王はフランス政府に対して執行人と機械とを借りることにして、その交渉をはじめたところ七千フランの経費の請求を受けた。一人のつまらぬ人間の首に七千フランは少々高価すぎるというので、国王は再考することとなり、今度は自分の兄弟が王であるところのイタリア政府に交渉したところ、これは又、一万二千フランかかるとの返事であつた。それでは、一人の兵隊に斬首せしめたらと考え、将軍に相談したところ兵隊は経験もなし訓練もないから使命を適正に果し得まいという躊躇の返事がもたらされた。
そこで、王の命に従つて、再び最高裁判所が開廷せられ、永い討議の結果、裁判長の提案に基き死刑を減軽して無期禁固にすることになつた。ところが、今度は刑務所がない。詮方〈センカタ〉なく、刑務所を作り、一人の看守を置いて犯人をこれに引渡した。半年ほどの間は万事順調に進み、受刑者は拘禁所の藁布団〈ワラブトン〉の寝台の上に終日眠り、看守は入口の椅子に腰掛けて日を過ごした。ところが、今度は、この調子で、若い犯罪人が死ぬまで刑務所と看守と受刑者を維持するとなると、小さい王国の財政には大変な重荷となると考えられ、又、一つの悩みの種が生れ、国王は司法大臣に予算の削減方を要求した。司法大臣は裁判所長と審議の結果、看守の経費を節減する方法として受刑者を一人で拘禁所に住居せしめ、朝夕の食事は王室料理人の一人が運ぶことにした。一人で放つて置けば、やがて脱獄逃走するだろうという考えが腹の底にあつたのである。しかるに、受刑者は逃走の企てをなさぬのみか、一日〈イチジツ〉料理番が食物を運ぶのを怠つてからは、自分で時間になれば召使どもの食堂に来て食事を採り、使用人たちと友達となつてしまつた。最後には、朝食を終るとモンテカルロまで散歩に出かけ、偶〈タマ〉には五フランを投じて賭博をし、勝つた時は一流ホテルで晩飯を食い、再び刑務所に帰つて自分で中から鍵を掛けて寝るというようになり、一度も外泊することがなかつた。
そこで、計画がはずれた裁判所では又新たに会議を開き、今度は犯罪人を国外に立ち退かせることに一決し、その決定を受刑者に通告した。それに対する答はこうであつた。「ご冗談でしよう。それじや、わたくしはどうなるんですか。わたくしには生活の道もないし、家族もありません。どうせよと仰言る〈オッシャル〉のですか。わたくしは死刑の宣告を受けました。ところが、貴方がたは、その執行をしてくれませんでした。わたくしは別に不服を申しませんでした。つぎには、わたくしは無期禁固となつて刑務所に入れられました。ところが、貴方がたは、わたくしの看守を取り上げてしまつたのです。それに対しても、わたくしは何の異議も申立てませんでした。しかるに、今度は貴方がたは、わたくしを故国から追つ払らう〈オッパラウ〉というのです。どう致しまして、わたくしは囚人です。貴方がたによつて裁判せられ有罪判決を与えられたところの貴方がたの囚人ですぞ。わたくしは忠実に刑に服します。ここからは一歩も出ません。」とうとう、慎重討議の結果、犯罪人に対し年金六百フランを支給することにして外国に行つてもらうことに決めた。これには犯罪人も承諾を与え、彼は故国から歩いて五分と離れない外国に小さい土地を借り受けて、野菜を栽培したり、お上の悪口を言いながら、幸福に自分の屋敷で生活している。――というのである。
これは嘘のような本当の話で、モナコ王国の司法記録所には右の年金支給に関する決定書が保存せられている、と作者は書いている。これも亦断頭台の運命に関する一つのエピソードである。モーパッサンの妙筆によつて実にユーモラスに書かれている。「水の上」はモーパッサンの地中海週遊の紀行文で、吉江孤雁〈ヨシエ・コガン〉による邦訳が岩波文庫にあるはず。(一九四七)
最後に、「吉江孤雁による邦訳」とあるが、これは、吉江喬松〈タカマツ〉訳『水の上』(岩波文庫、一九二八)を指す。おそらく木村亀二は、原書を座右に置きなから、このエッセイを書いたのであろう。かつては、モーパッサンも、こうした形で、「死刑」という制度が、いかに不合理なものであるかを訴えたことがあった。戦後の木村もまた、モーパッサンを引きながら、死刑制度に異議を唱えたのである。しかし、今日の日本においては、「死刑」を疑問視する声は、圧倒的に弱い。むしろ一九九〇年代以降、死刑の執行率が上昇する傾向があると報告されている(菊田幸一『新版 死刑』)。
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