礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ワラの揉み音はノックの代り

2012-06-25 05:13:48 | 日記

◎ワラの揉み音はノックの代り

 昨日に続けて、農学博士・小野武夫のエッセイの紹介。出典は、『村の辻を往く』(民友社、一九二六)。
 小野武夫のエッセイの紹介は、これが三回目だが、読者によっては、この話を最も珍しく感じるかもしれない。少なくとも、柳田國男やその門下の民俗学者は、ここに書かれているような「民俗事象」には関心を抱かなかったし、また記録しておこうとも思わなかったであろう。
 文中に、「藁の袴」という言葉があるが、これは、稲藁の節の部分についている表皮のことである。このハカマを取り除くことを、「ワラをすぐる」という(東京・多摩地方では、「ワラをつぐる」と訛ることがある)。いずれにしても、尻をふく「ワラ」とは、一般的に、茎の部分でなく、「ハカマ」の部分を指したことに注意したい。
 また、「荒縄」でこする話も出てくる。一九九〇年代に私は、北海道出身の武術の師範(当時、九〇歳前後)から、一筋の荒縄が低く水平に張ってある便所にはいった思い出話を伺ったことがある。その際、年代・地名などを確認しておかなかったことを遺憾とする。

 冷遇せらるる土の物         農学博士 小野 武夫

 村の百姓が土から生れた物を食つたり、使つたりして居る間〈アイダ〉こそ家の経済も順調に進むが、土の産物が冷やかに扱はるるやうになると、其の〈ソノ〉暮し向きが左前〈ヒダリマエ〉になる。村の土に出来た物の中で、藁〈ワラ〉の手細工品〈テザイクヒン〉が近頃滅り百姓に可愛がられなくなつた事は著しい。以前には小学校の生徒が通学するにも、大概〈タイガイ〉は家の祖父や父の作つた藁草履〈ワラゾウリ〉を穿いて〈ハイテ〉行つたものであるが、此頃では藁草履は余程〈ヨホド〉のことでないと穿かなくなり、其〈ソノ〉代りに店売りの竹の皮草履とかゴム靴とか、極くハイカラな人になると、「ズツク」の靴を穿かせて通はせて居る。是〈コレ〉も其の源〈モト〉を質せば〈タダセバ〉、村の小学校教育の行き過ぎた文化宣伝の祟り〈タタリ〉である。洋館造りの師範学校で西洋臭い学問を教はり、所謂〈イワユル〉師範風の型に嵌め〈ハメ〉られた先生方が、教室の子供の机の下から鼠の子が見えたり、桃割れが覗いたり〈ノゾイタリ〉するのに気を腐らして、そら男生には袴、女生には行燈袴〈アンドンバカマ〉よと、父兄を説いて穿かせたことが始まりで、袴から追々〈オイオイ〉洋服になり、洋服には又靴が重宝とあつて、村に出来た藁細工は段々と片隅の方に押し込められて、南洋産の「ゴム」や印度産の棉〈メン〉製品が村の小路〈コウジ〉に幅を利かするやうになつて来た。小学校の子供が藁草履を用ひぬと同じやうに、村の大人までが、近頃藁の製品に背を向けて居る。以前は村の百姓が野良〈ノラ〉仕事に行く時の履物は、跣足〈ハダシ〉でない限りは大概草履か、角結び〈ツノムスビ〉の足なか草履であつたのであるが、此頃〈コノゴロ〉では「ゴム」裏の紺足袋〈コンタビ〉が用ひられ出して、足の方ばかり見ると、東京の丸ノ内の石畳〈イシダタミ〉の上を走る人力車夫ソツチのけである。
 藁が百姓に嫌はる、今一つの例は落し藁〈オトシワラ〉の話である。落し藁とは尻拭き藁〈シリフキワラ〉のことである。以前は百姓の尻を拭く〈フク〉品草は藁の袴であつた。尤も〈モットモ〉処〈トコロ〉によつては竹の箆〈ヘラ〉で撫でたり、小石で拭いたり、荒縄〈アラナワ〉で擦つたり〈コスッタリ〉する地方もあつたと云ふが、私の見聞の届く限りでは、藁と草の外〈ホカ〉には無い。私達の子供の時には厠〈カワヤ〉の入口に藁を括つて〈ククッテ〉ぶら下げたり、又は崩れた籠〈カゴ〉の中に藁の袴を入れて、其れを使はせたものである。其れとは知らずにふいと厠の前に行つて藁に手が触れると、厠の中でも「がしやがしや」と藁を揉む〈モム〉音がする。其の音を聞いて外の藁持ちが「ははあ誰か中に居るな」と感附いて姑く〈シバラク〉遠慮する。即ち藁の揉み音が厠の内と外との合図で、都会の便所の「ノツク」に代るのである。
 処が此頃では藁の使用が段々減つて、其代りに新聞紙とか、雑誌とかが、どしどし壷の中に投げ込まるる。昔、弘法大師は文字を書いた紙で尻を拭けば眼が潰れる〈ツブレル〉と教へて、文献保存の一端を此〈コノ〉方面にも向けたとのことであるが、今代〈コンダイ〉の若人達〈ワコウドタチ〉は、毎日何千の文字を糞汁〈クソジル〉の中に投じて怪まぬ〈アヤシマヌ〉。此儘〈コノママ〉で行けば、軈て〈ヤガテ〉は田舎の麦畑や陸稲〈オカボ〉の畦〈アゼ〉の間に、東京や大阪あたりの近郊で見るやうに、便所で汲み出された紙切れが、畑一杯に縞〈シマ〉を作り、雨で叩き附けた後の圃場〈ホジョウ〉一体が、紙畑となる日が近いのではあるまいか。
 更に〈サラニ〉又食器の方で云ふと、ずつと前頃までは村の家々では自家用の箸は、大概自分の持山の竹林から竹を切り来り、之を小さく割いて丸く削り、其れを高梁〈コウリャン〉の穗と一緒にして、鍋の中で小一時間〈コイイチジカン〉もぐつぐつ煮ると、立振なあかね色の箸が出来て、之を自家用にも客用にも使つたものであるが、今頃では此竹の丸箸はすつかり村から姿を消しし、其代り〈ソノカワリ〉に漆の塗り箸や、甚だしいのになると紙包みの割り箸までが、農家で使ひ始められた。藁草履や竹の丸箸が百姓に可愛がられぬとて、村の「土の神」が左程に小言を洩す〈モラス〉訳はあるまいと、文化の軟風に心吹かるる先生方は仰有る〈オッシャル〉かも知れないが、藁の草履には浅黄〈アサギ〉の着物が似合ひ、竹の皮草履には袴が、洋殿には靴がよく似あうても、漆塗〈ウルシヌリ〉の箸で芋のゴタ煮を摘む〈ツマム〉には、うつりが悪しく〈アシク〉、洋服を着て足駄を穿くのは、うら恥かしいと思ふ心の働きから、見栄の好い品物が次から次へと調へられて、遂には洋館建〈ヨウカンダテ〉の小学校に、朝な朝な靴の足音勇ましく通ふ子供の親達が、借金の利子の遣り繰りに頸〈クビ〉のまはらぬ明日の天気を何と見るか。

今日の名言 2012・6・25

◎藁の揉み音が厠の内と外との合図で、都会の便所の「ノツク」に代る

 農学博士・小野武夫の言葉。上記のエッセイ「冷遇せらるる土の物」に出てくる。便所に入る前にワラを揉むと、中の人もワラを揉んで応える時代があった。今どき、こういうことを知っている人は少ない。また、こういうことを教えてくれる書物に出会うことも稀である。思わず、誰かに教えたくなる雑学でした。

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大正期農村の性的風儀

2012-06-24 06:05:39 | 日記

◎大正期農村の性的風儀

 

 一昨日に続けて、農学博士・小野武夫のエッセイを紹介したい。出典は、『村の辻を往く』(民友社、一九二六)。

 やたら漢字が多く、文章も古臭い印象を与えるかもしれないが、それでもこの時期の文章としては破格に読みやすく、論旨も明快である。ここで、小野がしきりに心配しているのは、男女間の性的風儀ではなく、村民の利己心であることは解説するまでもなかろう。

 いくつか注記したいことがあるが、今回は二つだけ。小野武夫の出身は大分県なので、文中にある「子供の時」の話は、大分の話であろう。また、「井路」というのは水路のことである。その読みは、各地で異なるようだが、ここでは〈イロ〉としておいた(大分では〈イロ〉と読むらしいので)。その他、疑問の点などは、お問い合わせいただければ、お答えできる範囲でお答えしたい。

 

村の風儀        農学博士 小野 武夫

 

 時代が遷り〈ウツリ〉変ると共に、村の民風〈ミンプウ〉にも変遷がある。大体から云ふと、以前は村の青年の性的風儀が乱れて、結婚前に私生児の生れることを何とも思はぬ村方も一あつたが、男女の風儀は此〈コノ〉近年に至り段々改善せられて、以前のやうな乱れた話は聞くことが少くなつた。随つて〈シタガッテ〉村の鎮守の祭典の夜に、青年男女が性の解放をすると云ふやうなことは、実際に見聞することは尠く〈スクナク〉なつた。明治の半頃迄〈ナカバゴロマデ〉は何々村の〇〇市とか、何処〈イズコ〉の国の茅切り〈カヤキリ〉市だとか、又は何々祭の藪入り〈ヤブイリ〉とか云つて、其の市の開かる前頃から、近郷の青年男女は、私か〈ヒソカ〉に其の夜の来るのを待ち設けて居たものである。私等〈ワタシラ〉も子供の時に頬冠り〈ホッカムリ〉した村の若者が、祭りの晩に娘さん達の群から意中の人の手を無理矢理に引つ張つて、林の中に隠れたのを今でも覚えて居るが、此頃は警察の方で矢釜しい〈ヤカマシイ〉のと、学校教育が普及したので、斯〈カク〉の如き性の乱れは余程〈ヨホド〉でないと見られなくなつた。七月の盆踊りとても同じことであつて、前頃は月皎々〈コウコウ〉と輝く十五夜の夜、節〈フシ〉面白く踊り行く娘達に対し、異様の眼を光らす若者も少からずあつたのであるが、之〈コレ〉も今日では親達の監督の厳重なると、娘自身の反省とで余程改つて来た。斯の如く村の青年男女の道徳の標準は、年を追うて改善せれつつあるが、他の一方の村人利己心の基く民風の頽廃〈タイハイ〉は、日に月に其度〈ソノド〉を増しつつある。村の各戸で消費する物品の数が、年毎〈トシゴト〉に増して行くことさへあるのに、物価は年と共に騰る〈アガル〉ばかり、之と反対に百姓の収入は、二十年前と今日とでは、左程に増して居ない有様〈アリサマ〉であるから、村の細民の生活苦は年と共に犇々〈ヒシヒシ〉と迫つて来る。生活に窮すれば自ら世間に対しても不義理などが出来、背に腹は変へられぬ所から、払ふべきものも払はずに、其場〈ソノバ〉を誤魔化すと云ふ風になる。越後地方の小作争議では、小作人が地主にあてがひ扶持〈ブチ〉を払つて、其滞納による小作料を地主から差押へられる前に、夜陰〈ヤイン〉密かに馬車に積んで町に売り出すとの話の如きも、社会闘争術としては聊か〈イササカ〉卑屈であり、公明を期する闘士として与み〈クミ〉し難い仕業〈シワザ〉ではあるが、小作人の家々に迫る生活上の苦痛から、斯る〈カカル〉行動にも出づるのであらう。村の公共事業に対しても、同じ心理状態の働きが強く現はれて居る。自分の家の仕事ならば朝早くから晩遅くまで、黒汗を流して働く勤勉な百姓でも、村の道普請〈ミチブシン〉とか、井路〈イロ〉の浚渫〈シュンセツ〉工事とかに出ると、打て変つての惰け〈ナマケ〉放題で、雑談と脇見と煙草呑みとで一日を暮らす人さへある。中にも極めて横著者〈オウチャクモノ〉になると、朝から夕方まで自分の鍬〈クワ〉に土を附けずに、帰つて来ると云ふ手合ひ〈テアイ〉さへもある。

 以上は近頃に於ける村の民風の現はれの一端であるが、一事は即ち萬事で、凡て〈スベテ〉のことが此の調子で進み行きつつある。人間社会の風紀を左右するものは男女の性行為と、利己心の抑制如何〈イカン〉であるが、近時の傾向としては大体にして、男女間の風儀が改まりつつあると反対に、各自の利己心は日を追うて強烈となり、為に村の社会階級の分裂を促すに至ることは未だ〈マダ〉良いとしても、村の公共的美風が萎微〈イビ〉すると云ふことであれば、民風の作興〈サッコウ〉は他の何事よりも、先づ世間の識者の脳漿〈ノウショウ〉を絞るべき重要問題とせられねばならぬ。琉球の任地から帰つた或る役人から、彼の地では土地の家から雇ひ入れた女中に留守がさせられず、留守の女中に対して、更〈サラ〉に監督が要る〈イル〉とのことを聞いたのであるが、是〈コレ〉は畢竟〈ヒッキョウ〉社会の経済的萎微が人心に及ぼして、斯る民習を作つた一例であると思はれる。内地の村方でも西瓜畑〈スイカバタケ〉に番人か要り、梨子畑に電灯を点した〈トモシタ〉上に、更に番小屋を健つるを要する此頃の有様では、行く行くは村の人を客に呼んだ後で、椀〈ワン〉や皿の数を数へねばならぬやうな日が来るのではあるまいか。閑寂で、善人の住む所、其れは田舎〈イナカ〉の村の代名詞であると思はれたのも昔の夢と化し行かんとする其〈ソノ〉源泉は、果して何処〈ドコ〉にあるか、深慮すべき問題である。

 

今日の名言 2012・6・24

 

◎人間社会の風紀を左右するものは男女の性行為と、利己心の抑制如何である

 

 農学博士・小野武夫の言葉。上記のエッセイ「村の風儀」に出てくる。これは、大正の末期に吐かれた言葉であるが、今日でも十分に通ずる「名言」ではないだろうか。

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誰にも読めない漢字熟語

2012-06-23 05:46:18 | 日記

◎誰にも読めない漢字熟語

 岩垂憲徳著『漢字声音談』(清水書院、一九四三)という本がある。その末尾に、「熟字音正誤」という付録がついている。
 読み方を誤りやすい漢字熟語について、その正しい読み方を示したものである。それによれば、凹凸を「オウトツ」と読み、拘泥を「コウデイ」と読むのは誤りだという。王羲之(人名)を「オウギシ」と読むのも誤りだという。
 にわかには信じがたいが、この岩垂憲徳〈イワダレ・ノリヨシ〉という人は、漢学の大家で著書・注釈書も多く、著書のなかには、『韻字索引』(冨山房、一九三七)などというものもあるから、漢字音についても相当に詳しかったと見てよいのである。
 以下、この「熟字音正誤」に挙げられていた漢字熟語とその「正しい読み」の一部を紹介してみたい。なお、漢字はいわゆる「新字」を使い、「読み」は現代かな遣いに直した。

押韻   アツイン
安否   アンフ
委蛇   イイ
委積   イシ
王羲之  オウキシ
凹凸   オウテツ
拘泥   クデイ
奇羨   キエン
金茎   キンコウ
身毒   ケンドク
黒臀   コクトン
五稔   ゴジン
悪池   コタ
可汗   コックン
胡虜   コロ
根蔕   コンテイ
小弁   ショウハン
茶首   サイホウ
自娯   ジグ
認得   ジョウトク
倒景   トウエイ
突厥   トックツ
鰒魚   ハクギョ
馬謖   バシュク
贔負   ビキ
黒尿   ビギ
僕射   ボクヤ
方両   モウリョウ
羊曇   ヨウタン

 いずれも「難読」である。「読み方を誤りやすい」というが、「正しく」読める人が、どのくらいいるのだろうか。しかしこれでも、見たこともないような「難字」を含まない、比較的「平易」な熟語だけを選んでいることをご了解いただきたい。
 岩垂の指摘は、委積、僕射など、手近にある辞書ですぐにその「正しさ」を確認できるものもあるが、ごく一部にとどまる。そのほかの大多数は、すぐには「当否」の判断ができそうもない。博雅のご教示を給わればさいわいである。
 それにしても、漢字というものは難しい。

今日の名言 2012・6・23

◎漢音には、北狄の語音が混淆して、原音を変化したものも鮮くない

 岩垂憲徳の言葉。『漢字声音談』の35ページにある。「北狄」の読みは〈ホクテキ〉、「混淆」の読みは〈コンコウ〉、「鮮くない」の読みは〈スクナクナイ〉。岩垂は、漢音よりも、むしろ南部の呉音に、漢代から伝わる「中原土人の原音」が保存されていると捉える。

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小野武夫博士の糞尿随筆

2012-06-22 05:19:27 | 日記

◎小野武夫博士の糞尿随筆

 小野武夫といえば、『日本村落史考』(刀江書院、一九二六)などの著作で知られる、農民史・農政史の大家である。
 私は以前から、この人の『日本農民史語彙』(改造社、一九二六)を愛読書としており、ときどき書架から出しては拾い読みをしている。これは典型的な「読める辞書」だと思う。
 小野武夫は、なかなかの文章家である。そのことに気づいたのは、つい最近のことで、『村の辻を往く』(民友社、一九二六=大正一五)というエッセイ集を手にしたときのことであった。
 この本に収められているエッセイは、どれも読みやすく、興味深い。その「時代」の人々の「心意」をよく掬い上げており、その意味で「史料」としての価値に富んでいる。
 以下、このコラムでは、三つほどのエッセイを紹介してみたいと思う。
 最初に紹介したいのは、「町の便」。比較的短いものである。
 初出の年月は不明だが、大正後期であることは、たぶん間違いない。文中、名古屋市の「人糞尿酌取会社」のことが出てくるが、これについて関心を持たれた方は、拙編著『厠と排泄の民俗学』を参照されたい。
 同じく文中に、「私の寓居あたり」という言葉がある。大正後期における小野の住所は、ハッキリしないが、あるいは東京市外小金井町ではなかったか(一九三九年の住所は同町)。
 さらに、老婆心から注記しておけば、文中にある「壷」とは、いわゆる「便壷」〈ベンツボ〉のことである。

 町の便        農学博士 小野 武夫

 便〈ベン〉と云つても町人の大便と小便の話である。曾て〈カツテ〉独逸〈ドイツ〉細菌学者コツホ博士が日本に来遊した時、東京の見物を終へて日光に赴く途中、汽車の窓から武蔵野の百姓が、黄金の汁を畑の野菜に注いで居るのを見て気をくさし、其れきり日本の蔬菜〈ソサイ〉を口にしなかつたと伝へ聞いて居るが、成る程〈ナルホド〉黴菌〈バイキン〉の養液にも等しい人糞尿で栽培した日本の野菜は、世界細菌学の泰斗〈タイト〉の目から見れば危険千萬〈センバン〉なものに違ひないが、何干年の昔から糞尿で作つた物で生きて来た日本入に取つては、左程〈サホド〉に之〈コレ〉を危険に思はぬばかりか、或る肥料学の先生などは、其教科書の中に人糞尿の科学的成分の称賛は愚か〈オロカ〉、其の臭気を以て天来の佳香〈カコウ〉かのやうに讃美して居る程であるから、人糞尿は日本の百姓に取つては捨てようにも捨てられぬ宝である。尤〈モット〉も同じ糞尿の中でも、自家で生産した便と他人が産んだのとでは、之を汲み扱ふ気持が著しく異るのである。一口に言へば自分の便よりも他人の便の方がきたなく感ぜらるるのである。然る〈シカル〉にも拘らず、都会や町の近傍〈キンボウ〉の百姓が、此の汚い〈キタナイ〉他人の便を酌〈クミ〉取つて肥料に使用するのは、値段の安いと云ふとも一〈ヒトツ〉の理由ではあらうが、其の効能の顕著なのにほれ込んだ結果に外〈ホカ〉ならぬ。以前には何処〈ドコ〉の町でも下肥〈シモゴエ〉一年分百姓に酌み取らせると、百姓の方から其の代償として餅米四斗〈ヨント〉とか五斗とか、又は車や馬を牽〈ヒ〉いて来る度毎〈タビゴト〉に、野菜の二三把〈ニサンバ〉も土産〈ミヤゲ〉に置いて行つたものであるが、近頃は百姓の方の鼻息が荒くなつたせいか、餅米や野菜などの土産物は愚か、前とはあべこべに町家の方から酌取り賃を出さねば、何日経て〈タッテ〉も酌み手がないと云ふ程になつて来た。尤も東京ではずつと以前から、日本橋や京橋の如き郊外から距〈ヘダタ〉つた中心地では、多少づつ酌取賃を払うて居たけれども、山ノ手の方では無代無償で酌み取つて居たものである。然るに近頃では偏僻〈ヘンピ〉な郊外でも近所の百姓が唯〈タダ〉では酌み取らずに、相当の酌み取り賃を取つて居る。私の寓居あたりでも壷一個に付〈クキ〉毎月五十銭、二壷では一円づつの汲賃〈クミチン〉を仕払つて居る。名古屋市に数年前迄人糞尿酌取会社があり、百姓の方から代価を徴収して会社の経済を維持して居つた〈オッタ〉が、近頃になつて会社の肥料を百姓の方で買はなくなつた為に右の会社は解散し、今では近郊の百姓は無料で以て酌み取りつつあるとの話は、又一段と市街地の糞尿に対する田舎〈イナカ〉の人の腰の強さを語るものである。
 横井博士であつたか、町の者と村の者とが戦争をして、町の者を閉口させる唯一の戦術は、百姓の方で人糞尿を汲んでやらずに、町人を糞攻めにすることでであると言はれたことがあるが、今の分で進めば、段々百姓の鼻息が荒くなつて、詰り〈ツマリ〉は町人は百姓に対し、税金以上の貢ぎ〈ミツギ〉をしなければ、黄金の汁が床下に泌み出す不快に陥るかも知れぬ。「オアイヤ」〔汚穢屋〕と馬鹿にせらるる百姓でも、便の問題にかけては、町人に対しては「タイラント」〔暴君〕たるを得る経済的特質を享有してゐる。村の者が町人を攻め立つる道具としては、購買組合を設けて、町人を干乾し〈ヒボシ〉にする計略も左〈サ〉ることながら、便を以て戦ふのも亦〈マタ〉一つの軍法であらう。近頃盛んな小作争議の鉾尖き〈ホコサキ〉が、いつか町の旦那方に向けられはせぬかと心配して置いて、強ち〈アナガチ〉取り越し苦労ではなかろうぢやないか。

今日の名言 2012・6・22

◎同じ糞尿の中でも、自家で生産した便と他人が産んだのとでは、これを汲み扱う気持が著しく異なる

 農学博士・小野武夫の言葉。上記のエッセイ「町の便」に出てくる。話が下卑〈ゲビ〉てしまったことはお詫びしなければならないが、これは、ひところの農民の心意を紹介した貴重な証言である。なお、「糞尿の中」の「中」の読みは、「ナカ」ではなく「ウチ」ではないか。

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『世界犯罪隠語大辞典』の中の気になる隠語

2012-06-21 05:37:46 | 日記

◎『世界犯罪隠語大辞典』の中の気になる隠語

 西山光・黒沼健共編の『世界犯罪隠語大辞典』(一九三三)について、もう少し触れておきたい。
 この辞典の主要部分は、西山光編「犯罪隠語辞典」で占められている。西山が、どういう文献や資料を使って、この辞典を編集したかは不明であるが、項目によっては、かなりユニークな記述が見られるので、以下、そうした項目を紹介してみたい。

アイ (一)凶器のこと。匕首〈アイクチ〉の略語から転じた語。(二)空巣〈アキス〉窺ひの隠語。家人不在中といふ意味に用ふ。

*〈 〉内は、引用者が付した読み。以下も同じ。原文には、ルビが施されていない。なお、家人不在中の意味の「アイ」は、漢字で表記すれば「間」か。

アカウメ(赤梅) 火事のこと。
アカコウリ(赤行李) 貴重品の総称。郵便局で現金を輸送する赤行嚢〈アカコウノウ〉から転じた隠語である。
アカリガハイル 犯行が発覚され、路〈ミチ〉が危くなること。
アケ 窃盗犯用隠語。午前三時か四時頃迄に窃盗の目的を達し、初発の交通機関を利用して逃亡する者をいふ。
アタイ うまい仕事にありついて、着手したものの、中途で故障のため、みすみす逃亡すること。

*「アカコウリ」は、楳垣実の『隠語辞典』(一九五六)の「アカコウノウ」(赤行嚢)に対応する。「アカリガハイル」は、同じく『隠語辞典』の「アカリガイル」(明りが入る)に対応する。「アケ」は、一九二九年に逮捕された「説教強盗」の手口を連想させる。

アテ (一)掏摸〈スリ〉常習者間の隠語。掏摸に用ふる小刃物。(二)門戸の施錠を破壊する道具。(三)犬猫専門の窃盗犯即ち四つ師の使う剥皮〈カワハギ〉用の刃物。切り出し小刀を先端から一寸五分ほど切取つた三角形の一辺に刃のある小刀。(四)強盗犯のこと。(五)犯罪事実又は犯行当時の状況に関する新聞記事。
アブセ 四つ師〈ヨツシ〉仲間の隠語。路上の犬に餌をあたへ、油断を窺つて撲殺すること。
アブセル 殺傷すること。

*「アテ」の(三)の説明は、『隠語辞典』には見られない。「アブセ」の項にある「四つ師」とは、同大辞典によれば、「飼猫専門の泥棒」を意味する。四つ師に捕まった猫は、三味線に化けるのである。なお、「アブセ」、「アブセル」は、「浴びせる」という言葉と関わるのではないか。

 さて、「アの部」に含まれる隠語だけを見ても、これだけ気になるものがあった。この調子でやっていくと、いつまでたっても終わらないし、ほかのテーマについて論ずることができなくなる。
 というわけで、「『世界犯罪隠語大辞典』の中の気になる隠語」は、このあと、気が向いたとき、ネタが切れたときに、散発的に採りあげてゆこうと思う。

今日の名言 2012・6・21

◎アカイキモノヲキル
 
 赤い着物を着る。犯罪者の隠語で、「刑務所へ入る」の意。西山光編「犯罪隠語辞典」より。1908年(明治41)に作られた監獄法施行規則は、当初、未決囚の着物は「浅葱色」〈アサギイロ〉、既決囚の着物は「赭色」〈シャイロ〉と定めていた。「赭」は赤土の色のことで、この色は、古代中国以来、罪人が着る服の色だった。漢語の「赭衣」〈シャイ〉は、罪人が着る「赤い着物」、または罪人という意味である。ちなみに、監獄法施行規則は、多くの改正を経て、2007年まで「現行」であった。

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