礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「革命よりも戦争がまし」、「革命よりも敗戦がまし」の昭和史

2013-02-18 05:56:56 | 日記

◎「革命よりも戦争がまし」、「革命よりも敗戦がまし」の昭和史

 昨日紹介した高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、一九四九)』の「政治・戦争・人」によれば、戦後になってから、岡田啓介元首相や及川古志郎元海相は、日本が戦争に突入したのは、「日本が二つに割れる」のを避けるためであり、やむをえなかったという感想を表明したという。これに対して同書の著者である高木惣吉は、明治初年における大久保利通の姿勢などを引きながら、たとえ内乱になったとしても対外戦争は避けるべきだった、と主張した。
 高木の言葉には聞くべきものがあるが、ここで注意しなくてはならないのは、そのように主張する高木にしても、日本が戦争に突入したのは「日本が二つに割れる」のを避けようとする判断からだったという点に関しては、岡田元首相や及川海相と、共通の認識を持っていたということである。
 では、この「日本が戦争に突入したのは、日本が二つに割れるのを避けようとする判断からだった」という認識を、最初に示したのは、あるいはそれを広めたのは誰だったのだろうか。
 本日は、この問題に関し、重要なヒントになりそうな文章を、ひとつ紹介してみたい。

1 “戦争か平和か”の選択でなく
「開戦」(十二月八日)は、戦争(外戦)か革命(内戦)かの選択だった。戦争か平和かの選択ではなかった。「開戦」をめぐる選択と決定が、きわめて切迫した情勢の下でなされたことはいうまでもなく、したがって戦争の回避が平和の選択にはならず、内戦、ひいては革命の危機に直面することを意味していた。少なくもそう思われていた。こうして日本の支配層は“革命よりは戦争がまし”という形で「開戦」を選んだのである。[9]
[9]“革命よりは戦争がまし”という指摘は、日米開戦直後に書かれたヒュー・バイアスの「敵国日本」で述べられていた。彼は近衛内閣の時におこった「支那事変」について「それが不必要な戦争であることを近衛が知らぬはずがなかった。ただ彼は国内における反乱や革命にくらべては支那との戦争の方がまだましだと考えたのである」と書いている。バイアスはニューク・タイムス、ロンドン・タイムスの特派員として日本に二十八年間滞在し、開戦当時大部分のアメリカ人にとってほとんど未知の国、しかも敵国となった日本を紹介したその原本は、第一回交換船で日本に伝えられていた。彼は日本の軍事力の侮りがたい強大さをアメリカ人に警告すると共に、その致命的弱点をも的確に指摘している。それ故、この本は当然戦時下の禁制書目に入れられて一般の眼にふれることはなかった。ただ厳重な監視の網をくぐって一部が抄訳され、近衛や木戸ら有力者の間で回読されていた。やがてそれすらも憲兵隊の嗅ぎつけるところとなり、関係者は次々に逮捕、投獄されていった。戦後、雑誌『世界』は創刊号、第二号にその抄訳を掲載した。引用部はその第四章「誰が日本を動かすのか(つづき)」にある。(『世界』第二号、一九四六年二月、一七五ぺージ)
 同じことは「敗戦」(八月十五日)にも当てはまる。それは革命(内戦)か敗戦かの選択だった。ここでも天皇を含む日本の戦争指導層は国体の護持を至上命令としたから、“革命よりは敗戦がまし”という形で「敗戦」を選んだ。天皇の命令によって戦いをやめる終戦によってなら、国体が維持される可能性はある。しかし、戦争を継続して本土決戦に突き進むことは、上陸米軍との戦闘もさることながら、その間に抗戦派と降伏派、日本人同志、日本軍同志の内戦をひきおこす。内戦と外戦が重なりあい、もつれ合って展開することはフランス革命にもロシア革命にも見られたところであり、われわれはバルザックの『シューアン党』やショーロホフの『静かなドン』などの文学作品にその様をまざまざと汲みとるここができる。この時、国体の護持は確実に不可能となり、それまでの支配層は全面的に崩壊して革命状況をもたらすことはあきらかだった。この懸念が彼らをして「敗戦」を選択させたのである。
 それでは、二つの選択にこのような形をとらせた根因は何だったのか。外交は内政の延長という命題は不朽の真理である。それは外交だけでなく戦争にもあてはまって、十二月八日に戦争の回避を、八月十五日に戦争の継続を不可避にしたものこそ、当時の支配体制、つまり国体を支える支配構造そのものだった。

 以上は、河原宏氏の『日本人の「戦争」』の第Ⅱ章の第一節である(全文)。ここではこれを、ユビキタ・スタジオ刊の新版(二〇〇八)から引用した。
ここで河原氏は、いくつか、きわめて重要なことを指摘している。
〇日本の対米開戦は、内戦を回避するためだった(革命よりも戦争がまし)。
〇同じく、日本の降服(敗戦)は、内戦を回避するためだった(革命よりも敗戦がまし)。
〇ヒュー・バイアスは、日米開戦直後に執筆された『敵国日本』(一九四二)の中で、支那事変という選択についても、同様のことが言えると指摘している。
〇バイアスの同書は、日本にも持ち込まれたが、禁制書目とされ、一般の眼に触れることはなかった。
〇しかし、同書は、近衛文麿や木戸幸一ら有力者の間で回読された。
 十分な資料や考察を踏まえた上での判断ではないが、ここで、いくつかの仮説を示しておきたいと思う。
◇「日本が戦争に突入したのは、日本が二つに割れるのを避けようという判断が働いたからだった」という認識を、最初に示したのは、アメリカのジャーナリスト、ヒュー・バイアスであろう。ただし、バイアスがこの認識を示したのは、「支那事変」についてである。
◇日米開戦後、『敵国日本』の抄訳を読んだ「有力者」は、バイアスのこの認識を肯定せざるをえなかったであろう。
◇近衛文麿が『敵国日本』の抄訳を読んだというのが事実だとすれば、その影響は、近衛「上奏文」(一九四五年二月)の趣旨(革命よりも敗戦がまし)に及んでいる可能性がある。
◇戦後、雑誌『世界』によって、初めて『敵国日本』を読んだ政治家や軍人も、バイアスのこの認識を肯定せざるをえなかったであろう。
◇彼らは、バイアスが「支那事変」について示した認識を、日米開戦や日本の降服についても適用し、かつそのことをいろいろな形で表明していった。
 なお、河原宏氏の『日本人の「戦争」』の原版は、一九九五年に築地書館から刊行されている。河原氏は、二〇一二年二月に亡くなられたが、同年一〇月、講談社学術文庫に、『日本人の「戦争」』が収められた。

今日のクイズ 2013・2・18

◎ヒュー・バイアスの『敵国日本』について正しいのはどれでしょうか。

1 1946年に雑誌『世界』が抄訳を紹介したが、その後は、翻訳などは一切あらわれていない。近いうちに、翻訳される予定もない。
2 2001年に、原書に基づいた新訳が刊行された。
3 雑誌『世界』に載った抄訳と原書に基づいた新訳とを併せたものが、近々、某文庫から刊行されることになっている。

【昨日のクイズの正解】 1 ダーダネルス海峡に面した半島の名前 ■ただし、ガリポリ半島は当時の呼称(英語)で、今日では、ゲリボル半島という(トルコ語)。

今日の名言 2013・2・18

◎外交は内政の延長という命題は不朽の真理である

 河原宏の言葉。『日本人の「戦争」』より。ユビキタ・スタジオ版では、八八ページに出てくる。上記コラム参照。

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「日本が二つに割れる」ことを恐れた結果の対外戦争

2013-02-17 07:58:54 | 日記

◎「日本が二つに割れる」ことを恐れた結果の対外戦争

 昨日に続き、高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、一九四九)にある文章を紹介する。
 同書は、「連合艦隊始末記」、「日本陸海軍抗争史」、「政治・戦争・人」の三部からなるが、その「政治・戦争・人」に次のような文章がある。

 昭和十五年の夏、近衛〔文麿〕第二次内閣で遂に一旦消滅していた日独同盟論がむし返されて、時の及川〔古志郎〕海相、豊田〔貞次郎〕次官は遂にこれに賛成してしまつたのである。
 当時は既に欧洲戦がはじまつていたので、今更それにまきこまれるという危険も遠のいていたし、また独ソ不侵略条約のあとのことで、ソ連の挾みうちとはあべこべに、〔ドイツの〕リッベントロツプ外相は日ソ間の『忠実なる仲買人』となることを買つてでていた位で、ゆくゆく日独ソの提携によつてアメリカの参戦をくいとめ、日華事変を解決しようという、尤もらしい理屈であつたのである。
 終戦後その頃のことを回顧し及川は、海軍が反対を固執すれば、輿論〈ヨロン〉が軍事同盟に傾いてしまつた当時の実情から『日本が二つに割れる』ことを恐れて忍びなかつたというのである。
 最近ある総合雑誌によせた岡田〔啓介〕前首相の回顧談に、
『日本は今度の戦争で敗けたのだし、又、その戦争にいたる動機や、敗因のなかには、二・二六事件〔一九三六〕に現われたような考え方、行動、勢力といつたものが大きく働いている。しかし、同じ敗戦にしても、日本が二つに割れることなしに、やはり一つの日本としてこの不幸と艱苦〈カンク〉を共にしえていることは、せめてもの幸せではないかと考えられる。わたしはそれを思うと、やはり内乱に至らなかつた、又、さうさせなかつたことをよかつたと思うのです』
 というのがあつた。この思想は及川の述懐と同じもので、征韓論や、閔妃〈ビンヒ〉殺害〔一八九五〕や、厦門〈アモイ〉事件〔一九〇〇〕や、満洲事変〔一九三一〕と共に、国内の対立や分裂をふせぐためには陰謀、出兵、侵略、敗戦もまた已むをえないとする考えかたで、その底流において全く合致することに注意しなければならぬ。大久保〔利通〕が十年の内乱をモノともせず、命をかけて断行した国内の整備統一、山本(権)〔山本権兵衛〕が陸軍との正面衝突を覚悟して日清、日露の開戦前に、朝鮮派兵に反対し、厦門占領の陰謀を抑えたその気魄とは、正に雲泥のちがいと思う。
 第一次大戦の初頭、弾薬の欠乏に関連して弾薬委員会(英軍需省の前身)の設置を叫んだロイド・ヂヨージも、文官の容喙を斥けたキッチナーも、共に職を賭しで論争した。ガリポリ上陸戦〔一九一五〕のことではフイッシャーもチャーチルも双方とも、その地位を去らねばならなかつた。
 フランスではポアンカレとクレマンソウとは、互に白髪頭をかゝえて摑みあわんばかりに争つたこと度々であつた。またクレマンソウとフオッシュは、後者が死んだあとまでも死屍互に戦うという凄じさで論争をつゞけている。
 これらの喧嘩や論争ははたして英仏の弱点と見るべきであろうか。むしろその国民の大事に対する真剣味を示すというべきではなかろうか。【以下、略】

 日本が戦争に突入したのは、「日本が二つに割れる」のを避けるためであり、やむをえなかったというのが、岡田啓介元首相や及川古志郎元海相の認識であるが、これに対して高木惣吉は、たとえ内乱になったとしても、対外戦争は避けるべきだったと主張しているのである。
 文中、「十年の内乱」とあるのは、明治維新以来、西南戦争の終結にいたるまで続いた内乱や政府転覆陰謀を指すものと思われる。

今日のクイズ 2013・2・17

◎ガリポリについて正しいのはどれでしょうか。

1 ダーダネルス海峡に面した半島の名前
2 ダーダネルス海峡に浮かぶ小島の名前
3 ダーダネルス海峡に面した都市の名前

【昨日のクイズの正解】 2 フランス領インドシナ ■漢字で書くと仏蘭西領印度支那、略して仏印。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・17

◎内乱に至らなかつた、又、さうさせなかつたことをよかつたと思う

 岡田啓介元首相の言葉。高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、1949)から重引。上記コラム参照。岡田啓介は、二・二六事件当時の首相で、事件に際し、九死に一生を得たことで知られる。

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高木惣吉が描写する西田幾多郎の風貌

2013-02-16 05:48:41 | 日記

◎高木惣吉が描写する西田幾多郎の風貌
 
 元海軍少将の高木惣吉という人は、軍人らしからぬインテリであり、また巧みな文章を操る人であった。当ブログでも、以前、この人の「古い戦争観が齎したもの」(一九五二)という文章を紹介したことがある(昨年八月二五日)。
 本日は、高木惣吉の『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、一九四九)という本から、彼が哲学者の西田幾多郎〈ニシダ・キタロウ〉について回想している文章を紹介したい。同書は、「連合艦隊始末記」、「日本陸海軍抗争史」、「政治・戦争・人」の三部からなるが、その「連合艦隊始末記」に載っている「開戦と西田幾多郎先生」という一文が、本日紹介する文章である。

 日華事変の戦場が南にひろがり、米内〔光政〕内閣から近衛〔文麿〕第二次内閣になつて仏印北部の進駐や、日独伊三国の軍事同盟が成立したりしてからは、連合国との紛争ははげしくなるばかりであつた。
 十六年〔一九四一〕になると日米関係は嵐のまえの緊張を加え、折角〈セッカク〉近衛第三次内閣までつくつて最後の望みをかけた近衛・ルーズヴェルト会談も遂に駄目だとなつて、交渉の妥結はまず絶望ということになり、結局近衛内閣も潰れて東条〔英機〕に代り、戦争気構えは急ピッチで濃くなつていつた。
 ちようどその頃のこと、鎌倉に西田幾多郎先生を訪ねたことを想い起す。
 職務上の関係もあつていろいろの人に面接した筆者にも、西田先生の質問ほど特色のあるものは珍らしかつた。軍事問題、外交問題の核心にふれてくるその質問ぶりは、素人だからといつて、ゴマかせない真剣さがあり、むしろ凄味にちかいものがあつて、躰のひき締る思いをさせられるのが毎度の例であつた。
 部内の先輩では山梨〔勝之進〕大将がかつて次官時代、よく急所を訊ねられて恐かつたものだが、先生のような根本的な、しかも熱心な質問者は会つたことがない。
 飾りけもなければお世辞もない先生は、政治家でも軍人でもすいぶん手ひどく批評されたものである。昭和の日本に善い政治家も軍人も居らないというのが、その深い歎きであつた。
『近衛という男はネ、自分では会いにこない。私に小言をいわれるのがウルサイらしい。そのくせ荒木(貞夫大将)に手紙なんかを持たしてよこすのだヨ』
と笑いながら
『近衛も弱くて駄目だ、マア三条実美〈サンジョウ・サネトミ〉ぐらいのところかネ』
 とも揶揄された。しかしそう責めながらも近衛、木戸〔幸一〕、原田〔熊雄〕諸氏のことを陰ではしみじみと案じては話されたものだ。
 先生はよく木戸侯、織田〔信恒〕子のことを「キト」が、「オタ」がと濁らずに独得のよびかたをされたものであつた。
 近衛第二次内閣が日独同盟を納んだ時などは御機嫌はなはだ斜めで、その不満は非常なものであつた。
『私はドイツ語の教師をつとめ、ドイツ哲学のお世話になつて今日になつている。だから学問的にはドイツに贔屓したい意識が働く。しかしナチスという野蛮人どもは文化に対する良識がない。ナチスになつてからドイツの哲学は皆コワされた。こんな政治の国と手を握るなんてトンでもない』
 と軍部や政府の処置を憤つておられたことを思いだす。
 荒木〔貞夫〕文相時代の文部行政に対してはそれこそ怒髪冠をつくという論難ぶりであつた。【中略】
 さて話が廻り道をしたが筆者はその日、時局もいよいよここまで切迫してしまつては、もはや一戦する外に方法はありますまいと、政府及び軍部の情勢をうちあけたのであつた。すると意外にも目の色をかえた先生は声を強くして
『君たちは国の運命をどうするつもりか! 今まででさえ国民をどんな目に会わせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦でもできると考えてるのか!』
 とあのキツイ眼鏡ごしに睨み据えられたとき、正直のところ息がつまつたように感じて、姥ケ谷〈ウバガヤツ〉の奥にあるあの簡素な書斎で目立つていた北斎の茜富士も、セザンヌの浴後の図も、その時ばかりは眼に映らなかつた。【以下略】

「躰のひき締る」という表現が出てくるが、原文のまま。たぶん「躰」は〈ミ〉と読ませるのであろう。
「北斎の茜富士」も原文のまま。「北斎の赤富士」のことか。
 西田幾多郎の風貌について描写した文章は、これまでいくつか読んだことがあるが、その中でも、この高木惣吉の描写はきわめて印象的である。貴重な一文と言えるのではないだろうか。なお、この当時の高木の役職は、海軍省官房調査課長であったと思う。

今日のクイズ 2013・2・16

◎「仏印」の意味として正しいのは、次のうちどれでしょうか。

1 フランス領インド
2 フランス領インドシナ
3 フランス領インドネシア

【4月14日のクイズの正解】 1 今日のモルドバ共和国の領土に相当する地域の古名。■ベッサラビアについてのクイズ。昨日、正解をお知らせするのを忘れました。

【昨日のクイズの正解】 1、2,3、4(宇津井健、菅原文太、高島忠夫、丹波哲郎)。■この四氏は、新東宝出身です。今月14日に亡くなった本郷功次郎さんは、大映ニューフェイス出身。

今日の名言 2013・2・16

◎君たちは国の運命をどうするつもりか!

 西田幾多郎が、日米開戦直前、高木惣吉に対して発した言葉。高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、1949)の39ページに出てくる。上記コラム参照。

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早撮りの傑作『明治天皇と日露大戦争』(1957)

2013-02-15 06:15:12 | 日記

◎早撮りの傑作『明治天皇と日露大戦争』(1957)

 今月の九日と一二日、内外タイムス文化部編『ゴシップ10年史』(三一新書、一九六四)という本を紹介した。これは、ゴシップ満載の本で、どのページを開いても楽しめる。ただし、なにしろ昔の本なので、そうしたゴシップを楽しめるのは、団塊の世代以上の読者に限られる。
 本日は、同書の一九五七年の章から、「明治天皇と大蔵貢」という一節を紹介したい。

 明治天皇と大蔵貢
「昨年五月、妻と共に伊勢神宮を参拝した際インスピレーションを受けました。さらに桃山御陵に詣で、かっきりしたイメージをつかみました」
 一月二十二日、新東宝大蔵貢〈オオクラ・ミツグ〉監督は『明治天皇と日露大戦争』を製作するに当ってこう発表、はじめからテレパシーを利用した。
 世界一の早撮りと反共愛国の渡辺邦男が監督である。東映が同じ時期『鳳城の花嫁』を撮影しており、この二作が国産大型映画の第一号を競いあう結果になった。
 一月三十日脱稿、二月十四日、社長、重役、スタッフ、キャストが明治神宮へ必勝祈願、神主のオハライをうけ勇躍二月十八日撮影に入る。この日、月曜日で晴。「第三軍激励国民大会場」のシーン。セットに万国旗が張られるが、当時なかった国の旗、アメリカ国旗の星の数のちがいなどが目につく。小道具の勲二等旭日重光章、勲一等功二級旭日桐花大綬章などを、スタッフが都内一円に散らばり借り集めている。中抜き撮影が得意の渡辺監督は「大本営」のシーンを撮り二十分ほど休憩を宣すると、同じステージが「御学問所・二の間」になっている。大本営では側面になっていた壁を正面にし、机と机上の物を若干変える。いままで会議している東郷〔平八郎〕(田崎潤)や乃木〔稀典〕(林寛〈ハヤシ・ヒロシ〉)それに参謀連がステージの外に出て一服。天皇(嵐寛寿郎〈アラシ・カンジュウロウ〉)だけが残って静かに本を読んでいる。これを斜めから撮り人間と壁かけを変えると「海軍合同会議室」のシーンになる。
「東郷、しばらくであったな。連合艦隊の準備は完了したか」アラ寛氏が何度も口ごもる。「天皇ッセリフはその早さ、わかったね、いいね」「ハッ」天皇が監督に頭を下げている。かくのごとく転換は早い。「東郷ッ東郷ッ」と監督がわめき、田崎がおくれてノコノコ入ってくる。「東郷只今便所へ参上……」「バカモンッ」
 ともかく、こんなわけだから“空前の巨費”二億円がかかるわけはない。どう見たってその五分の一ぐらいである。パノラマ同様だから、パッと出てパッと消える将官連も多い。ツキアイ出演だからギャラも安い。
 二〇三高地〈ニヒャクサンコウチ〉と首山堡〈シュザンポウ〉激戦は御殿場ロケ。下から上にむかっての突撃だから、下級俳優はわれ勝ちに名誉の戦死をしたがる。戦死をすれぼ馳け上らなくてすむ。それを監督が督戦「突撃ッ突撃ッ」とわめく。
 かくしてゴールデン・ウィーク。「帝王巨編」「全国民一人残らず」「社運を賭して」「大シネスコ本格的総天然色」とくどく銘打ったこの映画のバカ当り。小津〔安二郎〕の『東京暮色』、岸恵子の『雪国』、〔石原〕裕次郎の『勝利者』これらがいっせい敗北者になった。興収〔興行収入〕約五億。大宅壮一から皇太子までを見せ、泣かせ、『明治天皇と日露大戦争』は大勝利した。この間、大蔵貢社長は徹底的に天皇主義者をよそおい、神がかった言動をロウした。高松宮がセットを見学に訪れた時「気オツケー、敬礼ッ」と号令、高松宮をパチクリさせもした。が、勘定はしっかりしていた。彼は〈天皇がもうけの対象〉にしか過ぎないことを、恐らく知り抜いていたのだろう。
 終始、オソレ多いと感じていたのはアラ寛〔嵐寛寿郎〕氏ただ一人だったように思う。戦前世代の思想的貧しさを心憎いほど食いものにした、これは大キワモノ映画であった。

 二月末にクランクインし、ゴールデンウィークに封切りしたというから驚く。大変な早撮りである。
 一九五七年(昭和三二)といえば、映画の全盛時代であった。当時、田舎の小学生であった私も、この映画を鑑賞した。ただし、映画館で見たわけではない。小学校の校庭で開かれた「納涼映画会」で、夜間、団扇を扇ぎながら見たのである。明治天皇が、戦死者の名簿を見るシーンなどをかすかに覚えている。この納涼映画会は、おそらく同年の夏休み中のことだったはずである。

今日のクイズ 2013・2・15

◎次の俳優のうち、映画初出演が新東宝の映画だったのはだれでしょうか。答がひとつとは限りません。

1 宇津井健  2 菅原文太  3 高島忠夫  4 丹波哲郎  5 本郷功次郎 

今日の名言 2013・2・15

◎安く、早く、面白く

 新東宝株式会社(映画会社)社長・大蔵貢の経営方針は、「安く、早く、面白く」だったという。新東宝の作品で有名なのは、上記コラムで触れた『明治天皇と日露大戦争』(1957)。

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ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動

2013-02-14 05:42:05 | 日記

◎ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動

 昨日の続きである。H・G・セリグマンの論文「ユダヤ人問題の将来」(一九三七)の付表の後半を紹介したい。

付 ヨーロツパに於けるユダヤ人の地位(承前)

国名     人口   *ユダヤ人口  ☆圧迫状態  ★ユダヤ人の経済社会状態
イタリー    41,176,671 *5・2万 ☆特にユダヤ人に対して差別待遇はない。 ★ユダヤ人攻撃は、イタリーがドイツと接近して以来猛烈となつて来ている。これとても公然締結されたものではない。
ユーゴースラヴイア 13,934,038 *7万 ☆ナチ中央部は反ユダヤ煽動を政治的に展開することを約した。 ★反セミチズム鞏固。
ラトヴイア   1,900,045 *9・7万 ☆立法はないが、ユダヤ人は職業戦線から逐はれ、政府の専売局はユダヤ人をして実業界から徐々に駆逐を企てゝゐる。 ★急進反ユダヤ運動は次のリスアニアと同様盛んである。両国には極端に貧困したユダヤ人が多い。
リスアニア   2,340,038 *17万7500 ☆ユダヤ人教授の講座は全部閉鎖された。実業界からも消えた。但し政治的拘束はない。
ノールウエイ 2,814,194 *1400 ☆自由平等を愉む。
ポーランド   31,927,773 *315万 ☆就職戦線から駆逐され、政府の専売は拡充され救貧政策は起されてゐるが、ユダヤ人は除外されてゐる。政府銀行組織によりユダヤ人の信用貸は為さず、連合条約を固守してゐる。ユダヤ人ボイコツトは政府により黙認され、政府のユダヤ人社会保証は徐々に取り消されてゐる。但し、貧農労働者による反ユダヤ運動攻撃は滅すことが出来ない。 ★貧困化したユダヤ人の群、文字通り百万人の彼等が餓死しつゝあり、二百万人は生活の為に絶望的死闘を続けてゐる。彼等のボイコットは正しく「飢餓封鎖」に等しい。必要なパンをさへ売らないのだから。ユダヤ人に対する広義経済戦は散発的暴行である。地方では虐殺さへ行はれてゐる。
ポルトガル   6,825,883 *2600 ☆差別待遇なし。
ルーマニア   18,025,037 *105万 ☆例の連合条約はルーマニア大学内規と類似して行きつつある。上からの高圧的ユダヤ人駆逐は、法の欠如にも不拘〈カカワラズ〉行はれる。「市民権修正」により、幾百とないユダヤ人が土地を失つた。 ★北方ルーマニア特にベツサラビアには極端に貧民がゐる。而して世界的指弾は此の国にゐるユダヤ人をして最早絶望状態に立ち至らしめてゐる。
ソビエート・ロシア 1億6500万 *300万 ☆平等自由。反ユダヤを口にする者は懲罰される。 ★五十万ユダヤ人はウクライナ、クリミアで農業に就く。彼等はアグロ・ジヨイントなる政府の指導下に地方委員会を通じて働く。ユダヤ人の生活根本基礎となるものは、農業、手工業、その他の生産作業である。
スエーデン   6,141,571 *7200 ☆自由平等を愉む。 
スイス     4,066,400 *17600 ☆右に同じ。 ★反ユダヤ運動は主として海外より移植され、存在することはするが、勢力あるものではない。

 この付表を見て一番ショックだったのは、ポーランドの項にある記述である。これを見る限り、ポーランドは、一九三九年にナチスの侵攻を受ける以前から、反ユダヤ主義という思想的侵攻を受けていたと解せざるをえない。
 と同時に、一九三〇年代のヨーロッパにおいて、ナチスのファシズムが猛威を振るったのは、それが反ユダヤ主義運動と結びついたからに違いないという感を改めて強くした。

今日のクイズ 2013・4・14

◎ベッサラビアについて正しいのはどれでしょうか。

1 今日のモルドバ共和国の領土に相当する地域の古名。
2 今日のウクライナ(国名)の南端に位置する地域の古名。
3 今日のルーマニア(国名)の北端に位置する地域の古名。

【昨日のクイズの正解】 3 1936年にベルリンで結婚式を挙げたときには、ヒットラーも出席した。■オズワルド・モズレーは、イギリスの上流階級に生まれ、サンドハースト陸軍士官学校に入学したが、途中で退学した。また、イギリス・ファシスト同盟の代表として総選挙に出馬した際は、議席を獲得できなかった。ウィキペディアに拠る。

今日の名言 2013・4・14

◎ユダヤ人に対する広義経済戦は散発的暴行である

 1937年段階のポーランドでユダヤ人がおかれていた状況についてのコメント。セリグマンの論文「ユダヤ人問題の将来」の付表「ヨーロツパに於けるユダヤ人の地位」のポーランドの項に出てくる。上記コラム参照。

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