礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満洲日日新聞社編『安重根事件公判速記録』緒言

2013-11-25 04:23:56 | 日記

◎満洲日日新聞社編『安重根事件公判速記録』緒言

 昨日のコラムで紹介した『安重根事件公判速記録』は、大連市の満洲日日新聞社の編集ならびに発行によって、一九一〇年(明治四三)三月二八日に刊行されたものである。本文の第一ページに、満洲日日新聞社記者速記とある。B6判、本文一八九ページで、定価三〇銭。
 本文の前に「緒言」として、「伊藤公遭難顛末」と題された三ページ分の文章がある。本日は、これを紹介してみよう。

 緒言
  伊藤公遭難顛未
 明治四十二年十月廿六日午前九時伊藤〔博文〕公一行は哈爾賓〈ハルビン〉駅に到着したり是より曩〈サキ〉伊藤公爵は韓国の事粗〈ホボ〉定まりたるを以て韓国統監の職を辞して枢密院の閑職に就きしが国家は伊藤公を一日も閑地に置く能はず〈アタワズ〉幾何〈イクバク〉もなくして満洲視察の途に上ることゝなれり此行政治的意味の有無に関しては茲に〈ココニ〉叙述の限りに非ず〈アラズ〉斯くて月の十八日には在満官民の盛大なる歓迎の裏に〈ウチニ〉大連に上陸しつ越えて廿日旅順に至り日露戦蹟を弔ひ〈トムライ〉沿線巡視に向へるものなり伊藤公は車中に於て露国大蔵大臣ココフツオフ氏と二十分に渉る会見をなし尋で〈ツイデ〉客車を下り露国儀仗兵一個中隊を閲兵しつゝ邦人の一団に近づき更に数歩を引返さんとする一刹那突如として躍り出でたる一韓人あり矢庭に公爵目蒐けて〈メガケテ〉拳銃を放射せるが銃丸三発は公爵の腹部に命中せり斯くて重傷を負へる公爵は直ちに客車中に運ばれ随従せる小山〔善〈ゼン〉〕医師始め露国医師も応急手当を施し皮下注射を施したるも其効なく間もなく不帰の客となられしぞ悲しき此騒動の際兇漢の放てる弾丸は猶〈ナオ〉随員森〔泰二郎〕秘書官田中〔清次郎〕満鉄理事及川上〔俊彦〈トシツネ〉〕哈爾賓総領事を負傷せしめ兇漢は直ちに露国官憲の為めに逮捕せられたり伊藤公の遺骸は十時四十分大連に向つて南下し廿八日午前十一時三十分軍艦秋津洲〈アキツシマ〉に乗じて十一月一日横須賀に到着同日東京に入れり此報一度公にせらるゝや四千万同胞の悲嘆は勿論世界の驚愕する処となり各国よりの弔電引も〈ヒキモ〉切らず至尊〔明治天皇〕は特に国葬を仰せ出され四日葬儀は悲雨蕭々〈ショウショウ〉の裏に執行せられたり会葬者四十万前古未曾有〈ゼンコミゾウ〉と称せらる以て公の遺徳を見るべし
 一面日本官憲は連累捜査に全力を尽し兇行翌日には関東都督府法院溝淵〔孝雄〕検察官は急遽哈爾賓に出張し韓国よりは明石〔元二郎〈モトジロウ〉〕少将来満し都督府佐藤〔友熊〈トモクマ〉〕警視総長平石〔氏人〕法院長等と協議画策最も勉めたり此の結果として連累嫌疑七名を得〈エ〉正犯者安重根と共に三日旅順に護送同地監獄に収容せしが中〈ウチ〉四名は審理の結果放免となり禹連俊曹道先劉東夏の三名を公判に附することゝなれり翌〔明治〕四十三年二月七日より四日間旅順地方法院にて開始せられたる裁判の模様は本文に明〈アキラカ〉なれば茲に贅せず〈ゼイセズ〉尚〈ナオ〉重根は三月二十六日午前十時死刑を執行せられたり

 以上のうち、「関東都督府法院溝淵検察官」とあるところは、印刷では「関東都督府法院満洲検察官」となっていた。参照した一本では満洲の二字が手書きで訂正されていたので、その訂正に従った。

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安重根の過激な発言で旅順での公判は傍聴禁止

2013-11-24 07:27:04 | 日記

◎安重根の過激な発言で旅順での公判は傍聴禁止

 安重根は、伊藤博文を暗殺しようとした理由として、「十五ヵ条」を挙げたが、そのひとつに、伊藤が「日本先帝を殺害」したというものがあった。
 安重根は、当然、公判でも、この件について陳述している。ただし、安がこの問題に触れたとたん、裁判は傍聴禁止となった。したがって、その内容は記録に残っていない。ただし、真鍋十蔵裁判長が傍聴禁止が言い渡したところまでの記録はある。本日は、その記録を紹介してみよう。
 安重根が問題の発言をおこなったのは、一九一〇年(明治四三)二月七日に旅順で始まった、関東都督府地方院における公判の三日目、すなわち二月九日のことであった。
 以下、『安重根事件公判速記録』(満洲日日新聞社、一九一〇年三月)から引用する。△は安重根の陳述、○は真鍋十蔵裁判長の発言を示す。この引用では、△と○のところで改行するが、原文は原則として、△と○のところでの改行をおこなっていない。

△(安)必要なる幾部分を申上げますそれで一昨日も目的の大意丈〈ダケ〉は申しましたが私がハルピン〔ママ〕の停車場に於て伊藤公爵を殺害したのは決して私は人を殺す事を好むでやつた訳でなく大なる目的があつて其目的を発表する一つの手段として殺害したに止まるのでありますそれで今日から云ふ機会を得た以上は世界の人に誤解せられない範囲に於て意見を述べる必要があらうと思ひます
○(弁護士に向ひ)いかがですさういふ事を今ここで申し立てさして好いですか
(水野〔吉太郎〕弁護士)明日述べさす程ならばまだ時間があるやうですから……
△それで私の目的については大概は申上げて置ましたが今申上げました通り伊藤公爵を殺すといふ事は一個人の為めでなく東洋平和の為めにやつたのであります【中略】私も到る処を遊説し到る処に戦ひ義兵の参謀中将として各所の戦争にも出ましたので有ますから今日伊藤公を哈爾賓〈ハルビン〉に於て殺害したのは韓国独立戦争の義兵の参謀中将の資格でやつたのでありますそれで有ますから今日此法廷に引出されて居るのは戦争に出て捕虜になつたものと思つて居ります刺客として審問を受ける訳の者ではないと思つて居ります【中略】元来伊藤公爵其ものは韓国に来て居る以上は韓国皇帝陛下の外臣として取扱ふべきものであるそれが甚だしい哉〈カナ〉皇帝陛下を抑留し廃帝迄もしたのである抑も〈ソモソモ〉世の中で尊いものは誰かと云へば人間としては天皇陛下である其侵すべからざるものを自分勝手に侵すと云ふは天皇陛下より以上の者と云はねばならぬ伊藤公爵の所為〈ショイ〉は国の民としての行為でない順良なる忠臣でないと云ふことが判る為めに韓国に義兵が起つて戦つて居るそれを日本の軍隊が鎮圧せんとして居る之〈コレ〉即ち日本と韓国の戦争と云はなければならぬこういう事は日本天皇陛下の聖慮なる東洋の平和を維持し韓国の独立を鞏固〈キョウコ〉ならしむると云ふ聖旨に反している【中略】それから今申上げましたので伊藤公爵が日本からしても韓国からしても逆賊であると云ふことが充分に判るそれから甲午の年〔ママ〕韓国に大なる不幸があつたそれは何かと云へば皇后を伊藤統監其ものが日本の沢山なる兵力に依つて殺害した隠諜があります尚ほ〈ナオ〉其上に日本に対して逆賊であると云ふ理由があります

 ここまでの引用でひとつ注目すべきは、安重根が、自分の伊藤博文暗殺を戦闘行為と位置づけていることであろう。しかし今、この問題については論評しない。
 さて、安重根の陳述がここまで及んだ時、真鍋裁判長が口をはさんだ。言うまでもなく、このあとの発言に極めて危険なものを予期したからである。特に裁判長が反応したのは、「尚ほ其上に日本に対して逆賊であると云ふ理由があります」という部分だったと思う。しかし、安の陳述をよく読むと、それより前のところで、すでに、かなり過激なことを言っている。「抑も世の中で尊いものは誰かと云へば人間としては天皇陛下である其侵すべからざるものを自分勝手に侵すと云ふは天皇陛下より以上の者と云はねばならぬ」という部分である。
 なお、有名な閔妃〈ミンピ〉殺害事件が起きたのは、「甲午の年」(一八九四)でなく、その翌年の乙未の年(一八九五)である。これは、おそらく安重根の勘ちがいであろう。引用を続けよう。

○深くさういふ事に進むで行くと公開を停止しなければならぬことになる
△併しこれは今日まで新聞其他で世の中に既に発表せられて居る事でありますから今更こゝで云ふからと云つて傍聴を禁止せらるゝ訳はあるまいと思ひます
○場合に依ては停止するかも判らぬ
△朝鮮人の私は予て聞いて居るのには伊藤公爵は日本の為めに非常の功労ある人と聞いて居りますが又一方には日本の皇帝に対しては非常の逆賊であるといふ事を聞いて居ります我皇室に対して逆賊と云ふのは現皇帝の前帝を……
(此間園木〔末喜〕通訳生通訳)
○被告の陳述は公の秩序に防害〔ママ〕があるものと認めるから公開を禁止する傍聴人はすべて退廷……
(于時〈トキニ〉午後一後四時二十五分)
 
 この日の裁判は、このあとも続いたようだが、傍聴人は退廷させられた。この日の速記録も、ここで終わっている。
 傍聴禁止の理由は言うまでもない。韓国の前皇帝を廃帝とした伊藤が、それ以前に日本の先帝、すなわち孝明天皇を殺害している旨を指摘せんとしたからである。
 安重根が、何を根拠として、このようなことを主張しようとしたかは不明である。ただ彼が、「朝鮮人の私は予て聞いて居る」と述べていることは、注意しておくべきであろう。朝鮮人の間で、「伊藤公の先帝殺害」という風聞が流れていたことを意味するからである。

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安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条

2013-11-23 03:31:24 | 日記

◎安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条

 今日、日韓関係がきわめて難しい状態にある。その上あらたに、中国をも巻き込み、安重根石碑問題というものが持ち上がっている。
 今、この安重根石碑問題についてコメントする用意はない。だが、そもそもなぜ安重根が伊藤博文を暗殺しようとしたのか、また旅順地方院における公判で、安重根はどんなことを述べたのか等については、若干、述べてみたいことがある。
 まず、安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由「十五ヶ条」というものを紹介しておく。

一、韓国王妃の殺害を指揮(今ヨリ十年許〈ばかり〉伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ)
二、韓国保護条約五ヶ条(今ヨリ五年前伊藤サンハ兵力ヲ以ツテ五ケ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ夫〈それ〉ハ皆韓国ニ取リテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス)
三、日韓新協約七ヶ条(今ヨリ三年前伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ何レモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ)
四、韓国皇帝の廃位(伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ)
五、韓国陸軍の解散(韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ)
六、韓国良民を殺させる(条約締結ニ付韓国民ガ憤リ義兵ガ起リマシタガ其関係上伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ)
七、韓国の政治と権利を奪う(韓国ノ政治其他ノ権利ヲ奪ヒマシタ)
八、韓国の教科書を廃棄(韓国ノ学校ニ用ヒタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノ許ニ焼却シマシタ)
九、新聞の購読を禁止(韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁シマシタ)
十、第一銀行券の発行(何等充ツヘキ金ナキニモ不拘〈かかわらず〉性質ノ宜シカラサル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ韓国民ニ何等ノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテ居リマス)
十一、国債の募集(韓国民ノ負担ニ帰スヘキ国債二千三百万円ヲ募リ之ヲ韓国民ニ知ラシメズシテ其金ハ官吏間ニ於テ勝手ニ分配シタリトモ聞キ又土地ヲ奪リシ為メナリトスト聞キマシタ之韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス)
十二、東洋平和の攪乱(伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ其ノ訳ト申スハ即チ日露戦争当時ヨリ東洋平和維持ナリト言ヒツヽ韓皇帝ヲ廃シ当初ノ宣言トハ悉ク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ韓国民二千万皆憤慨シテ居リマス)
十三、韓国に不利な政策(韓国ノ欲セザルニモ拘ハラズ伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ籍リ韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通シ韓国ニ不利益ナル施政ヲ致シテ居リマス)
十四、日本先帝を殺害(今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ其事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス)
十五、日本皇帝や世界各国を欺く(伊藤サンハ韓国民ガ憤慨シ居ルニモ不拘日本皇帝ヤ其他世界各国ニ対シ韓国ハ無事ナリト言フテ欺イテオリマス)

 このうち、何といっても気になるのは、第十四条である。「現日本皇帝ノ御父君」といえば、孝明天皇以外はありえない。孝明天皇暗殺説があるのは事実だが、もちろん真偽は不明である。しかし、安重根は、「現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失ヒマシタ」と言っている。これはどういうことか。伊藤が孝明天皇暗殺の下手人だったというのか。安重根は、何を根拠に、そういうことを言ったのか。当時、そういう風説がおこなわれていたということなのか。【この話、続く】

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淀川長治「映画は個人の所有にあらず」(1947)

2013-11-22 07:57:29 | 日記

◎淀川長治「映画は個人の所有にあらず」(1947)

 ここのところ、雑誌『映画新人』(監督新人会機関誌)第一号(一九四七年一一月)に載っている記事を、連続的に取り上げている。本日も、同誌同号から。
 どういう理由かは知らないが、同誌同号の巻頭を飾っているのは、のちに映画解説者として有名になった淀川長治〈ヨドガワ・ナガハル〉の文章である。彼はこのころ、雑誌『映画の友』の編集員だったはずである。
 タイトルは、「映画は個人の所有にあらず」となっているが、特にオリジナルな主張があるわけではない。映画に関わるエピソード等を雑然と並べた文章にすぎない。ただし、「映画通」としての片鱗は随所に見られる。その一部を抜いてみよう。

 映画と云ふものは毎週、或は月に二回くらゐ銀座の映画館で見てゐる場合には、さして気がつくものではないが、一つの追つて、或はさうでなくとも各地日本全国を旅行し乍ら〈ナガラ〉、その土地ごとに映画館を覗くならば、映画と云ふものが如何に大変なひろさを持つてゐるかが解るのである。ひろさと云ふ言葉を感化力と云ひなほしたら解りいゝかも知れぬ。私は郡山〈コウリヤマ〉の一映画館にアメリカ映画の講演の目的で出かけた時、星空が非常にはつきりと見える田舎の宿の女中が地方なまりまる出しで、「イングリツド・バーグマンが好き」と答へた其の時には、映画のひろさをつくづくと感じたものである。トンネルを通りこし野百合の咲き乱れる高原を通つて、たどりついた此の田舎でイングリツド・バーグマンの言葉を聞くことは何かしら不可思議な気さへしたものである。かう思へば「我が道を行く」は地球の半面以上を包んで、あのオマリイ牧師のやさしさが伝つた〈ツタワッタ〉筈である。何と云ふ映画はひろさを持つてゐることか。その映画を一体どのやうな気持ちで演出し、製作してゐるのであらうか、と、日本の下等な作品を見ると痛感するのである。

 明日は話題を変える。

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『女優』で映画に初出演した演出家の土方与志

2013-11-21 08:21:17 | 日記

◎『女優』で映画に初出演した演出家の土方与志

 土方与志〈ヒジカタ・ヨシ〉は、異色の舞台演出家である。明治の元勲・土方久元を祖父に持ち、一九一八年(大正七)に伯爵を継いだ。劇作家・演出家の小山内薫〈オサナイ・カオル〉に師事し、一九二四年(大正一三)に築地小劇場を設立。
 一九三四年(昭和九)、第一回ソヴィエト作家同盟に参加するため、日本プロレタリア演劇同盟の代表としてソ連を訪問。そこで、作家・小林多喜二の虐殺について報告を行ったため、同年、爵位を剥奪された。
 その後、ソ連・フランスにおける亡命生活を経て、一九四一年(昭和一六)に帰国。ただちに治安維持法違反で検挙され、五年の実刑を受ける。
 敗戦後に出獄し、日本共産党に入党。前進座や舞台芸術学院を拠点に演劇活動を再開したという(以上、ウィキペディア「土方与志」の項より)。
 その土方与志が、敗戦後間もない一九四七年(昭和二二)、衣笠貞之助監督から、映画出演の依頼を受けた。『女優』における「島村抱月」役である。主役に次ぐ大役である。初めは固辞していた土方であったが、ついに衣笠監督らに口説き落とされる。
 土方の「皺だらけのニユー・フエイス」は、彼が口説き落とされるまでの経緯を描いた興味深い文章である。雑誌『映画新人』第一号(一九四七年一一月)所載。かなり長い文章なので、サワリの部分のみを紹介する。

 皺だらけのニユー・フエイス  土方与志
【前略】〔一九四七年〕四月の或る夜、近くの小学校へ、選挙の応援に出かけようとしてゐるとき、旧友の楠田清君〔東宝の映画監督〕が訪ねて来た。
 何んと、もつて来た話は、衣笠貞之助演出の下に、山田五十鈴さんの須磨子の傍役〈ワキヤク〉として俳優として――島村抱月として出演しろとのことだ。私は、この奇想天涯な申し様に、身体がガタガタふるへた。芝居の舞台さへ碌に〈ロクニ〉踏んだとのない私が、映画俳優とは――。
 私は、その時から、ハムレツトの様に煩悶した。私は若い頃、俳優を断念した時の理由であつた両眼が不揃ひであること、声のよくないこと、又フランスでの手術の結果、左手の運動が不自由であること等々、又、島村抱月氏が演出家であるからといつて、演出をやつてゐる私をもつて来ることは、おでんやの役を、実際のおでんやをつれて来るのと同じで、甚だ無策であらうなど、いろいろと遁辞〈トンジ〉を述べた。猶〈ナオ〉その時のスケヂユールでは、六月から撮影とのことだつたので、丁度〈チョウド〉、帝劇の復活〔トルストイ作〕の稽古及公演と同時なので、先づ、時間的に不可能であることを最も有力に断りの理由とした。
 しかし、衣笠氏、楠田君、プロデユサーの松崎啓次君、作家の久板栄二郎〈ヒサイタ・エイジロウ〉君〔『女優』で脚本担当〕やに、たうとう口説〈クドキ〉落されてしまつた。
 衣笠氏は、若し〈モシ〉映画の仕事に関心をもつなら、ハダカになつて来るべきだと聞かされた。又僅かに一度しか放送局のスタデイオで会つたとしか思つてゐなかつた衣笠氏が、私の知らぬ間に、私といふものを研究されてゐたことを聞かされ、自分の俎の上の鯉としてヂツトしてゐろといはれたことに動かされた。私も、長い演出者生活の中で、或る俳優に役を振つた場合、私にはこの役は出来ませんといはれる程、癪にさはる事はない。さふいふ場合、私は、私が君に配役することは自分の受けもつた芸術的創造の為めに必要であり、協同者として適当だと信じた為めであつて、わざわざ芸術を悪くするためや、俳優に恥辱を与へるためにしたのではないのだ、といつて来た。私はこのことを思ひ出して、この場合、私がその任でないといふことは、かへつて巨匠に対して非礼であると、素直にこの大役をうけることに決心した。
 なほ、松崎君のことばも、私を参らせた。同君は、君はこの仕事を新劇の大衆化、全国的普及化のためだと思つてやれといふ。こゝには述べないが、新劇が、そして私個人の今迄やつて来た仕事など、いかに狭い範囲にしか認められてゐないかを痛切に感じさせられてゐた私はこれにも承服せざるを得なかつた。
私は、思ひあぐんで、妻にも、二人の男子にも、幾人かの先輩や友人にも相談した。
妻は止せといふ。先輩や友人の中〈ウチ〉、私の尊敬する幾人かは、まづ愉快さうに笑つて激励して呉れた。或る友人は、色をなして折角演出者で納つて〈オサマッテ〉ゐられるものが、何も、今更やり損つて恥をかくにも及ぶまいと諫止〈カンシ〉して呉れた。
 二人の男子は、妻に、どうせ、いつでも、しなくつてもいゝと人の思ふことばかりやつて来たオヤヂだから止せといつたつてやりますよと、蔭口をきいたさうだ。
 私は、ハダカになつて未知の世界に飛び込むことにした。【後略】

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