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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

平生の鬱懐、抑へんとして抑ふる能はず(栄田猛猪)

2017-04-25 06:14:37 | コラムと名言

◎平生の鬱懐、抑へんとして抑ふる能はず(栄田猛猪)

 栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めている場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。

 遮莫〈サモアラバアレ〉。今此書を手にするに及んで、悲愁の思い胸に満ち、追恨の情転た〈ウタタ〉新たなるを覚ゆるものあり。曰く、世が祖母と母との逝去是れなり。余明治三六年〔一九〇三〕四月郷国〈キョウコク〉を辞し、爾来東都に住すと雖、一年二回夏冬の休暇を利用して必ず帰郷し、祖母と両親とを省みるをば忘れざりき。然るに本書の剞劂〈キケツ〉に附せらるゝに及び、徒に〈イタズラニ〉成功の期を急ぎて、帰省の礼を欠くこと三年、図らざりき、大正三年〔一九一四〕十一月二十日、忽ちにして祖母の訃〔フ〕に接せんとは。慟天哭地〈ドウテンコクチ〉何の甲斐かある。余は、余の心なかりし行為を痛恨ぜずんばあらず。然るに何事ぞ。悲涙未だ乾かざるに、越えて翌四年〔一九一五〕一〇月二二日、再び母の喪に走る。かけても思はんや、昨日の恨〈ウラミ〉を、今日再び重ねんとは。祖母の齢八旬に及ぶと雖、猶其悲しみは得〈エ〉堪へざるを。況んや母にありては、僅かに五十有七歳。この年頃を僂麻質斯〈ロイマチス〉には犯されたれど、斯くまで病の進めりともしらざりしは、余が終生の恨事なりき。余等霊前に額づくとき、汝が母は流石に朝な夕なに汝が為に心砕きたれど、海山遠く三百余里を相距て、親しく援助も成し難きを打ち嘆きて、せめては一日たりとも、務めにいそしむ汝が心を擾す〈ミダス〉まじと、篤き病をも包みけむ。病勢頓に〈トミニ〉革まりて〈アラタマリテ〉、心臓麻痺にてうち斃れぬ。女ながらも、強き気性、それとは口に出さねど、心は嘸や〈サゾヤ〉切〈セツ〉なかりけむ。生前に、唯一言をだに交はし得ざりし、汝が恨みも無理ならねど、起き臥しを共にせし我すら、事の余り急なるに、施さん術〈スベ〉なかりしものを。今にして思へば、あれも夢、これも幻なりと、咽び〈ムセビ〉ながらに物語る父が言葉を聞くに堪へんや。噫。此親心。露〈ツユ〉さとり得ざりし我が愚かさよ。されど亦、親思ふ子の、此の心をも酌ませ給はざりし、母の心の、慈愛に過ぎて恨めしくもある哉。此上は、三たびの悔〈クイ〉を父に重ねじ。余が事已に〈スデニ〉定まりぬ。今ははや都にも上るまじ、と心定むれば、父は徐に〈オモムロニ〉余を慰めて、汝が心もさることながら、斯くては事業も半ばにして絶えなん。悔いて返らぬ昔を恋ひて、山より高き師の恵〈メグミ〉をば如何にかする。さらば却りて母が慈悲をば仇〈アダ〉とやせん。死生命あり。又如何ともすべからず。母を慕はゞ、汝が業を成就するに若かじ、と、誡むる父の言葉も、もだし難く、さらばとて、妻をば留おき、尽きぬ涙を打ち払ひて、余は復〈マタ〉、単身都の人となりぬ。今幸いに師友の恩によりて、梓〈アズサ〉成るを告ぐと雖、風樹の恨みに至りては、将た〈ハタ〉何によつてか解く事を得ん。
 嗚呼。斯くの如くにして過ぎ来たりし余が字書生活十有一年、公務の外はすべて門を閉じ、交〈マジワリ〉を絶ち、内、慈親を忘れ、外、先輩知友に背く。一巻の述作、若し幸にして家親教学の趣旨に副ひ〈ソイ〉、僅なりとも学界に貢献することを得ば、聊か〈イササカ〉平昔の罪を贖ふ〈アガナウ〉に足らん乎〈カ〉、たゞそれ孟浪魯魚〔不備や誤記〕の罪、繋つて〈カカッテ〉一に〈イツニ〉我にあり。思へば悚懼揣慄〈ショウクスイリツ〉、謝するところを知らざるなり。庶幾くは〈コイネガワクハ〉大方諸彦〈タイホウショゲン〉の垂教を仰ぎ、益々奮励重修を期して、校訂改善の実を挙げんと欲す。
 茲に聊か編纂の顛末を記し、敢て師友の恩を謝せんとして、忽ち誤つて私親追懐の涙に咽ぶ〈ムセブ〉。平生〈ヘイゼイ〉の鬱懐迸る〈ホトバシル〉ところ、抑へんとして抑ふる能はざればなり。希くは諒せよ。

  大正六年〔一九一七〕三月三日 文科大学国語研究室にて 栄田猛猪識

 小冊子版には、このあとに、大正一〇年〔一九二一〕七月七日付「増補訂正に就て」という一文が引用されているが、割愛する。

*このブログの人気記事 2017・4・25(6・8・10位にかなり珍しいものが)

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十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)

2017-04-24 04:59:03 | コラムと名言

◎十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)

 栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介している。本日は、その三回目。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めている場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。

 序し去り序し来る。顧みれば是等をや此事業の崎嶇〈キク〉といはゞいひなん。之を外にしては、書肆専務、印刷所主任及び余の三人が、事業の困難なると、巻帙〈カンチツ〉の尨大なると、及び進歩の遅々たるとを憂へて、幾十回となく鳩首凝議〈キュウシュギョウギ〉せしことこそありつれ、概して言えば、此事業は寧ろ単調なりき。前後十一年を通じ、五時に起き十時に臥す〈フス〉。寝ては夢み、窹めて〈サメテ〉は書く。唯矻々〈コツコツ〉として分秒だも休まざるのみ。併かも此単調の間にありて、師父の恩、知己の誼〈ヨシミ〉、親戚の情、さては弟子の愛に至るまで、予は心ゆくばかりに味ひえたるを悦ぶ。著述の経験なき一寒の書生が、心の赴くに任せて書き集めたる草稿を懐きて、徒に〈イタズラニ〉前途の遼遠なるを想望し、眼眩み、魂消えなんとする時に当り、之を憐み、之を導き、以て蘇生の思〈オモイ〉あらしめられたるは、実に余が十有余年来の恩師上田・岡田の両先生なり。本書の体裁甚だ世の字書と異り、自ら之を危ぶみ、之を惧れ〈オソレ〉し時、懇切に批評を吝まれ〈オシマレ〉ざりしは、余が最も畏敬する先輩山田孝雄〈ヨシオ〉君、同僚文学士亀田次郎君、同橋本進吉君、同学高成田忠右衛門〈タカナリタ・チュウエモン〉君、友人堀由蔵〈ホリ・ヨシゾウ〉君等なりき。又、索引に余が頭を悩ましし時、欧洲人の見地よりせる漢字索引の感想を語りて余を啓発せしはぺテログラード大学院生にして、当時我国に留学し、五段排列漢字典を撰して名ある露国人ロゼンベルク氏なりき、此長年月を通じて、荊妻を助け、寒に暑に余が健康を案じては、余が食膳を賑はしめ、事に当りて常に余を鼓舞し、余を激励し、恰も〈アタカモ〉自己の事業の如く、原稿に校正に各一頁の成る毎〈ゴト〉に余が成功を祝福せられたるは、実に心友野間清治〈ノマ・セイジ〉君と、及び君が令夫人となりき、余が終日筆を握り、気餒え〈ウエ〉胸痛み、憂鬱遣るに由なき時、忽ち来りて詩を吟じ、思を?べ〈ノベ〉、以て余を慰め、余を労り〈イタワリ〉しは、余が二十年来の心友尾崎楠馬〈クズマ〉君と、同窓近藤久吉君と愛弟子池田林儀〈シゲノリ〉氏となりき。此稿始めて印刷に附せられんとするや、字典の価値は校正に存す、校正は落葉を掃ふ〈ハラウ〉が如し、掃ふとも掃ふとも尽きざるなり。其困難他人に委ぬべからずといひて翻然〈ホンゼン〉職を京都の公署に棄て、妻子を伴ひて東上し、専ら校正を以つて己が任となし、終日終夜校正刷りに目を暴して〈サラシテ〉遂に其明を損ずる〔失明する〕に至りしは、実に余が兄濱田民之助氏なりき。大正三年〔一九一四〕十一月飯田君遂に長野県中学校教諭となりて任に諏訪に赴く。此の時印刷僅かに全編の半〈ナカバ〉なり。君が忠実なる努力を杖ともなし、柱とも頼みたる余にとりては、正に是れ屋洩りて更に連夜の雨に遭うとも謂ひつべし。此の時に方り〈アタリ〉、君に代って其労に服し、原稿整理に索引調整に予をして全く先の憂〈ウレイ〉を解かしめたるは是れ余が弟濱田楠治生なりき。花に背き、月を忘れ、衣を解かず、髪を梳らず〈クシケズラズ〉、婢となり、僕となり、或時は筆耕に、或時は字典検索掛〈ガカリ〉に、十年一日、影の形に添ふ如く、余に随ひ、余を離れざりしわが糟糠の妻が苦心も亦之れ思出の一〈ヒトツ〉ならずんばあらず。
 嗚呼。菲薄〈ヒハク〉余の如きをして、幸いに天下の書庫に一椅子を占めしめ、啓発教導、鞭撻笞撃〈ベンタツチゲキ〉、善く其方向を誤らしめず、而して能く此業を終へしめられたるは、偏へに〈ヒトエニ〉是れ上田・岡田両先生の恩蔭〈オカゲ〉なり。余をして心安らかに、体胖けく〈タイラケク〉、綽々〈シャクシャク〉として余裕あらしめしものは、飯島・飯田両君を始めとして、親戚知友の賜〈タマモノ〉ならずんばあらず。余は唯之等〈コレラ〉師友の傀儡〈カイライ〉なり。余は唯命惟従ひ〈タダメイニコレシタガイ〉たるのみ。此書若し〈モシ〉些少〈サショウ〉なりとも世に益するところあらば、皆之〈ミナコレ〉師友の恩賚〈オンライ〉に外ならず。思うて此処〈ココ〉に至れば、感激せざらんと欲すと雖得べからざるなり。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・4・24(なぜか霊気術止血法が1位に)

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意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)

2017-04-23 07:38:04 | コラムと名言

◎意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)

 昨日に続いて、栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介する。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めた場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。
 
 此間印刷校正も亦極めて難事業なりき。是れ元来漢文字の植字に不便なると、本字典の組織の複雑なると、加ふるに活字に見えざる文字を多く使用したるとの為にして、彫刻木版一頁平均四十五本、全編総計十二万六千本の多きに上り、其校正に当つてや、初校の如きは全紙朱変し、遂に記入の余地無きに至る。斯くして再校三校、少きものも六校、多きは実に十有二校に達せり。されば一台八頁の校了に四ケ月の長きを要し、組版〈クミハン〉の停滞常に三百頁を算するに至る。然りと雖猶本書の為に全力を挙げて其完璧を期せんとし、書肆啓成社及び博文館印刷工場の痛苦如何ばかりなりけん。是れ余等の想像にも及ばざるところなりき。彼の大正四年〔一九一五〕五月十七日、印刷工場祝融〔火事〕の禍〈ワザワイ〉に罹りて、工場の過半烏有〈ウユウ〉に帰せし時に於てすら、本書のみは特に文選植字の手を措かざりし〔中断しなかった〕にも拘はらず、猶一日平均一頁半を上る〈ウワマワル〉能はざりしを見ても、其印刷校合の如何に難事たりしかを知るに足る。されば此間に処せし書肆の莫大な負担と、活版職工の惨憺たる苦心とは、余の特に感謝に堪へざるところなり。
 憶い起す。印刷工場の災禍に罹りし翌朝なりき。余は工場全部烏有に帰せりと聞いて、驚愕措く能はず、東洋有数の一大印刷工場、忽焉〈コツエン〉として灰燼〈カイジン〉に化す。館主の損害固より〈モトヨリ〉傷む〈イタム〉べしと雖、財貨を以て換へ難き、幾多の学者が心血を注ぎし原稿もありつらん。おぞくもなしつる天公の悪戯かな。思へば余が字書の運命も亦危い哉〈カナ〉。然りと雖、万一の僥倖を頼みとせんより、寧ろ今に於いて焼失を予期するの雄々しきに若かじ〈シカジ〉、西哲にも亦此〈コノ〉例ありきと思ひ定めて、強ひて心を平〈タイラカ〉にす。此時友人相続いて来り、皆余が字書の無事ならん事を祈るの情切なり。余答へて曰く、未だ情報に接せざれど、余が心決せり。之を平日に徴して、停滞の組版三百頁はよもや助かるまじ。之に加ふる原稿を五百頁と見積もるとも、合して八百頁は越えざらむ。仮す〈カス〉に時日を以てせば再稿難きにあらず。乞ふ幸いに意を安んぜよと。意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ。此日午後啓成社専務来り告げて曰く、昨夜の火災に駭き〈オドロキ〉、車を飛ばして工場に至る。何の幸ぞ、見るも無慙なる被害の中に、我が字書の原稿一枚の損害だになし。此字書は元来類例なき難事業なれば、万一の危険を慮りて〈オモンバカリテ〉、煉瓦造りの耐火家屋にて作業し、原稿は其刻々〈コッコク〉金庫に収蔵せしが為なり。是れ一に〈イツニ〉博文館印刷工場が責任を重んぜしによると。此吉報を耳にせし時の余が喜〈ヨロコビ〉や如何。直に之を師友に報じ、足を空〈ソラ〉にして工場を訪ひ〈オトナイ〉、不慮の災殃〈サイオウ〉を弔い、自己の僥倖を謝し、帰りて門を入ると共に、呆然〈ボウゼン〉として自失し立つこと能はざりき。斯くて筆硯〈ヒッケン〉に親しむ能はざること数日。噫〈アア〉。前に凶報を耳にせし時、余が意気却って昂り〈タカブリ〉しは、前途の困難を予想して精神の緊張せし為か。速かに館主の災厄を弔ふべくして、敢て弔はざりしは、余が心に恐るゝ所のものありて然りしか。後に吉報に接し、忽ち足を空にして工場に赴き、帰り来りて病まざるに床に臥す。大敵去りて精神の弛緩〈シカン〉せし為なるか。嗚呼〈アア〉。感情の極まるところ、悲と喜と相距る〈アイヘダタル〉遠からざるなり。文豪ギボンが彼の浩瀚〈コウカン〉なる羅馬史〔ローマ帝国衰亡史〕を草し終るや筆を投じて号泣せりといふ。余今に至りて其意を了り〈サトリ〉、始めて其著の日月と光を争う所以を知れり。【以下、次回】

 最初のほうに、「彫刻木版一頁平均四十五本、全編総計十二万六千本の多きに上り」とあるが、ここは、小冊子および『新大字典』では、「彫刻木版、数万本の多きに上り」となっている。一九一七年四月の再版の形に復元してみた。

*このブログの人気記事 2017・4・23(7・8位に珍しいものが入っています)

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『大字典』と栄田猛猪の「跋」

2017-04-22 05:10:28 | コラムと名言

◎『大字典』と栄田猛猪の「跋」

 先日、古書店で、『国語と漢字』という小冊子を入手した。本文は謄写版で、一六ページ。表紙にはタイプ印刷らしき文字で、「武蔵中学校二年国語科教材/国語と漢字/上田萬年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田傳一 共編『大字典』跋」とあった。
 奥付がないので、発行年等がわからないが、おそらく、昭和四〇年代のものではないか。私立の武蔵中学校(東京都練馬区)の国語科が、校内版として作成したものと思われる。
 これまで、『大字典』には、何度となくお世話になってきたが、この跋文に注目したことはなかった。一読して感動した。『大字典』編纂の中心となった栄田猛猪〈サカエダ・タケイ〉という人物にも注目した。しかし、いかにも古風で難解な文章であって、中学二年生が、本当に、この文章を読みこなせたのだろうかと心配になった。また、「教材」と称する割には、誤字が散見されるのが気になった。
 とにかく本日は、栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介したい。
『大字典』は、一九一七年(大正六)三月の初版(啓成社)以来、今日まで、何度も改版がなされている。この小冊子が依拠した版が、どの版であったのかは、今のところ不明である。
 今回は、一九一七年四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めた。漢字は、原則として新漢字を使用している。
 
    
            
 国語に関する書庫にして最〈モットモ〉完備せるは、東京帝国大学文科研究室なり。余〈ヨ〉明治四十年〔一九〇七〕四月同文科大学助手に任ぜられ、此書庫の一椅子を占め、本室主任にして、且我〈ワガ〉恩師なる文学博士上田萬年〈ウエダ・カズトシ〉先生指導の下に国語の研究に従事するを得たり。偶々〈タマタマ〉漢和字書の変遷を討究するに及び、数多き字書各〈オノオノ〉特色を有すると雖〈イエドモ〉、国語辞書との連絡に至りては猶未だ十分ならざるを思ひ、殊に倭名抄〈ワミョウショウ〉・字鏡集〈ジキョウシュウ〉・倭玉篇〈ワゴクヘン〉乃至節用集の如き、徳川時代以前に於ける我が国の字書と、康煕字典〈コウキジテン〉を基とせる、明治以降の新漢和字書との間に截然〈セツゼン〉溝渠ありて、字音の変遷、訓義の用法共に精密ならざるは、漢字を国字として取り扱ふべき所以〈ユエン〉にあらざるを憾み〈ウラミ〉、自ら揣らず〈ハカラズ〉、妄りに〈ミダリニ〉字典編纂の志を起し、爾来造次〔わずかの間〕も漢字の研究を怠らざりき。其年八月文科大学に於いて、文部省主催の夏期講習会開かるゝや、再び恩師岡田正之先生の漢字に関する講筵〈コウエン〉に列し、我〈ワガ〉意ついに決して此稿を起こすに至れり。時に同窓の飯田傳一〈デンイチ〉君小樽中学校教諭より独逸協会学校に転任せらるゝあり、乃ち謀るに宿志を以てし、遂に其幇助〈ホウジョ〉を仰ぎ、悦び勇みて共に与に〈トモニトモニ〉纂輯〈サンシュウ〉の業に従ふ。されど余等二人の力を以てしては、猶熟語採摭〈サイセキ〉に遺漏〈イロウ〉あらんことを恐れ、更に余等同学の士、陸軍教授塩野新次郎君・学習院助教授古川喜九郎〈キクロウ〉君・東京府立第四中学校教諭宮本慶一郎君・栃木県立宇都宮高等女学校教諭小林良一君・故高知県立農林学校教諭耕崎豊〈コウサキ・ユタカ〉君の助力を仰ぎ、普く〈アマネク〉之が蒐集に力む〈ツトム〉。而して飯田君専ら之が整理に任じ、余は主として文字の選定、音訓の整理、字体の変遷、字源の解釈、全編の結構、及び索引方法等に力を注ぎたり。
 余素より〈モトヨリ〉字書編纂の大業たるを知らざるにあらず。然れども親しく編輯に従事するに至り、疑義百出、艱難〈カンナン〉日を追ひて加はり、殆ど望洋の歎〈タン〉に堪へざるものあり。就中〈ナカンズク〉字音の整理の如きは、遡っては遠く三代秦漢に至り、降っては魏晋六朝〈リクチョウ〉より唐宋に及ばざるべからず。之を反切〈ハンセツ〉に求め、之を韻鏡に正し、更に我が邦古来の慣用に照す、余の浅学素より之に堪ふべからず。乃ち援を我同学の畏友学習院教授飯田忠夫君に求め、是に於いて三人〔栄田・飯田・飯島〕協力其の事に従い、刻苦惨憺、原稿稍〈ヤヤ〉成るに及んで、恩師文学博士芳賀矢一〈ハガ・ヤイチ〉先生余等の苦心を察して、書肆〈ショシ〉啓成社に推挙し、是〈ココ〉に於て出版の曙光初めて現る。然りと雖蒐集未だ完からず〈マッタカラズ〉、体裁複雑にして煩簡宜しきを得ざるものあるが故に、直に〈タダチニ〉是〈コレ〉を梓〈アズサ〉に上す〈ノボス〉べからず。曙光は僅に〈ワズカニ〉余が身を照すと雖、前途猶遼遠なり。余は紛糾の岐路に立ちて、眼眩み〈クラミ〉、魂消えんとす。已み〈ヤミ〉なんか、信を世に失はむ。進まんか、我〈ワガ〉力足らず。乃ち情を訴へて上田・岡田両先生の指導を乞ふ。両先生其情を憐れみ、高教具に〈ツブサニ〉備はる。茲〈ココ〉に始めて蘇生の思〈オモイ〉あり。勇気疇昔〈チュウセキ〉に倍すと共に、自己の責任の益々〈マスマス〉重きを感じ、日夕〈ニッセキ〉両先生に親炙〈シンシャ〉して恐懼戒慎、体を変じ稿を更め〈アラタメ〉、面目為に新たにして、整理略々〈ホボ〉成る。是に於いて明治四十五年〔一九一二〕一月始めて鉛槧〈エンザン〉に附し、爾来今日に至るまで前後六箇年、予が稿を起こしゝより数ふれば実に十有一年の久しきに亘れり。乃ち乞ふに両先生と共編の名を以てし、敢て卑名を尊位の下に列す。【以下、次回】

 最後のほうに、「鉛槧に附し」という言葉があるが、小冊子および『新大字典』では、ここは「鉛型に附し」となっている。一九一七年四月の再版の形に復元した。なお、「鉛槧に附し」とは、「印刷に附し」の意味であろう。

◎昨日のクイズの正解

彼奴   あいつ
白地   あからさま
浅墓   あさはか
浅間敷い、浅猿しい あさましい
厚釜敷い あつかましい
呆気   あっけ
天晴   あっぱれ
阿房   あほう
塩梅   あんばい
生不好い いけすかない
敦圏く  いきまく
日外   いつぞや
胡散臭い うさんくさい
浦山敷しい うらやましい
五月蝿い、蒼蝿い うるさい
迂路迂路 うろうろ
迂路つく うろつく
胡乱   うろん
大雑把  おおざっぱ
奥床しい おくゆかしい
烏滸がましい おこがましい
十八番  おはこ
女郎花  おみなえし
以為   おもえらく
隠坊   かくれんぼう
可成   かなり
瓦落瓦落  がらがら
空繰   からくり
空穴   からっけつ
歌留多  かるた
可愛い  かわいい
可哀そう かわいそう
頑丈、岩畳 がんじょう
屹度   きっと
彼奴   きゃつ
仰山   ぎょうさん
虚呂居呂 きょろきょろ
愚図愚図 ぐずぐず
呉々   くれぐれ
呉れる  くれる
下衆   げす
鳧がつく けりがつく
剣呑   けんのん
剣突   けんつく
強突張り、業突張り ごうつくばり
胡麻化す ごまかす
是許り  こればかり
妻惚爺  サイノロジイ
遉に   さすがに
嘸    さぞ
薩張   さっぱり
偖、扨  さて
左程   さほど
左迄   さまで
三一   さんぴん
乍併   しかしながら
鹿爪顔  しかつめがお
地団太  じたんだ
七面倒臭い しちめんどうくさい
素人   しろうと
洒蛙洒蛙 しゃあしゃあ
洒落る  しゃれる
冗談   じょうだん
悄気る  しょげる
白面   しらふ
図々しい ずうずうしい
素寒貧  すかんぴん
寸寸   ずたずた
擦太揉太 すったもんだ
素破抜く すっぱぬく
素敵   すてき
素破、驚破 すわ
素晴しい すばらしい
図太い  ずぶとい
切羽つまる せっぱつまる
世話敷い せわしい
十露盤、算盤 そろばん
頼母敷い たのもしい
魂消る  たまげる
大口魚  たら
鱈腹   たらふく
血塗れ  ちまみれ
丁度   ちょっと
猪口才  ちょこざい
一寸、鳥度 ちょっと
連発   つるべうち
手具脛ひく てぐすねひく
木偶の棒 でくのぼう
手古摺る てこずる
出鱈目  でたらめ
手真似  てまね
転手古舞 てんてこまい
天麩羅  てんぷら
何奴   どいつ
兎角   とかく
心太   ところてん
兎に角  とにかく
濁酒   どぶろく
左見右見 とみこうみ
泥塗れ  どろまみれ
頓狂   とんきょう
頓痴気  とんちき
頓珍漢  とんちんかん
頓間、頓馬 とんま
刀豆   なたまめ
可成   なるべく
二進も三進も にっちみさっちも
寝腐れ  ねくたれ
野良仕事 のらしごと
野呂間  のろま
呑気   のんき
呑平   のんべえ
灰殻   はいから
果敢い  はかない
派手   はで
蛮殻   ばんから
只管   ひたすら
喫驚   びっくり
素見   ひやかし
腑甲斐ない ふがいない
巫山戯る ふざける
不貞腐れ ふてくされ
不貞寝  ふてね
箆棒   べらぼう
変梃   へんてこ
弗々   ぼつぼつ
微酔   ほろよい
凡蔵   ぼんくら
盆槍   ぼんやり
間誤つく まごつく
間誤間誤 まごまご
真逆、豈夫 まさか
間違ひ  まちがい
真平   まっぴら
豆々しい まめまめしい
満更   まんざら
不見目、惨め みじめ
不見転  みずてん
土産物  みやげもの
六ケ敷しい むずかしい
無鉄砲  むてっぽう
無闇   むやみ
無理矢理 むりやり
丁班魚  めだか
滅茶苦茶 めちゃくちゃ
滅切り  めっきり
滅多   めった
目出度い、芽出度い めでたい
目星い  めぼしい
面喰う  めんくらう
耄碌   もうろく
勿怪の幸 もっけのさいわい
矢鱈   やたら 
躍起   やっき
矢張   やっぱり
矢庭   やにわ
野暮   やぼ
由々しい ゆゆしい
泥酔者  よっぱはらい
四方山  よもやま
宜敷く  よろしく
無価   ろは

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「白地」「擦太揉太」「豈夫」の読み方

2017-04-21 02:28:30 | コラムと名言

◎「白地」「擦太揉太」「豈夫」の読み方

 今月九日に、郡名の読みについての「クイズ」を出題した。本日もクイズでゆきたい。ただし、地名の読みについてのクイズではなく、「当て字」についての「クイズ」である。
 □の数は、現代かな遣いで表記した場合の文字数を示す。順番は、あいうえお順。
 出典は、海野昌平著『実生活に及ぼす国語及び文字の波紋』(桑文社、一九三七)の「十九、特殊な宛字」。この本は、今月一〇日以降のブログで、活用している。ただし、「当て字」の表記、および、その「読み」は、若干、直している場合がある。

彼奴   □□□
白地   □□□□□
浅墓   □□□□
浅間敷い、浅猿しい □□□□□
厚釜敷い □□□□□□
呆気   □□□
天晴   □□□□
阿房   □□□
塩梅   □□□□
生不好い □□□□□□
敦圏く  □□□□
日外   □□□□
胡散臭い □□□□□□
浦山敷しい □□□□□□
五月蝿い、蒼蝿い □□□□
迂路迂路 □□□□
迂路つく □□□□
胡乱   □□□
大雑把  □□□□□
奥床しい □□□□□□
烏滸がましい □□□□□□
十八番  □□□
女郎花  □□□□□
以為   □□□□□
   □□□□□□
可成   □□□
瓦落瓦落  □□□□
空繰   □□□□
空穴   □□□□□
歌留多  □□□
可愛い  □□□□
可哀そう □□□□□
頑丈、岩畳 □□□□□
屹度   □□□
彼奴   □□□
仰山   □□□□□
虚呂居呂 □□□□□□
愚図愚図 □□□□
呉々   □□□□
呉れる  □□□
下衆   □□
鳧がつく □□□□□
剣呑   □□□□
剣突   □□□□
強突張り、業突張り  □□□□□□
胡麻化す □□□□
是許り  □□□□□
妻惚爺  □□□□□□
遉に   □□□□
嘸    □□
薩張   □□□□
偖、扨  □□
左程   □□□
左迄   □□□
三一   □□□□
乍併   □□□□□□
鹿爪顔  □□□□□□
地団太  □□□□
七面倒臭い □□□□□□□□□
素人   □□□□
洒蛙洒蛙 □□□□□□
洒落る  □□□□
冗談   □□□□□
悄気る  □□□□
白面   □□□
図々しい □□□□□□
素寒貧  □□□□□
寸寸   □□□□
擦太揉太 □□□□□□
素破抜く □□□□□
素敵   □□□
素破、驚破 □□
素晴しい □□□□□
図太い  □□□□
切羽つまる □□□□□□
世話敷い □□□□
十露盤、算盤 □□□□
頼母敷い □□□□□
魂消る  □□□□
大口魚  □□
鱈腹   □□□□
血塗れ  □□□□
丁度   □□□□
猪口才  □□□□□
一寸、鳥度 □□□□
連発   □□□□□
手具脛ひく □□□□□
木偶の棒 □□□□□
手古摺る □□□□
出鱈目  □□□□
手真似  □□□
転手古舞 □□□□□□
天麩羅  □□□□
何奴   □□□
兎角   □□□
心太   □□□□□
兎に角  □□□□
濁酒   □□□□
左見右見 □□□□□
泥塗れ  □□□□□
頓狂   □□□□□
頓痴気  □□□□
頓珍漢  □□□□□□
頓間、頓馬 □□□
刀豆   □□□□
可成   □□□□
二進も三進も □□□□□□□□
寝腐れ  □□□□
野良仕事 □□□□□
野呂間  □□□
呑気   □□□
呑平   □□□□
灰殻   □□□□
果敢い  □□□□
派手   □□
蛮殻   □□□□
只管   □□□□
喫驚   □□□□
素見   □□□□
腑甲斐ない □□□□□
巫山戯る □□□□
不貞腐れ  □□□□□
不貞寝  □□□
箆棒   □□□□
変梃   □□□□
弗々   □□□□
微酔   □□□□
凡蔵   □□□□
盆槍   □□□□
間誤つく □□□□
間誤間誤 □□□□
真逆、豈夫 □□□
間違ひ  □□□□
真平   □□□□
豆々しい □□□□□□
満更   □□□□
不見目、惨め □□□
不見転  □□□□
土産物  □□□□□
六ケ敷しい □□□□□
無鉄砲  □□□□□
無闇   □□□
無理矢理 □□□□
丁班魚  □□□
滅茶苦茶 □□□□□□
滅切り  □□□□
滅多   □□□
目出度い、芽出度い □□□□
目星い  □□□□
面喰う  □□□□□
耄碌   □□□□
勿怪の幸 □□□□□□□□
矢鱈   □□□
躍起   □□□
矢張   □□□□
矢庭   □□□
野暮   □□
由々しい □□□□
泥酔者  □□□□□
四方山  □□□□
宜敷く  □□□□
無価   □□

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