礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

はじめは高麗王一柱を祀ったのであろう

2017-09-25 04:10:01 | コラムと名言

◎はじめは高麗王一柱を祀ったのであろう

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その三回目。本日は、本文の冒頭に置かれている「高麗郷由来」を紹介してみたい。
 さて、昨日のコラムをアップしたあとに気づいたのだが、ネット上に月見草出版による「韓郷神社社誌」というブログがあって、そこに、「『高麗神社と高麗郷』の序文」というものが紹介されていた。読んでみると、『高麗郷由来』の序文と、ほぼ同文であった。
 このブログの主宰者は、「韓郷神社」の研究家であるという。高麗神社を訪ねた際に、「一つ年上の昭和2年11月14日生まれである高麗澄雄さん」から、「本人編集の『高麗神社と高麗郷』という著書」を贈られたとある。
 たぶん、高麗澄雄編『高麗神社と高麗郷』という本は、高麗明津編『高麗郷由来』を基礎に、高麗澄雄さんが再編集されたものなのだろう。
 ブログ「韓郷神社社誌」では、中山久四郎の「序文」のあと、高麗明津編『高麗郷由来』でいうところの「高麗郷由来」に相当する文章が、紹介されていた。ただし、そこには、「高麗郷由来」というタイトルはない。また、表記や内容においても、「高麗郷由来」とは、若干の相違がある。
 以下は、高麗明津編『高麗郷由来』三版(一九三五)にある「高麗郷由来」である。

  高 麗 郷 由 来
 武蔵野の尽くる所、秩父嶺の漸く峙つ〈ソバダツ〉あたり、高麗入間の二流に沿ひ、高麗【こま】高麗川の二村を中心に、東西八里、南北三里に亘る村々、これが奈良朝の昔、霊亀年間に、高麗【こま】人一千七百九十九人を移して、安住の地たらしめた旧【もと】の高麗郡である。
 高麗村の西北隅、大字〈オオアザ〉新堀〈ニイホリ〉字大宮の中央に、謂はゆる御殿の後山【うしろやま】を背景として、高麗川の清流に臨んだ景勝の地に鎮座まします荒涼たる小祠がある。高麗神社と号ふ〈いう〉。社格は村社〈ソンシャ〉で、齋かるゝ〈イツカルル〉神々は、高麗王若光〈ジャッコウ〉、猿田彦命、武内宿禰の三柱〈ミハシラ〉であるが、別掲の高麗氏系図に、若光の卒するや、従ひ来れる貴賤相集つて、尊骸を城外に葬り、神国の例に従ひ、霊廟を御殿の後山【うしろやま】に建て、高麗明神と崇め〈アガメ〉、郡中に凶事あれば、則ち之れに祈るとあるのを見ると、はじめは高麗王一柱〈ヒトハシラ〉を祀つた〈マツッタ〉ので、後に他の二柱〈フタハシラ〉を合祀〈ゴウシ〉したものであらう。
 この祭神たる高麗王若光とは如何なる事歴の方か。又如何にしてかくも隔絶した海東の地に移り住まれたか。之れを思ふと、興亡の歴史はうたゝ後人〈コウジン〉をして涙なきを得ざらしめる。
 抑々我国と朝鮮との交渉が遠く神話時代に遡ることは、学者の斉しく〈ヒトシク〉認めるところであるが、それはしばらく措くとするも、垂仁天皇の御代に於ける新羅王子天日槍〈アメノヒボコ〉の来朝を初めとして、彼我のあいだに深き交渉があり、なつかしい親和が続いたことは、歴史に詳〈ツマビラカ〉なるところである。
 我国の歴史に於いて、高麗【こま】人の名が最も早く載せられてあるのは、日本書紀なる韓人池〈カラビチイケ〉の項である。即ち応神天皇の七年秋九月、高麗【こま】人百済人任那人新羅人が来朝し、武内宿禰が詔〈ミコトノリ〉を奉じ、此等来帰の韓人をして池を造らしめ、其池を韓人池と号【なづ】けた、とあるのがそれであるが、それより以後は、絶えず使節の来往があつて、高麗及び高麗人の名は所々に見えて居る。
 言ふまでもなく、当時の高麗【こま】は、松花江の上流扶余〈フヨ〉の地に興つた、東明聖王高朱蒙を建国の祖とする、高句麗【こくり】である。即ち王建を祖とし、開城に都して、新羅滅亡後の半島に君臨した、後の高麗【かうらい】とは全然別個のもので、晋人をして「東国文字無し、高句麗独り之を有す」と言はしめた東方文化の国である。
 高句麗は広開土王(好太王)の時国勢最も振ひ、大に国土を開拓し、遂に南下して朝鮮の北半を平げた。次いで其の子長壽王は都を国内城より平壌に遷した。其の盛時に於ける版図は、現今の忠北江原両道以北瀋陽長春のあたりから、遼河以東の遼東半島一帯、東は遠く浦塩斯徳〈ウラジオストック〉に迄及んで、勢威隣国を圧し、北方の強国として、隋唐の勢威にも屈せず、終に一戦して隋の煬帝〈ヨウダイ〉を破り、再戦して唐の太宗〈タイソウ〉に克ち、太宗をして「魏徴《唐初の功臣》若し在らば我れをして此の行あらしめざりけんに」と悔恨せしめた程である。
 この先進国高句麗が、我国の文化に少なからず貢献したのはもとより当然のことで、たとへば書紀の仁徳天皇十二年の条に、七月高麗国より鉄盾鉄的を貢【たてまつ】る、とあつて、我国武器進歩の上に、重大な影響を与へた事を証明してゐる事実の如き、又仁賢天皇の六年に、我が国の使者日鷹吉士〈ヒタカノキシ〉の乞にまかせ、工匠を送り来つて、建築工芸の上に著しき進展を見せた事実の如き、更にまた、推古天皇の十七年《六〇九》には、僧曇徴〈ドンチョウ〉を送り続いて三十三年には僧恵灌〈エカン〉を送つて來て我が仏教文化の建設に貢献したるが如き、数へ来れば実に枚挙に遑〈イトマ〉なき程である。殊に前記曇徴の如きは、五経にも通じた知識で、かの英邁天縦の聖徳太子に仏教を講じ奉つたと伝へられ、また彩色及び筆墨を製する技に長じ、碾磑【ひきうす】を作ることもよくしたと云はれる。碾磑【ひきうす】は実に彼によつて伝へられ、我が国民の日常生活の上に大なる利便を齎した〈モタラシタ〉のであつた。
 かく観来る〈ミキタル〉と、高句麗が新羅百済と共に、我国文化の精神物質両方面に、如何に多く貢献する所があつたかは、多言を要せぬことであらう。
 この東方の文化国、強剛四隣に鳴つた雄邦の高句麗が建国後七百余年、我が天智天皇の御代、高句麗国王第二十八代宝蔵王の代に到つて、唐新羅の連合軍の来寇により、遂に亡国の悲運に際会したのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・9・25

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『高麗郷由来』の序文(中山久四郎)

2017-09-24 04:21:17 | コラムと名言

◎『高麗郷由来』の序文(中山久四郎)

 昨日の続きである。高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その二回目で、同書の「序文」を紹介してみたい。執筆しているのは、東洋史学者の中山久四郎〈キュウシロウ〉である。

  序 文
 武蔵国に高麗の名あるや、久しく且つ広し。
 武蔵国の高麗郡及び新羅郡、甲斐の巨摩郡、摂津の百済郡、その他諸国に於て朝鮮古代の国名を以て、都邑の名、山川の名、原野の名となすもの少からざることを思へば、内鮮《日本と朝鮮》の歴史的関係、及び内鮮融和共栄の上より見て、一種無限の思慕感懐の念の油然〈ユウゼン〉として起るを禁ずること能はざるなり。
 武蔵の高麗郡につきては、首都東京に近きを以て、之に対する感情は、特に切実にして甚だ深きものあり。
 天智天皇の御世に当り、朝鮮古代の高麗、百済二国の亡ぶるや、其国の上下の人の我国に移住帰化して、つひに王臣となり、日本国民となり、長く王室を護り、国事に尽力せし者多し。
 続日本紀〈ショクニホンギ〉巻三を按ずるに、文武天皇大宝三年(皇紀一三六三年)《西暦七〇三》四月、従五位下〈ジュゴイゲ〉高麗若光〈コマ・ノ・ジャッコウ〉に王姓を賜ふ。ついで元正天皇霊亀二年(皇紀一三七六年)《西暦七一六》、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、七国在住の高麗人一千七百九十九人を武蔵国に遷して〈ウツシテ〉高麗郡置かれたり。〔続日本紀巻七〕これ武蔵国に多数の高麗人が移住群居して、高麗といふ郡名の新設せられたる始なり。
 当時武蔵国は古代日本の帝都所在の地を去ること数十百里、王化未だ洽からず〈アマネカラズ〉、所謂辺陬〈ヘンスウ〉の地方にして、帝都所在の近畿方面に比して、地は広漠、人は希薄。現時の如き繁栄ならず。
  分けゆけど花の千草のはてもなし
       秋をかぎりの武蔵野の原
  出づるに入るに同じ武蔵野の
       尾花を分くる秋の夜の月
の歌によりて、以て王朝時化の武蔵野の広漠無極の如き状態を想見すべし。斯の〈カクノ〉如き処に多数の高麗人が既に今より一千二百余年前に、其〈ソノ〉開墾拓殖に従事して、以て現代繁栄の基〈モトイ〉をたて源を発せしことは、武蔵国、東京府、埼玉県等を云々する者の必ず注意もし思念もすべきことなり。
 霊亀二年より一千一百八十年を経て、明治二十九年《一八九六》に至り、高麗郡は埼玉県入間郡に併合せられ、もはや郡名としての高麗はなしといへども、高麗を冠する地名の現存する者は猶少からず。川越、飯能〈ハンノウ〉方面に於ては、高麗村あり、高麗本郷あり、高麗川村あり、南高麗村あり、高麗峠あり、高麗川あり、高麗王の墓あり、高麗神社あり、高麗山聖天院あり。いづれも皆高麗郡の史蹟を明に示すものなり。若しそれ高麗姓の史上に著はれたるを挙げんか。高麗福信(後に高倉姓を賜はる)は、孝謙天皇以後の五朝に仕へて、従三位〈ジュサンミ〉に昇り、造宮卿、弾正尹〈ダンジョウイン〉、武蔵守、近江守、但馬守等に歴任し、桓武天皇延暦八年《七八九》、八十一歳を以て薨去せられたるを始めとして、高麗姓の出身にして武蔵其他諸国の地方長官等となりし者少からず。武蔵七党系図を見るに、丹党に高麗五郎経家あり。後三条天皇の延久年間には、高麗泰澄あり。正平、応安、嘉慶年間には、経澄、李澄、義清、希弘ありて、高麗郡を領したり。又武蔵鐙〈ムサシアブミ〉は高麗郡に遷されたる高麗人の造る所なりといひ、「高麗錦紐ときさけて」「韓衣襴【すそ】打交へ〈ウチマジエ〉」といふが歌の詞によりても、東国と高麗人との因縁は決して浅からざるなり。
 武蔵国に近き相模国の大磯地方には高麗寺山ありて、遠人帰化の跡久しく存し、武蔵国より遠く、また武蔵国に移住したる高麗人とは全く別派のものにして、時代も亦近世に下ることなるが、熊本の名儒高本紫溟〈タカモト・シメイ〉(文化十年没、享年七十六)の祖先は李氏朝鮮王庶族にして、帰化の後高麗の高と、日本の本とをとりて高本氏と称せりといふ。又九州の都邑には高麗町の町名あり、社前には高麗犬あり。雅楽には高麗楽あり、また高麗笛あり、陶器には高麗焼あり、畳に高麗縁〈コウライベリ〉あり、芝には高麗芝あり、俳優高麗蔵あり。昭和五年十月十九日(日曜日)の東京中央郵便局(JOAK)の午後の放送の西洋音楽のフルート独奏には高麗貞道君あり。
 高麗といふ名称と日本文化との関係因縁は、実に多種他方面に亘り、深く久しく且つ広しといふべし。
 東国在住の高麗人の本部としての高麗郡(今は埼玉県入間郡)の高麗村の名族高麗氏は、高麗王若光以来の旧家にして、霊亀旭以来、世々絶えずして、今や既に一千二百余年の久しきに至る。祖先以来、功徳の世に立ち人に存すること、以て見るべきなり。当主高麗興丸君及び其子明津、博茂二君とは年来の交誼あり。今般同家は、祖先以来の高麗史伝を修成し、また高麗氏系図を編輯して、以て先徳を表し、且つ後世に伝へんとす。其本を思ひ祖を懐ふの至誠は以て追遠帰徳の美挙として人を感ぜしめ又内鮮融和の史伝と時務にも補益することも、亦大なりといふべし。
 余深く高麗の史伝に対して思を致し、且つ今高麗氏の美挙に感ずる所あり。乃ち蕪陋〈ブロウ〉を顧みず、平生〈ヘイゼイ〉所思〈オモウトコロ〉を題して以て序文となす。

  皇紀二千五百九十一年
  昭和六年七月    文学博士 中山久四郎

*このブログの人気記事 2017・9・24

 

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高麗神社を訪れた著名人

2017-09-23 05:21:33 | コラムと名言

◎高麗神社を訪れた著名人

 昨日の東京新聞朝刊三面の「視点」欄に、「渡来人系神社訪問/朝鮮半島への深い関心」という署名記事が載った。執筆は吉原康和編集委員である。
 記事の冒頭は、次のようになっている。

 初秋を迎えた今月二十、二十一日、天皇、皇后両陛下は、私的な旅行で埼玉県内を訪問された。その中で印象に残ったのは、朝鮮半島からの渡来人が建立した高麗【こま】神社(日高市)訪問だった。昼食を含めて約三時間にわたって滞在。本殿参拝後、同神社の神職を代々務めてきた高麗家の旧住宅「高麗家住宅」などを熱心に見学した。
 同神社には昨年〔二〇一六〕四月、日韓共催のサッカー・ワールドカップ(W杯)開催時に訪韓したことのある高円宮妃久子さまが立ち寄られているが、歴代天皇では今回が初めてだ。
 上記記事からは読み取れないが、天皇、皇后両陛下が高麗神社を訪問したのは、今月二〇日昼一二時だという。
 記事は、このあと、二〇〇一年の「ゆかり発言」にも触れ、最後、次のように結んでいる。

 今回の訪問は、朝鮮半島からの渡来人と渡来文化に寄せる陛下の長年の関心の一端に触れる貴重な機会と機会となった。

 天皇、皇后両陛下が高麗神社を訪問されというニュースを聞き、一冊の冊子を取り出した。高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所)である。初版は、一九三一年(昭和六)一一月だが、手元にあるのは、一九三五年(昭和一〇)七月に出た「三版」である。
 この冊子は、順に、グラビア写真五枚、序文四ページ、本文三六ページ、グラビア写真一枚という構成になっている。うち本文は、順に、「高麗郷由来」、「諸家文藻」、「高麗氏系図」、「高麗神社参拝諸名士芳名」という構成になっている。
 本日は、このうち、「高麗神社参拝諸名士芳名」を紹介してみよう。

  高麗神社参拝諸名士芳名(参拝年月順)
渡邊洪基  重野成齋〔安繹〕  星野 恒〈ヒサシ〉  趙 重応  尾崎紅葉  柴田常恵  
宮地直一  島田剛太郎  岡本一平  小松 緑  中山久四郎  本山彦一  鳥居龍蔵  
頭本元貞〈ズモト・モトサダ〉  酒井忠一  大塚常三郎
筑波藤麿 侯爵の御参拝は大正九年〔一九二〇〕十月二十四日にして当時は金枝玉葉〔皇族〕の御身にて在しぬ〈アラシヌ〉 
萩原彦三  申 錫麟  高 羲敬  國分象太郞  山中 笑〔共古〕  堀内秀太郎
水野錬太郞  粕谷義三  徳富蘇峰  依々木安五郎  齋藤 實〈マコト〉
藤原喜蔵  若槻禮次郎  齋藤守圀  朝久野勘十郎  茅原華山  山道襄一  
川島浪速  川島芳子  荒川五郎  中島信虎  濱口雄幸  野手 耐〈ノデ・タエル〉 
齋藤阿具  岡倉由三郎  小杉未醒  高松四郎  高島平三郎  西村眞次 
大島又彦  堀内文次郎  小林正盛  太田資業  松田源治  武富 済  関 直彦 
紫安新九郎〈ムラヤス・シンクロウ〉  小泉又次郎  波多野保二  朴 敬元  松平外与麿 
本田静六  鳥山喜一  阿部充家  内田寛一  福島繁三  河田 烈〈イサオ〉  
崔 鱗

 昭和初年までの段階で、かなりの著名人が、高麗神社を訪れていることがわかる。
 皇族も、高麗神社を訪れている。筑波藤麿〈ツクバ・フジマロ〉は、旧名、藤麿王、山階宮菊麿王の第三王子で、皇族だったが、一九二八年(昭和三)七月、臣籍降下が認められ、筑波の家名を賜り、侯爵となった。高麗神社には、皇族の「藤麿王」として、訪れていたことになる。
 なお、明日以降も、『高麗郷由来』の紹介を続け、そのあと、『(昭和十八年二回改正公布)戦時刑事民事特別法裁判所構成法戦時特例解説』(中央社、一九四三)の紹介に戻る。

*このブログの人気記事 2017・9・23(10位にかなり珍しいものが入っています)

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木畑壽信氏を偲んで・その2(青木茂雄)

2017-09-22 02:27:56 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その2(青木茂雄)

 深谷善三郎編『(昭和十八年二回改正公布)戦時刑事民事特別法裁判所構成法戦時特例解説』(中央社、一九四三)の紹介を続けようと思ったが、昨日、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の二回目の原稿が届いたので、本日は、これを紹介する。以下、すべて青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(2)        青木茂雄
  ……
ああ、わが心と念いはいかばかりに飢え
 人の友よ、汝の慈(いつく)しみをこがれ慕い(したい)まつるや!
ああ、われはいかに、時に涙ながしつつ
 この食物に与(あずか)らんと憧(こが)れ求むるを常とするや!
ああ、いかにわれは渇き求めて、
 生命の君の飲みものに与(あずか)らんと願い来しや!
……
(J.S.バッハ『教会カンタータ180番、“装(よそお)いせよ、おお わが魂よ”』 より、杉山好訳)

(Ⅱ)「僕の思考は倫理的である。」 
 1978年から79年にかけて寺小屋教室の中で、ちょっとした議論があった。それは、同教室の運営方針を巡ってなのだが、財政問題もからんで、より一般受けのする「教養講座」をめざす潮流と、寺小屋教室の初期の理念「われわれの思想をわれわれのの手で」にこだわる潮流とである。後者の潮流をより純化すれば「講師」を外側から呼ぶのではなく「会員」自らの手で講座をつくる方向性をとろうとする。そうするとその反論として、金銭をとることの意味もなくなる、会員に何も材料を提供することなく、いきなり議論せよとは暴論だ…、という意見がででくる。これもまた、もっともな話である。とまあ、どこにでも良くあった議論である。そこに「思想」の自主性とか主体性とか、はたまた内部性とか土着性とかいう議論がオーバーラップされてくる。これもまた、昔から良くある話である。その「思想」的な議論が寺小屋論の中で展開されるようになった。私が属していたのは後者の潮流であり、従って私の腑分けもその観点からなされている。
 1979年からいくつかの講座が閉講になり(私の属していた「明治国家論」も閉講となった)、閉講された講座の会員の受け皿も兼ねて、寺小屋論の番外編として「土曜講座」と銘打った、自主講座が会員の手によって行われるようになった。その中で行った、私の過去の体験を回想記風につづった短い報告の評判が結構良く、小阪氏のサジェスチョンもあって、それを「戦後思想論 戦後左翼思想と倫理の成立根拠」(以下「左翼倫理」と略)と銘打ったやや長めの文章にしたため(当時は皆手書きだった)発表した。今私の手元にあるコピーには「土曜講座・番外編 1980年3月9日(日)於寺小屋教室」とある。寺小屋論の番外編としての土曜講座のそのまた番外編で、である(「左翼倫理」については稿を改めて論じたい)。木畑壽信はこの土曜講座の常連であった。当然、「構成する差異」の続編も発表されたと思うが、私にはその内容の記憶がない。
 土曜講座に出席していたメンバーの中の幾人かが中心となって、1980年から81年にかけて寺小屋を離れて、自主的な研究読書会がはじまった。中心となったのは小阪氏である。(このあたりの記憶はあまり確かではないが)テキストはアリストテレス『デ・アニマ』(河出「世界の大思想」版で)、デカルト『情念論』(角川文庫版で)、スピノザ『エチカ』(岩波文庫版で)、ヘーゲル(何を読んだのかは忘れた)、メルロオ=ポンティ『行動の構造』(みすず書房版で)、マルクス(『経済学哲学草稿』、これは部分的に原語で読んだ)、吉本隆明『共同幻想論』などである(この機会に私は『共同幻想論』をかなり徹底して読んだ)。テキストの選択には小阪氏の志向(嗜好)が多分に反映されており、後年小阪修平論を試みるむきには何らかの参考となろう。研究読書会には、やがてヘーゲルやフッサールの研究者として知られるようになる若き西研氏も参加し、しだいに学術的な色彩を帯びるようになった。そして、ヘーゲルの『精神現象学』をドイツ語で読もうということになった。これがやがて、当時は駆け出しの文芸評論家であった竹田青嗣氏も参加することになる「ヘーゲル研究会」(通称「ヘ研」)である。当時の私のドイツ語力ではヘーゲルにはまったく歯がたたないことがわかったが…。そこはさすが竹田氏である。ドイツ語は初めてです、などと言いながら文法書を片手にすらすらと読んでいく。「ヘ研」はドイツ語的には西研氏が集約し、内容的には小阪氏が集約した。
 さて、このグループの中で、1982年のはじめころから、小阪氏が雑誌を発行したい、と持ちかけた。その構想として、何を書いても良い、ただし書いた分量だけ資金を負担すること、等々の原則を提案した。
 話はとんとん拍子で進み、中央線高円寺駅近くの簡素な木造アパートの8畳一間を借り、スチール製の机の上には共同出資して購入した当時最新式であった「モトヤ」の電動式和文タイプライター「タイプレス」を据え(当時はワープロ登場直前の時期であった、したがってほどなくしてそのタイプライターは使われなくなり、象徴的な意味しかもたなくなった)、版下作成まで自主的に行うというシステムが考案された。雑誌のタイトルはいろいろとあがったが、最終的には小阪氏提案の「ことがら」となった。いうまでもなくこれはヘーゲル哲学のキーワード“Sache”(ザッヘ)からきている。木畑壽信は最初から「ことがら」同人であった。私の木畑との付き合いの第二期がこのようにして始まった。
 1982年夏に『ことがら』1号が発刊された。1号には小阪氏の「制度論」の連載第1回掲載された。「制度論」はスターリン主義を単なるロシア的後進性に帰することなく、近代的な思想や制度総体の中でとらえ批判して行こうとする壮大な構想から出発したものである。本当は「観念論」としたかったのではないかと私は踏んでいるのだが(それほどまでに“観念”は当時の小阪氏にとっては大きな位置を占めていたと私は思っている)、「制度論」は「ことがら」の終刊によって未完のままに(未発といった方が良いかもしれない)終了した。しかし、その切り口は今も生々しく残されている。誰かがその切り口を引き継ぐべきだ、と私は考えている。小阪氏は1920年代の初期ソビエトについてかなり詳しく研究しており、「あの誠意、あの献身、それがどうしてあの圧政へと反転していったのか…」という言葉を、彼の口からしばしば聞いた。
私は「表現と行為(1)」を書いた。これは、1977年に私が『寺小屋雑誌』6号に掲載したもので、2、3の人から評価をいただいたので、大変に気を良くしてその続編にとりかかり「感性的思惟」を書いた。ところが『寺小屋雑誌』には載せてもらえず、この機会にと思って、せっせと据え置きの「モトヤ」の和文タイプを駆使して版下をつくって、1号に冒頭論文として全文掲載した。私としてはかなり自信作で今も愛着を持っているものなのだが、「表現と行為」を評価してくれる人は残念ながら、これまでに皆無である。ヒュームの『人性論』にならって言えば「印刷所から死産した」のである(笑)。従って、続行する意志をなくし、その代わりに2号から、「戦後倫理」の続編として「70年代記」の連載を始めた。これが内輪の間では結構評判が良く(とくに小説家の笠井潔氏からお褒めいただいたことを光栄に思っている)、何よりも版下を読んだ印刷所の人から「この後どうなるんでしょう?」と言われたのには正直うれしかった。
「70年代記」と「表現と行為」は表裏の関係にあり、両者ともに私の青年期の総括である。
自己宣伝めいた話はこれで終了して(この辺の事情については、また機会を改めて書くこともあろうかと思う)、本題の木畑壽信のことに戻る。
 1号には木畑の「世界との対話」が掲載された。A5版の小冊子で、9ポで2段組の13ページだから中くらいの分量の作品である。「自己 自己の表現 性 愛 …」以下「自己表出」にいたるまでの全部で25項目について短い文章で綴ったものである。
 冒頭の「自己」という項目に次のような文章がある。

「1.自己の思考に対する提言
① 思考の観念性を排除すること、つまり〈架空〉の問題を定立しないこと。従って、思考の架空性の拒絶は、現実の社会的諸関係のなかの自己が必然的に引き受けざるを得ない諸関係(自己の立場)を明確にすることによって可能である。
② 僕の思考作用は倫理的である。だから、行為にかんする決定の基準が倫理的である。」
 この「世界との対話」は自身の20代前半に書き記した3冊のノートから作成したものであると、木畑は書いている。一読しては、この①と②の関係が良くわからないが、良く読むと「必然的な社会的諸関係」を引き受けることが「倫理的」であり、逆に言えば、思考は倫理的であり、それは必然的に社会的諸関係を引き受けている、ということになる。
 木畑の言うことの一面はわかる、しかし、思考している自分自身とは何なのだ、という問いがすっぽりと抜け落ちている。ここから「社会的諸関係」の表象が即座に「倫理」としてたち現れるという《転倒》が生じるのではないのか、という疑念が生じる。この点を指摘したのが小阪修平であった。  (つづく)

*このブログの人気記事 2017・9・22(8位に極めて珍しいものが入っています)

 

 

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官公吏にして職をけがす者、跡を絶たず

2017-09-21 02:58:13 | コラムと名言

◎官公吏にして職をけがす者、跡を絶たず

 深谷善三郎編『(昭和十八年二回改正公布)戦時刑事民事特別法裁判所構成法戦時特例解説』(中央社、一九四三)から、「戦時刑事特別法解説」の第一編「総説」を紹介している。本日は、その四回目。
 本書第二編「逐条解説」には、「昭和十八年二次改正」について説明している部分が二箇所ある。「二一頁ノ二、以下」と、「三二頁ノ二、以下」で、いずれも、「新訂増修」にあたって、付け加えられた記述であろう。本日は、そのうち、「三二頁ノ二、以下」の記述を紹介してみたい。

  第八十三回帝国議会(昭和十八年臨時議会)其他に於
  ける本法改正綜合説明
  ()戦時刑事特別法中改正理由書(司法省編)
 決戦態勢に即応し、綱紀の振粛を図る為め涜職罪に関する規定を整備すると共に、裁判所構成法戦時特例の改正と相俟ち刑事事件の一層敏活なる処理を図る為め、略式手続の範囲を拡張し、其他刑事手続に特例を設くる為め戦時刑事特別法中改正を要するものあり、之本を提出する所以なり
  ()戦時刑事特別法中改正法律要綱(司法省編)
、官公吏其の他公務員の涜職罪に関し刑罰を加重し且つ規定を整備すること。
、略式手続の範囲を拡張すること。
、或種の訴訟手続の簡易化を図ること。
  ()戦時刑事特別法中改正理由(司法大臣岩村通世氏説明)
 本法改正理由につき更に敷衍〈フエン〉して説明する。
 司法部に於ては、既に実施せられたる裁判所構成法戦時特例並に之と密接なる関係ある戦時特別法及び刑事特別法の運用に依りて、戦時下に於ける裁判、検察の運行を的確迅速にし、以て其の本來の機能の発揚に努力して来たのであるが、大東亜戦争は今や苛烈なる決戦連続の段階に入り政府は断乎国内態勢の強化方策を樹立して、国家の総力を挙げ、益々聖戦の目的に集中することとなつたのである。司法の部門に於ても之に即応し、銃後治安の確保を図ると共に、司法の一層敏活なる処理を為し愈々其の効果を発揮する為め、之等三法律に必要なる改正を為さむとする次第である。
 戦時刑事特別法は、大東亜戦争開始後の情勢に対処する為め、刑事に関する実体及び手続に関する規定を整備し、裁判所構成法戦時特例と相俟ち、犯罪の予防鎮圧及び刑事事件の敏速なる処置に相当なる効果を挙げ来つた〈キタッタ〉のである。然るに戦局の苛烈化するに伴ひ、銃後治安の確保は益々喫緊の要務となり、司法の職責亦愈々重きを加へ来つたのである、此秋〈コノトキ〉に当り率先垂範すべき官公吏等にして其の職を涜す〈ケガス〉者其の跡を絶たざるは遺憾至極のことであつて、延いては〈ヒイテハ〉国政の円滑且公正なる運用を妨げるの虞〈オソレ〉があり、此際綱紀の振粛を図る為め涜職罪に関する刑罰を加重整備するの必要を痛感するのである。他方刑事手続に於ても決戦段階に相応しき一層簡素強力なるものとし、的確敏速なる裁判検察の運用に依りて銃後の治安維持に万全を期する必要があると考へるのである。即ち改正の要点は四点であつて、其の一、は涜職罪に関する刑罰を加重し規定を整備する。其の二は、略式手続の範囲の拡張、其の三は、刑事手続の簡易化、其の四は、裁判構成法戦時特例の改正に伴ひ必要なる調整を為さむとするのである。
以下の説明は便宜上改正十八個条各註解の頭首に輯録叙述する、編者附言)【以下、次回】
                     
 戦時刑事特別法の「昭和十八年第二次改正」(一九四三年一〇月公布、一一月施行)の眼目は、上にあるように、「官公吏等」の「涜職罪に関する刑罰を加重」することであった。具体的には、第一八条(飲料水に関する罪)と第一九条(戦時における刑事手続の特例)との間に、「第一八条ノ二」から「第一八条ノ七」まで、計六つの条文を付加したのである。なお、この改正をおこなった第八三回帝国議会は、臨時会で、会期は一九四三年(昭和一八)一〇月二六日から二八日であった。

 

 

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