◎はじめは高麗王一柱を祀ったのであろう
高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その三回目。本日は、本文の冒頭に置かれている「高麗郷由来」を紹介してみたい。
さて、昨日のコラムをアップしたあとに気づいたのだが、ネット上に月見草出版による「韓郷神社社誌」というブログがあって、そこに、「『高麗神社と高麗郷』の序文」というものが紹介されていた。読んでみると、『高麗郷由来』の序文と、ほぼ同文であった。
このブログの主宰者は、「韓郷神社」の研究家であるという。高麗神社を訪ねた際に、「一つ年上の昭和2年11月14日生まれである高麗澄雄さん」から、「本人編集の『高麗神社と高麗郷』という著書」を贈られたとある。
たぶん、高麗澄雄編『高麗神社と高麗郷』という本は、高麗明津編『高麗郷由来』を基礎に、高麗澄雄さんが再編集されたものなのだろう。
ブログ「韓郷神社社誌」では、中山久四郎の「序文」のあと、高麗明津編『高麗郷由来』でいうところの「高麗郷由来」に相当する文章が、紹介されていた。ただし、そこには、「高麗郷由来」というタイトルはない。また、表記や内容においても、「高麗郷由来」とは、若干の相違がある。
以下は、高麗明津編『高麗郷由来』三版(一九三五)にある「高麗郷由来」である。
高 麗 郷 由 来
武蔵野の尽くる所、秩父嶺の漸く峙つ〈ソバダツ〉あたり、高麗入間の二流に沿ひ、高麗【こま】高麗川の二村を中心に、東西八里、南北三里に亘る村々、これが奈良朝の昔、霊亀年間に、高麗【こま】人一千七百九十九人を移して、安住の地たらしめた旧【もと】の高麗郡である。
高麗村の西北隅、大字〈オオアザ〉新堀〈ニイホリ〉字大宮の中央に、謂はゆる御殿の後山【うしろやま】を背景として、高麗川の清流に臨んだ景勝の地に鎮座まします荒涼たる小祠がある。高麗神社と号ふ〈いう〉。社格は村社〈ソンシャ〉で、齋かるゝ〈イツカルル〉神々は、高麗王若光〈ジャッコウ〉、猿田彦命、武内宿禰の三柱〈ミハシラ〉であるが、別掲の高麗氏系図に、若光の卒するや、従ひ来れる貴賤相集つて、尊骸を城外に葬り、神国の例に従ひ、霊廟を御殿の後山【うしろやま】に建て、高麗明神と崇め〈アガメ〉、郡中に凶事あれば、則ち之れに祈るとあるのを見ると、はじめは高麗王一柱〈ヒトハシラ〉を祀つた〈マツッタ〉ので、後に他の二柱〈フタハシラ〉を合祀〈ゴウシ〉したものであらう。
この祭神たる高麗王若光とは如何なる事歴の方か。又如何にしてかくも隔絶した海東の地に移り住まれたか。之れを思ふと、興亡の歴史はうたゝ後人〈コウジン〉をして涙なきを得ざらしめる。
抑々我国と朝鮮との交渉が遠く神話時代に遡ることは、学者の斉しく〈ヒトシク〉認めるところであるが、それはしばらく措くとするも、垂仁天皇の御代に於ける新羅王子天日槍〈アメノヒボコ〉の来朝を初めとして、彼我のあいだに深き交渉があり、なつかしい親和が続いたことは、歴史に詳〈ツマビラカ〉なるところである。
我国の歴史に於いて、高麗【こま】人の名が最も早く載せられてあるのは、日本書紀なる韓人池〈カラビチイケ〉の項である。即ち応神天皇の七年秋九月、高麗【こま】人百済人任那人新羅人が来朝し、武内宿禰が詔〈ミコトノリ〉を奉じ、此等来帰の韓人をして池を造らしめ、其池を韓人池と号【なづ】けた、とあるのがそれであるが、それより以後は、絶えず使節の来往があつて、高麗及び高麗人の名は所々に見えて居る。
言ふまでもなく、当時の高麗【こま】は、松花江の上流扶余〈フヨ〉の地に興つた、東明聖王高朱蒙を建国の祖とする、高句麗【こくり】である。即ち王建を祖とし、開城に都して、新羅滅亡後の半島に君臨した、後の高麗【かうらい】とは全然別個のもので、晋人をして「東国文字無し、高句麗独り之を有す」と言はしめた東方文化の国である。
高句麗は広開土王(好太王)の時国勢最も振ひ、大に国土を開拓し、遂に南下して朝鮮の北半を平げた。次いで其の子長壽王は都を国内城より平壌に遷した。其の盛時に於ける版図は、現今の忠北江原両道以北瀋陽長春のあたりから、遼河以東の遼東半島一帯、東は遠く浦塩斯徳〈ウラジオストック〉に迄及んで、勢威隣国を圧し、北方の強国として、隋唐の勢威にも屈せず、終に一戦して隋の煬帝〈ヨウダイ〉を破り、再戦して唐の太宗〈タイソウ〉に克ち、太宗をして「魏徴《唐初の功臣》若し在らば我れをして此の行あらしめざりけんに」と悔恨せしめた程である。
この先進国高句麗が、我国の文化に少なからず貢献したのはもとより当然のことで、たとへば書紀の仁徳天皇十二年の条に、七月高麗国より鉄盾鉄的を貢【たてまつ】る、とあつて、我国武器進歩の上に、重大な影響を与へた事を証明してゐる事実の如き、又仁賢天皇の六年に、我が国の使者日鷹吉士〈ヒタカノキシ〉の乞にまかせ、工匠を送り来つて、建築工芸の上に著しき進展を見せた事実の如き、更にまた、推古天皇の十七年《六〇九》には、僧曇徴〈ドンチョウ〉を送り続いて三十三年には僧恵灌〈エカン〉を送つて來て我が仏教文化の建設に貢献したるが如き、数へ来れば実に枚挙に遑〈イトマ〉なき程である。殊に前記曇徴の如きは、五経にも通じた知識で、かの英邁天縦の聖徳太子に仏教を講じ奉つたと伝へられ、また彩色及び筆墨を製する技に長じ、碾磑【ひきうす】を作ることもよくしたと云はれる。碾磑【ひきうす】は実に彼によつて伝へられ、我が国民の日常生活の上に大なる利便を齎した〈モタラシタ〉のであつた。
かく観来る〈ミキタル〉と、高句麗が新羅百済と共に、我国文化の精神物質両方面に、如何に多く貢献する所があつたかは、多言を要せぬことであらう。
この東方の文化国、強剛四隣に鳴つた雄邦の高句麗が建国後七百余年、我が天智天皇の御代、高句麗国王第二十八代宝蔵王の代に到つて、唐新羅の連合軍の来寇により、遂に亡国の悲運に際会したのである。【以下、次回】