◎航空機の生産は昭和19年6月をピークに急激に低下した
大戦末期における航空機産業のことが気になったので、安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)を引っぱり出し、そこに載っている遠藤三郎元陸軍中将の証言を読んでみた。非常に興味深く、また貴重な証言である。
本日は、これを紹介してみたい。ただし、紹介するのは、「ノモンハン事件」の節以降。
帝国陸軍と航空機工業の崩壊 語る人 遠 藤 三 郎
〈かいせつ〉 わが国の航空機製造の歴史は明治四十三年(一九一〇)にはじまるが、兵器としての関心が高まったのは第一次大戦以後であり、外国技術の導入による模倣的生産が昭和初期まで続いた。昭和五年〔一九三〇〕頃から陸海軍はわが国独自の設計による制式機種の国産化を意図し、各社に競争試作をさせた結果、「九六式艦戦」などの優秀機が生み出され、航空機生産の技術水準は飛躍的に高まった。日華事変から太平洋戦争の時期には航空機工業は戦略上最重点産業とされ、陸海軍もこれを担当する諸機関を設け、研究開発と生産能力増強に力 を入れたため、機体生産は昭和十六年〔一九四一〕から十九年〔一九四四〕までに約六倍、発動機生産は同じく約四倍にまで拡大、質的にも、「零戦」(海軍)をはじめ「隼」(陸軍)「一式陸攻」「彗星」(海軍)など世界水準を凌ぐといわれたものも製作された。
しかし、航空機生産をめぐっての陸海軍の対立、型式〈カタシキ〉の多種不統一(陸海軍合計で九〇種の基本型式と一六四種の変種がつくられた)などのために、生産能率は悪く、一労働日当たり生産量では、アメリカの約三分の一、機体総生産高ではアメリカの約九分の一(いずれち最高年次である昭和十九年の数値)にすぎなかった。
その後戦局の悪化とともに、軍需生産行政の一本化が要望され、その結果として軍需省が設けられた。この頃から他部門を犠牲にしてまで航空機生産に資材、労働力を集中したので、航空後の生産は一応上昇をみせた。
当時、航空機生産は、三菱、中島の二大民間航空機会社を中心に行なわれていたが、生産構造は広範な下請工場網に支えられたもので幾多の脆弱な点があり、熟練工と資材の不足、空襲や疎開による混乱のなかで、昭和十九年六月をピークに、生産は急激に低下した。航空用燃料不足を松根油〈ショウコンユ〉で補おうという末期的状況のなかで、一部航空機会社の軍需工廠への組織替え(国営化)が行なわれたが成果を見る間もなく敗戦を迎えて、わが国の航空機生産は壊滅したのである。
〈対談の前に〉 元陸軍中将の遠藤三郎氏から、氏の体験を通じての「帝国陸軍」の歩み、そしてさらに同氏は昭和十八年〔一九四三〕軍需省が設置されたとき、現役のまま航空兵器総局長官に就任されたので、戦争末期、とくに軍需生産の中心として総力の傾注された航空機生産の実態についてのお話をおうかがいすることとした。
遠藤さんは周知のように、戦後、埼王県入間川で農業に従事され、農民姿で晴耕雨読の生活をされるとともに、憲法擁護、再軍備反対運動で活躍されるなど、元陸軍将官としてはユニークな生き方をされているだけに、このお話にも独自のものがあったし、はじめて明るみに出た秘話も多かった。西武鉄道新宿線入間川駅から近い質素なお宅に招じられた遠藤さんは、終始笑みをたたえられながら、率直な回顥談を語って下さった。またせっかくの機会なのでお話は満州事変までさかのぼっていただいた。
満州事変で渡満【略】
反乱将校を説得に【略】
軍紀たい廃と不合理な論功行賞【略】
ノモンハン事件
―― 昭和十四年のノモンハン事件(「満洲国」と外蒙人民共和国との国境のノモンハン付近で関東軍とソ連軍が衝突し、日本軍は一個師団全滅に近い大打撃を受けた)のときには……。
遠藤 少将進級の直前で、進級したら南京の総参謀副長に転ずる予定で、ちょっと腰掛けに浜松の飛行学校付でおりましたところへ、ノモンハン事件、そして敗けいくさになったのです。ところが関東軍の連中は自分でやったものだから、何とか尻拭いしなければならんというので、関東軍の総力をハイラルに集中して総攻撃を準備しておる。中央では勝ち目のないことがわかっているから止めさせにゃならん。ところ が電報でいくらやめろといっても関東軍はきかんのです。そこで軍司令官はじめ上のほう(植田〔謙吉〕司令官、磯谷〔廉介〕参謀長、矢野〔音三郎〕参謀副長を全部更迭する大手術をやったわけてすね。
ところが新軍司令官(梅津〔美治郎〕大将)、新参謀長(飯村〔穣〕中将)とともに急遽赴任ができない事情でした。油売ってお茶ひいているのは私だけだということで、南京行きは沙汰やみとなり、関東軍の参謀副長ということで急遽ノモンハンに行っていくさをやめさせろというわけです。で、そのときの国力を聞かされたわけです。日本の全陸軍を通じて戦闘機百機しかなかった、内地もみんな合わせて。これではとても勝ちいくさをやることはできゃせんのだから、その前に停戦させにゃいかん。夜中の電話で東京まで呼び出され、すぐに飛行機で発てというのですからいそがしいのです。
ともかく承知して新京に飛び、そこからはプスモス〔Puss Moth〕というほんとうに小さないつでもどこへでも着陸できるような飛行機で地べたをはうようにして行きましたよ。途中でもし敵機に攻撃されても撃墜されずに着陸して逃げられるように。だからソビエトから殺されることはまぬかれるけれども、コブシを上げていきまいている関東軍に「やめろ」といったら、門出の血祭りにあげられやせんかと思ったですね。
ところがハイラルに行って荻洲立兵(オギス・リュウヘイ)第四軍司令官に話したら、案ずるより産むがやすしで、軍司令官以下勝ちいくさとは思っておらん。しかし行きがかり上やめるとはいえんから止め男を待っておったのですね。だから表向きは「残念だ」とかいってコブシで涙を拭ったりするけれども、それは団十郎みたいなものでりっぱな芝居ですよ。ソビエトもあんなところでほんとうのいくさはできゃせんですわ。鉄道線路を遠く離れているので、シベリア鉄道から自動車でこにゃならんので向こうでもやめることを待つておったからわけなく停戦ができちゃった。しかし私はそこでソビエト軍の実力を知ったのです。それに対して日本がいくさをするなんてとんでもないことだと思いました。
私はノモンハンの停戦後も関東軍の参謀副長をやっておったのですが、その当時関東軍が天皇の名前でもらっておる「作戦計画訓令」というやつをみたのです。そうすると驚いたことには大正十三、四年〔一九二四、一八二五〕ごろ、私がつくったときの「作戦計画訓令」そのままなのです。ソビエトに対してバイカル湖までの進攻作戦です。だからそういう訓令をもらっている関東軍とすれば、ノモンハンあたりでなにか起こすことは無理ないわけです。ノモンハン事件で関東軍だけいじめることはできないのです。中央部がいかんのです。そういうメチャクチャな任務を与えていたのです。
私は、これはすみやかに任務を変えなければいかんと考えて、「ソビエトに対しては断じて事をかまえない、万一ソビエトがこっちの弱みにつけこんで侵略してきたら、満州国内で陣地と地形を利用して、必要最小限の兵力でこれを迎えうつという防御の作戦をたて、日本は全力をつくしてシナ事変を早く解決すべきだ」という意見を具申したわけです。これは私の独断じゃなしに参謀長にも軍司令官にもご同意を得て中央と交渉したのです。
その当時の交渉相手は参謀本部の作戦部長富永恭次(のち中将、次官を経て在満師団長で捕えられ、ソ連に抑留された)です。 彼は「日本軍には防御なし」というのです。そうして、「防御の任務なんか与えておった日には、日本軍隊の士気に関係する」というわけでどうしても承知しない。なんぼ交渉しても「直すこと相ならん」というから、「あの計画で作戦ができるかできんか図上でやってみよう。関東軍の幕僚をもってソビエト軍を編成するから、参謀本部の作戦関係のものは日本軍を担当して、図上でいくさをしてみよう」といったのです。そうしたら富永恭次をはじめ作戦関係のものが大挙してやってきました。そこで私はソビエト軍の指揮官になってやろうとしたら、富永がきかんのです。「自分らは演習にきたんじゃない、関東軍の作戦課が日本軍を担当して、関東軍の情報課がソビエ卜軍を担当して、遠藤が統裁してやってみてくれ」という。「それじゃだめだ、いくら私が公正にやっても、日本軍が負けたら、遠藤は自分の説を通すために負けさしたんだということになるからだめだ」と断わりました。しかしどうしてもきかんし、梅津美治郎軍司令官(のち大将、戦犯として刑死)も「われわれもみているのだから、君、統裁してやってくれ」というのでやったところが、まったく徹底的に日本軍の敗北ですよ。
―― それは何年ですか。
遠藤 十五年〔一九四〇〕の初頭です。日本軍の大部分は中国に行っているでしよう。満州にもってこようと思ったって、山海関を通って汽車でくるか、大連か、釜山か仁川あたりに船でくるほかないが、すぐ見つかっちゃう。だからソ満国境に行くまでにみんなやられちゃって、関東軍のほうがさんざんに負けちゃったのです。そうしたら富永恭次は何もいわずに帰っていって、それから一週間もたたんうちに、人事のほうの責任の部長、神田少将(正種。のち中将で師団長)が――これは参謀本部の総務部長をしておったのですが――関東軍にきました よ。そうして私と飯村参謀長と軍司令官と三人だけに内密に話がある、実は遠藤少将をもらいにきたというのです。
これから航空が大事だから、航空に転じていただくことになったというわけです。私は航空は素人だし、行ったってなにもできゃせんし、関東軍の参謀副長ならできるという確信があるからそれはやめてほしい、というたのだけれども、どうしても聞かずにもらわれたが、なにも要職につけるんじゃありゃせん。浜松の飛行学校付仰せつけられるというので、また出戻りというわけです。昭和十五年三月のことです。【以下、次回】
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