礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

予科練もきれいな服装をさせて子どもらが喜んで行くようにする

2020-08-26 03:47:28 | コラムと名言

◎予科練もきれいな服装をさせて子どもらが喜んで行くようにする

 安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その三回目。

  陸、海で飛行機奪い合い
 ―― 昭和十八年〔一九四三〕に航空士官学校長から航空本部総務部長(兼航空総監部総務部長)にお変わりになったのですね。
 遠藤 とにかく飛行機が足らんでどうにもなりません。若いものを教えておっただけじゃ、飛行機そのものが間に合わなくなった。それで航空本部にやって、広い意味の航空要員ならびに飛行機の増産をやれということになりました。で、行きましたのですが、なるほど生産力が少ない。それから教育のやり方もまずいのですよ。すべてが欠陥だらけ。そのうちでもいちばん大きな欠陥は陸海軍のけんかですわ。驚いた のはどうしてこんなに陸軍と海軍で争っているのかということです。例をあげますと、三菱(重工)とか中島(飛行機)は陸軍と海軍と両方の飛行機をつくっているのですが(この二社が航空機生産の主力であった)、その同じ会社で陸軍の飛行機をつくっている技師と海軍の飛行機を研究している技師のあいだの交流を許さんのです。もう絶対秘密です。それから機材の融通もできない。
 たとえば同じ会社にニッケルがある程度あるけれども、それが陸軍で世話したニッケルだと、海軍の飛行機をつくるのにそのニッケルが必要でもやらんものだから生産があがっていかないのです。それから三菱で静岡の近くに工場を建てているのです。その工場を建てるのに建築材料は陸軍だったか海軍だったか、どっちかで世話して建てたので建物は出来上がったのですね。ところがそこに据えつける機械はこんどは反対側のほうの機械なものですから、それは工場の建物内に入れることが出来ない。それをいっしょにして工場として活動することを許さんのです。そこで建物はできたけれども、機械は別なものだから停車場におっぽりだして赤銹〈アカサビ〉になっている。それでもいっしょになってやろうとしない。
 それから土肥原さん(賢二。満州事変勃発当時奉天特務機関長、当時大将、のち教育総監、第十二方面軍司令官等歴任。戦犯として死刑)が私の行く前に航空本部長でしたが、台湾に旅行して台湾の海軍の航空施設を視察しようとしたら、海軍が見せない。それから山田〔定義〕という海軍の中将が海軍の輸送のほうの担当をしておりました。それが三重県の陸軍の飛行場にちょっと立ち寄りたい、飛行機を着陸させたいというが、陸軍で許してくれない。
 それから、同じ工場でつくった、陸軍でも海軍でもどっちでも使えるような飛行機ができると、武装した兵が取りに行くのですよ。血を流さんばかりの争いでしたね。それでこんな陰口があった。日本を亡ぼすものは英米にあらずして陸海軍航空だ。そういうひどいことを私は航空本部に行って見たわけです。
 人員養成にしても海軍は海軍で大学卒あたりのものをすぐ中尉にしてやる。予科練〔海軍飛行予科練習生〕あたりもきれいな服装をさせて子どもらが喜んで行くようにする。陸軍も負けておられるものかと大学卒業者をすぐ中尉にする、少年飛行兵を優遇して海軍の予科練に対抗する。それから各会社に航空兵器を注文するのに予算もヘチマもありはしない。来年度、再来年度の予算までやっちまって、おれのほうのを早くつくれというわけです。臨時軍事費ですからいくらでも金はとれるので、もうメチャクチャなのです。
 これはどうにかせねばいかんと思いましてね。幸い私とタイアップしておる海軍の航空本部の総務部長が大西滝治郎中将(二六九べージ参照)で、この人は非常にりっぱな人です。海軍大学は出ておりませんけれども、ほんとうに海軍の航空の第一人者だったな。そもそも私を陸軍の航空本部に引っ張ったのも陸軍の意見じゃないんです。この人がどうしても遠藤を自分とタイアップの陸軍航空本部にもってこいという意見で、その力が強かったようにあとで聞きましたがね。それでなくちゃ私は陸軍の異端者扱いにされているのだから、こんな要職に行こうはずはないのです。
 それから二人で相談いたしまして、陸海軍の航空を一本にしようということで、ずいぶん努力しましたけれども、どうしてもできない。そこでせめて陸海軍航空本部の将校クラブをこしらえて、飯でも毎日いっしょに食うようにして仲よくしようじゃないかというので、借家さがしをしておったのです。【以下、次回】

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イギリスは腐っても鯛です(辰巳栄一大佐)

2020-08-25 00:24:02 | コラムと名言

◎イギリスは腐っても鯛です(辰巳栄一大佐)

 安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その二回目。

  米英軽視の南進論
 ―― ノモンハン事件を契機として陸軍内部でも「北進論」(対ソ開戦論)が後退し、「南進論」(米英との開戦をも覚悟の上で、南方資源を武力で奪取しようとする論)がぐっと強まったわけですね。
 遠藤 南進論は援蒋ルート(蒋介石の率いる当時の中国正統政府を援助するため中国南部を通じての米、英等列国の対中国軍需物資の補給路)の遮断が主目的であったようですね。けれどもいくさをやってみて米英の妨害が急に強くなったものだから、米英をやっつけにゃならんということになってきたのじゃないですか。それには油が必要だから、ついでに蘭印(オランダ領インド)もやっつけろとね。アメリカは私が作戦計画をやっておったときにもちゃんと仮想敵国の一つです。イギリスも蒋介石を援助していてけしからん。この二つを排除せんことにはどうにもならない。つまり三韓を征伐しなくちゃ熊襲は治まらんというわけですね。単純なんです。
 それといわゆるドイツ系統(主として幼年学校出身者)が要職についておりますから、中学校出(陸軍士官学校は部内の幼年学校出身のほか一般の中学出身も入学させた)というものはバカにしておるのですよ。イギリスもアメリカもアングロサクソンで英語国でしょう。英語国なんちゅうものはてんでバカにしておったし、その英語を習ってきた将校なんちゅうものは、デイコロといって徴発馬扱いしておった。ほんとうに軽蔑しておった。あいつらはアメリカやイギリスを買いかぶっている、そんなものは鎧袖一触〈ガイシュウイッショク〉だといううぬぼれがあったですね。
 ―― 太平洋戦争開戦のときは陸軍が主戦論であり、海軍は開戦に反対するほどの勇気をもたず近(文麿)公は責任を回避して、結局ああいうふうになっていったといわれているようですけれども、だいたいそういうところでしょうか。(この項、鈴木貞一、高木惣吉両氏の証言参照)
 遠藤 そうですね。
 ―― なぜ主戦論が陸軍を支配したのでしょうか。
 遠藤 あまり人のいわんことですけれども、根本の原因は陸軍将校の養成制度にあったと思うのです。士官候補生をとって将校を養成するのに陸軍幼年学校と一般の中学校の卒業生と両方ありました。その幼年学校出身者が一番重い責任を負わにゃいかん。そのうちでもいちばん責任のあるのはドイツ語出身者といわねばならんでしょう。ドイツ語を学んだ幼年学校出が、第一次欧州大戦のためにドイツ留学をずっとストップしておったわけですよ。それには優秀なものが多かった。その連中がちょうどヒトラーがのさばってくるころ、どっとドイツに留学したわけですわ。そしてすっかりヒトラーに心酔してきたのです。
 その連中が陸軍大学の軍刀組(優等生に「恩賜」の軍刀が授けられた)の優秀な連中で、これが帰ってきて中央部の要職を占めてしまったわけです。課長クラスはたいてい彼らが占領しちゃったのです。だから彼らが陸軍を動かせるようになり、ひいて国を動かすことになったわけです。日本が英米をうとんじて逐次ドイツに接近し、日独同盟にまで発展していったことも了解しうることでしょう。日本と仲よくなったドイツ、そのドイツのヒトラーが昭和十六年〔1941〕にソビエトに対して戦争を始めたわけなのですね。で、彼らはいまこそドイツといっしょに日本陸軍の宿敵ソビエトをやっつけちゃえというわけです。
 その時、形に現われたのが関特演(関東軍特別大演習、昭和十六年六月独ソ戦が開始されたが、日本は同年七月末から九月に対ソ作戦準備のため満州に陸軍史上最大の兵力、資材の動員を行なった) というやつですね。ソ連国境に六、七十万の軍隊を集めた問題ですね。
 私はドイツに留学せずにフランスに留学したのですが、やはりドイツびいきでございまして、フランスはどうも軍人向きではなかったような気がしました。それで日独伊軍事同盟(昭和十五年九月締結)のときも課長会議で議論したのですよ。日独伊同盟に反対したのは何十人かいる課長のうちただ一人、参謀本部の欧米課長をしておった辰巳(栄一)大佐だけでした。
 彼はイギリス大使館付武官を吉田(茂)さんのもとでやっておって帰ってきたばかりでした。これが、「イギリスは腐っても鯛です。イギリスの力を軽視しちゃいけません」といって、ただ一人日独伊同盟に反対しました。【以下、次回】

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航空機の生産は昭和19年6月をピークに急激に低下した

2020-08-24 00:17:21 | コラムと名言

◎航空機の生産は昭和19年6月をピークに急激に低下した

 大戦末期における航空機産業のことが気になったので、安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)を引っぱり出し、そこに載っている遠藤三郎元陸軍中将の証言を読んでみた。非常に興味深く、また貴重な証言である。
 本日は、これを紹介してみたい。ただし、紹介するのは、「ノモンハン事件」の節以降。

帝国陸軍と航空機工業の崩壊  語る人 遠 藤 三 郎

かいせつ〉 わが国の航空機製造の歴史は明治四十三年(一九一〇)にはじまるが、兵器としての関心が高まったのは第一次大戦以後であり、外国技術の導入による模倣的生産が昭和初期まで続いた。昭和五年〔一九三〇〕頃から陸海軍はわが国独自の設計による制式機種の国産化を意図し、各社に競争試作をさせた結果、「九六式艦戦」などの優秀機が生み出され、航空機生産の技術水準は飛躍的に高まった。日華事変から太平洋戦争の時期には航空機工業は戦略上最重点産業とされ、陸海軍もこれを担当する諸機関を設け、研究開発と生産能力増強に力 を入れたため、機体生産は昭和十六年〔一九四一〕から十九年〔一九四四〕までに約六倍、発動機生産は同じく約四倍にまで拡大、質的にも、「零戦」(海軍)をはじめ「隼」(陸軍)「一式陸攻」「彗星」(海軍)など世界水準を凌ぐといわれたものも製作された。
 しかし、航空機生産をめぐっての陸海軍の対立、型式〈カタシキ〉の多種不統一(陸海軍合計で九〇種の基本型式と一六四種の変種がつくられた)などのために、生産能率は悪く、一労働日当たり生産量では、アメリカの約三分の一、機体総生産高ではアメリカの約九分の一(いずれち最高年次である昭和十九年の数値)にすぎなかった。
 その後戦局の悪化とともに、軍需生産行政の一本化が要望され、その結果として軍需省が設けられた。この頃から他部門を犠牲にしてまで航空機生産に資材、労働力を集中したので、航空後の生産は一応上昇をみせた。
 当時、航空機生産は、三菱、中島の二大民間航空機会社を中心に行なわれていたが、生産構造は広範な下請工場網に支えられたもので幾多の脆弱な点があり、熟練工と資材の不足、空襲や疎開による混乱のなかで、昭和十九年六月をピークに、生産は急激に低下した。航空用燃料不足を松根油〈ショウコンユ〉で補おうという末期的状況のなかで、一部航空機会社の軍需工廠への組織替え(国営化)が行なわれたが成果を見る間もなく敗戦を迎えて、わが国の航空機生産は壊滅したのである。
対談の前に〉 元陸軍中将の遠藤三郎氏から、氏の体験を通じての「帝国陸軍」の歩み、そしてさらに同氏は昭和十八年〔一九四三〕軍需省が設置されたとき、現役のまま航空兵器総局長官に就任されたので、戦争末期、とくに軍需生産の中心として総力の傾注された航空機生産の実態についてのお話をおうかがいすることとした。
 遠藤さんは周知のように、戦後、埼王県入間川で農業に従事され、農民姿で晴耕雨読の生活をされるとともに、憲法擁護、再軍備反対運動で活躍されるなど、元陸軍将官としてはユニークな生き方をされているだけに、このお話にも独自のものがあったし、はじめて明るみに出た秘話も多かった。西武鉄道新宿線入間川駅から近い質素なお宅に招じられた遠藤さんは、終始笑みをたたえられながら、率直な回顥談を語って下さった。またせっかくの機会なのでお話は満州事変までさかのぼっていただいた。

  満州事変で渡満【略】
  反乱将校を説得に【略】
  軍紀たい廃と不合理な論功行賞【略】

  ノモンハン事件
 ―― 昭和十四年のノモンハン事件(「満洲国」と外蒙人民共和国との国境のノモンハン付近で関東軍とソ連軍が衝突し、日本軍は一個師団全滅に近い大打撃を受けた)のときには……。
 遠藤 少将進級の直前で、進級したら南京の総参謀副長に転ずる予定で、ちょっと腰掛けに浜松の飛行学校付でおりましたところへ、ノモンハン事件、そして敗けいくさになったのです。ところが関東軍の連中は自分でやったものだから、何とか尻拭いしなければならんというので、関東軍の総力をハイラルに集中して総攻撃を準備しておる。中央では勝ち目のないことがわかっているから止めさせにゃならん。ところ が電報でいくらやめろといっても関東軍はきかんのです。そこで軍司令官はじめ上のほう(植田〔謙吉〕司令官、磯谷〔廉介〕参謀長、矢野〔音三郎〕参謀副長を全部更迭する大手術をやったわけてすね。
 ところが新軍司令官(梅津〔美治郎〕大将)、新参謀長(飯村〔穣〕中将)とともに急遽赴任ができない事情でした。油売ってお茶ひいているのは私だけだということで、南京行きは沙汰やみとなり、関東軍の参謀副長ということで急遽ノモンハンに行っていくさをやめさせろというわけです。で、そのときの国力を聞かされたわけです。日本の全陸軍を通じて戦闘機百機しかなかった、内地もみんな合わせて。これではとても勝ちいくさをやることはできゃせんのだから、その前に停戦させにゃいかん。夜中の電話で東京まで呼び出され、すぐに飛行機で発てというのですからいそがしいのです。
 ともかく承知して新京に飛び、そこからはプスモス〔Puss Moth〕というほんとうに小さないつでもどこへでも着陸できるような飛行機で地べたをはうようにして行きましたよ。途中でもし敵機に攻撃されても撃墜されずに着陸して逃げられるように。だからソビエトから殺されることはまぬかれるけれども、コブシを上げていきまいている関東軍に「やめろ」といったら、門出の血祭りにあげられやせんかと思ったですね。
 ところがハイラルに行って荻洲立兵(オギス・リュウヘイ)第四軍司令官に話したら、案ずるより産むがやすしで、軍司令官以下勝ちいくさとは思っておらん。しかし行きがかり上やめるとはいえんから止め男を待っておったのですね。だから表向きは「残念だ」とかいってコブシで涙を拭ったりするけれども、それは団十郎みたいなものでりっぱな芝居ですよ。ソビエトもあんなところでほんとうのいくさはできゃせんですわ。鉄道線路を遠く離れているので、シベリア鉄道から自動車でこにゃならんので向こうでもやめることを待つておったからわけなく停戦ができちゃった。しかし私はそこでソビエト軍の実力を知ったのです。それに対して日本がいくさをするなんてとんでもないことだと思いました。
 私はノモンハンの停戦後も関東軍の参謀副長をやっておったのですが、その当時関東軍が天皇の名前でもらっておる「作戦計画訓令」というやつをみたのです。そうすると驚いたことには大正十三、四年〔一九二四、一八二五〕ごろ、私がつくったときの「作戦計画訓令」そのままなのです。ソビエトに対してバイカル湖までの進攻作戦です。だからそういう訓令をもらっている関東軍とすれば、ノモンハンあたりでなにか起こすことは無理ないわけです。ノモンハン事件で関東軍だけいじめることはできないのです。中央部がいかんのです。そういうメチャクチャな任務を与えていたのです。
 私は、これはすみやかに任務を変えなければいかんと考えて、「ソビエトに対しては断じて事をかまえない、万一ソビエトがこっちの弱みにつけこんで侵略してきたら、満州国内で陣地と地形を利用して、必要最小限の兵力でこれを迎えうつという防御の作戦をたて、日本は全力をつくしてシナ事変を早く解決すべきだ」という意見を具申したわけです。これは私の独断じゃなしに参謀長にも軍司令官にもご同意を得て中央と交渉したのです。
 その当時の交渉相手は参謀本部の作戦部長富永恭次(のち中将、次官を経て在満師団長で捕えられ、ソ連に抑留された)です。 彼は「日本軍には防御なし」というのです。そうして、「防御の任務なんか与えておった日には、日本軍隊の士気に関係する」というわけでどうしても承知しない。なんぼ交渉しても「直すこと相ならん」というから、「あの計画で作戦ができるかできんか図上でやってみよう。関東軍の幕僚をもってソビエト軍を編成するから、参謀本部の作戦関係のものは日本軍を担当して、図上でいくさをしてみよう」といったのです。そうしたら富永恭次をはじめ作戦関係のものが大挙してやってきました。そこで私はソビエト軍の指揮官になってやろうとしたら、富永がきかんのです。「自分らは演習にきたんじゃない、関東軍の作戦課が日本軍を担当して、関東軍の情報課がソビエ卜軍を担当して、遠藤が統裁してやってみてくれ」という。「それじゃだめだ、いくら私が公正にやっても、日本軍が負けたら、遠藤は自分の説を通すために負けさしたんだということになるからだめだ」と断わりました。しかしどうしてもきかんし、梅津美治郎軍司令官(のち大将、戦犯として刑死)も「われわれもみているのだから、君、統裁してやってくれ」というのでやったところが、まったく徹底的に日本軍の敗北ですよ。
 ―― それは何年ですか。
 遠藤 十五年〔一九四〇〕の初頭です。日本軍の大部分は中国に行っているでしよう。満州にもってこようと思ったって、山海関を通って汽車でくるか、大連か、釜山か仁川あたりに船でくるほかないが、すぐ見つかっちゃう。だからソ満国境に行くまでにみんなやられちゃって、関東軍のほうがさんざんに負けちゃったのです。そうしたら富永恭次は何もいわずに帰っていって、それから一週間もたたんうちに、人事のほうの責任の部長、神田少将(正種。のち中将で師団長)が――これは参謀本部の総務部長をしておったのですが――関東軍にきました よ。そうして私と飯村参謀長と軍司令官と三人だけに内密に話がある、実は遠藤少将をもらいにきたというのです。
 これから航空が大事だから、航空に転じていただくことになったというわけです。私は航空は素人だし、行ったってなにもできゃせんし、関東軍の参謀副長ならできるという確信があるからそれはやめてほしい、というたのだけれども、どうしても聞かずにもらわれたが、なにも要職につけるんじゃありゃせん。浜松の飛行学校付仰せつけられるというので、また出戻りというわけです。昭和十五年三月のことです。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・8・24

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でっかいのを二機、具合は好調だ(木村准尉)

2020-08-23 00:06:28 | コラムと名言

◎でっかいのを二機、具合は好調だ(木村准尉)

『航空少年』一九四四年(昭和一九)七月号から、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、一行あけて次のように続く。

 私〔木村定光准尉〕が基地に着陸すると、地上勤務員が、
「戦果はどうですか。」
「飛行機の具合はどうでした。」
と闇の中に闘魂にもえた瞳を輝かして、自分が手塩にかけた愛機の活躍を案じつづけてゐた感情が一時に爆発したやうに走りよつて、口々にたづねるのである。私は地上勤務眞の真心にうたれて胸が一ぱいになつた。
「でつかいのを二機、具合は好調だ。」
と言葉少なく答えて、弾丸と油をたのむと、直ちに別の機に飛び乗つた。
「しつかりたのみますよ」
といふ整備員の声が、発動機の轟音の中から私の胸をうつ。私は整備員の真心に感謝しながら、まつしぐらにもとの決戦場に引きかへした。
 決戦の空一ぱいに放射された照空燈の光芒が交叉したなと思ふと確実に敵機を捕へて離さない。一機、二機三機と真白に機体を輝かせてのたうちまはる間を、友軍機が物凄い速力で飛びかひながら喰ひ下つてゐる。
 アツ、しめた!
 私は思はず叫んだ。光芒の焦点が、ぐーつと下つて、さつと焦点を解いた瞬間、紅連〈グレン〉の焔の一線が大地に向って描かれていく。見事に僚機が討ちとめた敵の巨体の最期である。
 敵機は大編隊を組まずに、一機、二機、三機とばらばらになつて数分おきに波のやうにせまつてくるのである。
 私は再び照空燈が捕へたB29とおぼしい奴に喰ひ下つた。一撃でと心ははやるが敵もさるものである。逃げよう逃げようと必死になつてゐるのが、はつきりとわかる。私は繰返し繰返しこれに猛攻を加へて、つひに尾部に必中弾をたたきこむことができた。
 その時また私は弾丸をうちつくしてゐるのに気づいた。私は傷いた奴の最後を見届けるいとまがなかつた。大急ぎで基地に帰ると、整備員が真心こめて準備しておいてくれた愛機に乗りうつつて三度目の攻撃に舞ひ上つた。
 その頃はもう夢中で、ただ敵機につかみかかつた。最後にわたりあつた奴は必中弾に大破したらしい。ふらふらとしながら闇の玄海灘に向つて次第次第に高度をさげて行つた。
 敵機の来襲がやんでほつとした時、東の空には下弦の月がかかつてゐた。激闘〇時間であつたが、 私には十分か十五分位のやうにしか思はれなかつた。機首を基地にむけた私の頭に感深く残るのは、やさしい部隊長殿の厳とした地上からの無電指揮のお言葉であつた。私は部隊長殿と同乗して戦つてゐるやうな感じで戦つた。
 基地に帰つて、みんな無事な顔を見合はせたときの感激、敵の爆弾による被害が極めて軽微だつたといふ情報に接した時の安心、私は初めての実戦に加はつた者の一人として全く感無量である。
 今度の戦果は全く部隊長殿を中心に全隊の協力によつてあがつたのであつて、特別に恩賞をいただいたことは全く勿体ないことだと思つてゐる。
 今や米英の反攻作戦は、欧州においては北フランス上陸となり、これと同時に開始された敵米の太平洋中央突破作戦と支那大陸よりする航空進攻作戦が極めて活潑に開始されつつあるのである。
 太平洋の敵は物量をたのんで、だんだんと野望を達し、すでに内南洋のサイパン島までもその魔手をのばしてきたのである。
 支那においては、零陵、桂林、衡陽をはじめ、広大な地域の到るところに大小無数の飛行場を作り、これに彼等が新鋭を誇るカーチスP40、ノースアメリカンP51、ロツキードP38、リパブリツクP40などの戦闘機を配して、在支皇軍に対し、積極的な攻勢に出てきてゐる。また今度やつてきたボーイングB29やコンソリデーテツドB24などの新鋭機の数を増し、大陸よりのわが本土空襲の機会をねらつてゐるのである。
 今度の来襲などは、その小手しらべと見ることができると思ふ。これからもたびたび来襲するであらうことは覚悟しなければならない。今度ぐらゐの打撃で参る米鬼ではないといふことを、われわれははつきりと認識して「敵機来るなら来い」の構へをもつて、技倆をねり、我が無敵戦闘機の偉力を最大限に発揮し米英撃滅のため大いにがんばりたいと思つてゐる。
 語り終ると准尉は腕時計をちらつと見て、もう食事の時間ですからといつて、飛行帽を片手に兵舎に帰つて行かれた。勲をほこらぬ日本武士の美しい姿を私はいつまでも見送つた。

 木村定光准尉が操縦していた飛行機の機種は、機密とされたようだ。インターネット情報によれば、二式複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)だったという。
 同じく、インターネット情報によれば、木村定光准尉は、1915年(大正4)8月19日生まれ。1945年(昭和20)3月27日、武功章授与。同年5月8日、少尉に特進。同年7月14日に戦死し、中尉に特進したという(カモメとウツボのメクルメク戦史対談)。

*このブログの人気記事 2020・8・23

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私は初めて、こいつがB29であることに気づいた(木村准尉)

2020-08-22 03:07:49 | コラムと名言

◎私は初めて、こいつがB29であることに気づいた(木村准尉)

『航空少年』一九四四年(昭和一九)七月号から、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介している。本日は、その三回目。

  出 撃
 飛行場は闇の中に嵐の前の静かな時がすぎた。この静けさを破つて、部隊長殿の厳として力強い「出撃」の命令が下された。
 調子のよいプロペラの轟音が、一時に飛行場を圧した。一機、二機、三機と漆黒の闇をついて敵機をもとめ、爆音高らかに離陸する僚機のあとを追つて、私〔木村定光准尉〕はぐつと操縦桿を握りしめた。
  激 闘
 漆黒の大地を蹴つて星空に上昇する僚機の尾翼燈が流星のやうに敵機をもとめて進む。
 その時である。さつと放たれた数条の照空燈の光芒は、美事に敵の巨体を捕へてゐるではないか。
 一番機、二番機はもう敵の巨体に肉迫して必中の猛射をあびせてゐる。地上制空部隊の十字砲火の弾幕の中に、敵味方入り乱れての曳光弾が交錯ずる中で、対空照射に捕へられ逃れようとしてのたうちまはつてゐる敵の編隊長機らしく思はれる馬鹿でつかい奴を私は発見した。
〝こいつ逃してなるものか〟とつさに私は操縦桿をぐつと倒して、下から下からと突込みながら肉迫して行つた。小癪にも敵機は防禦砲火の火ぶたをきつて盛にうちまくつてきたが、何の!と思ひきつて二三十米位まで肉迫した。私の視界が、照空燈に照らされた敵の巨体におほはれて、一面に真白になつた。敵が体当りを恐れて急に上昇したのである。その瞬間すかさず敵の胴腹〈ドウバラ〉目がけで必中弾をたたきつけた。確に手ごたへがあつた。馬鹿でつかい奴が、がくりとのたうつたと思ふと、ふらふらと機首を下げてきりもみの状態になつて落ちていく。その時ちらりと目に入つた一枚翅〈イチマイバネ〉の尾翼、私ははじめてこいつがB29であることに気づいた。
 米空軍の虎の子、超空の要塞!畜生!こいつに皇土を爆撃させてなるものか。私はほつとしてぐつと機首を転ずると、まさに爆撃を行はうとして旋回を始めた他の一機が目にとまつた。
〝何を小癪な!〟とまつしぐらにこれに肉迫した。今は敵機の猛射も、味方高射砲の作裂も恐しいといふ感じは全然ない。ただ、
〝こいつの爆弾で神州をけがさせてなるものか〟
といふ一念のみである。
 弾丸の中をぐぐつて、ぐつと喰ひ下り、後尾へまはつて、ダダツと連射をあびせた。これを知つた敵は巨体に似合はぬすばらしい操縦性能を発揮して、ぐつと急上昇をはじめた。
 何をつ!
と私は夢中で発射ボタンを押した。
 命中、まさに天祐である。敵機の翼の中央から、もくもくと白煙が噴きだし初めた。敵は私の攻撃をさけようとして、必死の旋回上昇を続ける。〝糞ツ〟どこまでも喰ひ下つて撃ちまくつた。
 この時、惜しいかな私の機は弾丸が尽きさうになつた。しかしこのまま逃すのは残念だ!もはや一刻の猶予もない。最後の止めは体当りでと決心して、猛然と飛びかかつてうちまくつた最後の一撃が効を奏して、つひにこれを討ちとることができた。
 それから私は弾丸補給のために大急ぎで基地に帰つた。【以下、次回】

 出撃前に、木村准尉は、敵の編隊が、ボーイングB29およびコンソリデーテツドB24からなることを知らされていたはずである。前者は尾翼が一枚、後者は尾翼が二枚。きりもみ状態になって墜落してゆく敵機の尾翼を見て、木村准尉は、この敵機がB29であったことに気づいたのであろう。

*このブログの人気記事 2020・8・22

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