礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

17時半、無気味な警戒警報が鳴り響いた(1944・6・15)

2020-08-21 00:51:04 | コラムと名言

◎17時半、無気味な警戒警報が鳴り響いた(1944・6・15)

『航空少年』一九四四年(昭和一九)七月号から、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介している。本日は、その二回目。

  木村准尉は語る
 無気味な警戒警報のサイレンが鳴り響いたのは、六月十五日の十七時半である。われわれは部隊長殿の命一下、いつでも戦闘ができるやうな配備について、待機してゐた。
 真赤にもえた太陽が、ぼうつと霞んだ山の端〈ハ〉に沈むと、飛行場の隅々から夕闇がせまつてきて、あらゆるものを闇一色に包んだ。
 田圃〈タンボ〉越しに見える農家の夕凉みの燈火も、町のあかりも全く管制されて、ただ大空にまたたく星のみが、刻一刻とその影を増してゐる。
 私はふと真赤な太陽の光に機体を輝かして、支那大陸を一路東に進攻してくる憎むべき米機の大編隊を心に描いた。
 彼等は支那大陸のあちらこちらに大きな飛行場を作って、太平洋中央突破の作戦と呼応して、折あらばわが本土を急襲して、大東亜建設の大事業を挫折させてやらうと企ててゐるのである。この野望を果すために、コンソリ〔コンソリデーテツド〕のB24やアメリカ空軍の虎の子である超空の要塞ボーイングB29などを大量に空輸して、在支米軍の充実をはかつてゐるといふ情報は、しばしば耳にしたところである。
〝いよいよ来るか米鬼奴〈メ〉〟
 私はじつと星空を仰いで攻撃の方法を考へた。何ともいへない闘志が身体中にむらむらとわき上つてくるのをおぼえる。
  敵 機 来 る
 我が精鋭なる防空監視哨の活躍が、敵機を捕へた。
「敵重爆〇〇、高度〇〇、〇〇の方向に向つて〇〇上空通過」
 確実な敵機来襲の情報である。
 部隊長殿は、われもわれもと出撃を希望する荒驚の中から、その一部に出動準備を命じられた。
 私は幸にその第一陣に加はることができた。私の同期生の幾人かは、苛烈なる南方空の決戦場で華華しく戦ひ、米英空軍の心肝を寒からしめて、雲染む屍と散つてゐるのである。私は内地防衛部隊に配属されたために、一刻も早く第一線にたつて、敵撃滅の血戦に参 加したいと念じながらも、今日までひたすらに若鷲を育てる仕事を続けてきたのである。
 今日こそ日頃の望みがかなつて敵機の胴腹〈ドウバラ〉に日頃手練〈テレン〉の巨弾を打ちこむことができるのである。〝南方に散つた戦友の仇〈カタキ〉を討つのは今だ〟私は心に期して、愛機の点検をすまし、出撃の命令をまつた。【以下、次回】

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『航空少年』誌、B29撃墜の木村定光准尉を取材

2020-08-20 00:17:23 | コラムと名言

◎『航空少年』誌、B29撃墜の木村定光准尉を取材

 先日、某古書展の古書目録を見て、『航空少年』のバックナンバー三冊を入手した。
 そのうちの一冊、昭和十九年(一九四四)七月号には、B29初撃墜に関する記事がいくつも載っており、貴重な史料だと思った。
 本日は、それらの記事のうち、「B29撃墜の勇士を訪ふ」という記事を紹介してみたい。

殊動の〇〇飛行部隊に
 B29撃墜の勇士を訪ふ     航空少年特派記者  加 藤 芝

  一路北九州へ
 「大本営発表(昭和十九年六月十六日八時)
 本十六日二時頃支那方面よりB29及B24廿機内外北九州地方に来襲せり。我が制空部隊は直ちに邀撃〈ヨウゲキ〉し、その数機を撃墜これを撃退せり。我が方の損害は極めて軽微なり。」
といふ発表をきいた記者は、早速B29撃墜の現場を訪ふ〈オトナウ〉べく、とるものもとりあへず鹿児島行の急行列車に飛び乗つた。
 関門トンネルを越えると、汽車は北九州の工業地帯を一直線に走るのである。損害極めて軽微といつても、米空軍自慢のB29とB24 が暴れまはつたあとである。生々しい爆撃のあとがきつと車窓からも見られるであらうなどと想像した私の期待は全く裏切られた。
 火災のあとも、爆弾のあとも全く見ることはできない。敵がねらつたといはれる八幡〈ヤハタ〉の製鉄所はいつもとかはらず溶鉱炉一ぱいに、敵撃滅の鉄を熔かし続けてゐるのであらう。林立する煙突からは、どす黒い煙がもうもうと力強く立昇つてゐる。野も山も美しい初夏の緑におほはれて田圃〈タンボ〉の畔道〈アゼミチ〉のほとりに咲く月見草が、田植に精出すお百姓のかひがひしい姿と共に美しい。
 博多に下車した私は、早速西部軍司令部を訪れて、敵機来襲に際して、わが精強なる制空部隊と鉄壁の民防空陣が全く一つになつてのたくましい防空活動の模様を伺ふとともに、撃墜現場視察についての御指示をいただいた。
 なほ特別の御心づくしによつて〇〇にある敵撃滅の殊動に輝く〇〇飛行部隊を訪れることを許されたのである。
 現地の視祭を終へた私は、〇日早朝、〇〇部隊の、営門をくぐつた。この部隊の部隊長は、本誌でおなじみの航空本部の森正光少佐 と同期の方である。
 衛兵に案内されて、飛行場のピストにいくと、部隊長殿は布張りの椅子にどつかりと腰を下して、今着陸した愛機から走り出た荒鷲 から、演習の情況についての報告をきいてをられた。
 私が隊長殿の前に立つて、来意を告げ、この度の戦果について御礼と御祝とを申し上げると、
「遠いところ御苦労、まあかけたまへ」
と側の椅子を引よせて下さる。そして飛行場にずらりと並べられた新鋭戦闘機を指さされながら、
「これがみな、あの夜活躍した飛行機だ。発動機に一つ敵弾のかすりきずを受けたのがあつたが、あとは全部無傷だつたよ。」 
と満足さうに語られる。
 私は感謝の気持をこめてもい一度、一機一機のたくましい翼を注視した。
「わしの部隊は、御覧の通りの猛訓練だ。実戦と演習との区別はない。だから兵は、今度の戦闘でも非常に楽な気持で戦つたわけだ。みんな目標の大きいのがきたので演習の時より面白かつたといつてゐるよ……。ここにゐるのはみなあの晩の勇士達だ。(ピストの中に居並ぶ飛行服姿のりりしい荒鷲たちを指しながら)小林大尉、佐々大尉、板倉中尉、山下中尉、小林准尉、それから少年飛行兵出身では第一期出の樫出〔勇〕中尉、五期の内田曹長、六期の野辺軍曹をはじめ十三期まで合はせると〇〇名以上ゐる筈だ。何れも一機(騎)当千の猛者揃ひだよ。
 今日も見られる通りの猛訓練だ。訓練のあひまを見て、実戦の模様などを聞くことはいろいろ参考になるだらう。」
とピストの中で勇士達との会話を特にお許し下さつた。
 陸から空へ、空から陸へ!調子のよい発動機の爆音は飛行場をうづめて、見敵必墜の猛訓練はたえまなく続く。
 折からぼーつと霞んだ大空からぐつと機首を下げて鮮やかな着陸をし、演習を終へてピストに帰ったのはB29撃墜の殊勲者、木村准尉である。
 私は安倍部隊長殿のかたはらで功をほこらぬ木村准尉の遠慮勝〈エンリョガチ〉な言葉を通して次のやうな生々しい初陣〈ウイジン〉の体験談を伺つたのである。【以下、次回】

 若干、注釈する。木村准尉のフルネームは木村定光(きむら・さだみつ)、所属は、飛行第四戦隊(山口県小月飛行場)である(インターネット情報による)。
 航空少年特派記者の加藤芝は、一九四四年(昭和一九)六月一六日午前八時の大本営発表を聞き、すぐに北九州へ向かったという。この当時、東京駅発・鹿児島駅行きの急行は、午前8時30発の「1番」列車のみ。おそらく加藤記者は、一七日のこの列車に乗ったのであろう。
 翌一八日午前11時30分、博多駅下車。福岡市城内の西部軍司令部を訪れ、撃墜現場視察の指示を受ける。同時に飛行第四戦隊取材の許可を得たものと思われる。ちなみに、B29の撃墜現場は、若松市浅川の山中であった。一八日午後は、この撃墜現場で、B29の残骸を撮影。加藤記者が下関市小月(おづき)の飛行第四戦隊を訪れ、木村准尉に面会したのは、たぶん、一九日午前中だったと思われる。

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「時には芸術気分」僅椒亭余白さんのブログより

2020-08-19 01:53:23 | コラムと名言

◎「時には芸術気分」僅椒亭余白さんのブログより

 今月一六日、gooブログ仲間の僅椒亭余白(きんしょうてい・よはく)さんが、そのブログ「興趣つきぬ日々」で、拙著を紹介してくださいました。承諾をいただきましたので、本日は、その紹介文を転載いたします。ただし、同ブログの興趣あふれるレイアウトは、再現できませんでした。

『独学文章術』(礫川全次氏)
 2020-08-16 時には芸術気分

 きょうは本を一冊ご紹介します。

『独学文章術 ― 名文をまねて上達する』
 礫川全次(こいしかわ ぜんじ)著/日本実業出版社刊

「簡潔でわかりやすい文章、おもしろくて為になる文章、思わずマネしたくなる文章」を書くにはどうすればよいのか。
本書は、在野史家で著書も多い礫川全次(こいしかわ ぜんじ)氏が、近現代の作家・文筆家の名文を文例として引用しながら、文章上達のコツを説いた一冊です。

 シンプルで平易な名文を味わう(山本有三)(括弧内は文例)
 音読に堪える文章を書こう(尾股惣司)
 明確なメッセージを発しよう(伊丹万作)
 難しい理論でもわかりやすく説く(三浦つとむ、吉本隆明)
 時を超えて胸を打つ文章がある(「裁断橋擬宝珠の銘文」)

など、どの項も切り口が明快で、解説も具体的でわかりやすい。

といって、本書は単なるハウツー書ではありません。
採りあげた文例の背景やエピソードが語られ、文例以外にも名文筆家たちの残した「文章術に関する名言」が随所にちりばめられています。

著者の関心の広さと豊富な読書量を窺い知ることのできる、おもしろい読み物といってよいでしょう。

ところで、著者は「ブログも文章修行の場になる」とも述べています。

「不特定多数の読者の眼に、自分の文章をさらす緊張感」がよいとのこと。これはわたしもブロガーの端くれとして実感があり、共感するところ。
本書を、文章上達を目指す人たちに広くお薦めします。

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作者の気持ちはどう書かれているか(尾崎光弘)

2020-08-18 00:07:53 | コラムと名言

◎作者の気持ちはどう書かれているか(尾崎光弘)

 今月一三日に、尾崎光弘さんの拙著に対する書評を掲載しました。その後、尾崎さんから、次のような文章をいただきましたので、本日は、これを紹介します。
 前回の書評の最後のほうで尾崎さんは、「読んでいるうちに静かに沁みてくるような書き方をするにはどう書けばいいのか。ここが知りたいのです。」と書かれていました。今回の尾崎さんの文章は、この問題について、吉本隆明の方法を用いて、「謎解き」をおこなったものと拝察しました。
 以下、すべて尾崎さんの文章。文中、一行アキは、原文のまま。

     作者の気持ちはどう書かれているか
──山本有三「ミタカの思い出」(三鷹市報 1965)──
                        尾崎 光弘
はじめに
 文章術の基本は自分の気持ちを表現することだ、というならば、書き手は自分の気持をどう書いているのかを学ぶ必要があるのではないか。名文を学ぶ対象にするならば、名文たるゆえんがどこにどう書かれているのかを学ぶ必要がある。こう思ったのが、先だってのような疑問になりました。「名文たるゆえんが名文のどこにどう書かれているのか」を調べる方法について、私はおひと方の方法しか知りません。ご著書の第22講「短歌にとって美とはなにか」で取り上げておられた、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の解説を書いた吉本隆明さんの方法です。「解説」ではこう説かれていました。
 ≪作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の<転換>が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、<場面>、<撰択>、<転換>、<喩>の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。≫(272頁 下線は引用者)
 この四つの要素は、原著の『言語にとって美とはなにか』では「韻律・選択・転換・喩」(下線同前)と、先頭が違っていますが、趣旨は同じだと思います。韻律は、日本語の場合は音数律の問題になりますので、散文ならばその影響を低めに考えて<韻律>の代りに<場面>と置き換えて紹介したほうがいい、という配慮があったのではないかと思います。
 とはいいながら、この四つの方法を自分で使って「言語芸術」の成り立つ仕組みを書いてみたことは一度もありません。しかし、今回は自分でやってみることが必要だと思い、メモを取っておいたので、二、三日で片付くとおもったのですが、今日になってしまいました。その際の「手がかり」が、「たとえてみれば」として、『言語にとって美とは何か』第Ⅲ章の末尾(改訂新版の文庫本158~159頁)に書かれていなかったら、たとえ頓珍漢な分析であっても、書いてみることはできなかったのではないかと思います。
 以下の文章がそうですが、ご著書の解釈を鵜呑みにしてはいけないと思い、これを精読したうえで、その際出てきた二つの疑問を説くような形でアプローチしてみました。一つは、山本有三はなぜ自宅の接収解除(1951)がなされたのに、三鷹に戻らなかったのか。二つは三鷹をなぜミタカと書いたのかという疑問です。その結果、ご著書の解釈とは異なった山本有三の気持ちが浮き彫りになってしまいました。まあ半端な謎解きですが、今回はこの程度で良しとします。では始めます。

(1)場面の撰択
 ≪ 私がミタカ村に越したのは、二・二六事件の直後であった。その翌年に日支事変がおこり、その三年後に、ミタカは町になった。≫(第一段落)

 作者・山本有三は、なぜ小文の冒頭にこの場面を撰択したのでしょうか。
 引っ越し先は三鷹村です。この時代に引っ越しで気に掛けることは、一般に、引っ越し先の御近所の人々とうまく付き合っていけるかどうかでしょう。でも作者はそんなことを気に掛ける様子もなく、自分のそれと二・二六事件(1936)や日支事変(日中戦争)(1937)という当時の日本を揺るがしていた大事件とを結びつけ、次いで三鷹町の発足(1940)を結びつけます。このような場面を冒頭にもってくる理由は、割と分かりやすいと思います。二つ考えられます。
 ミタカ村がまもなく一大軍需工業地帯に変貌し、通勤人口や居住人口が急激に増えて行ったことが挙げられます。これが一つめです。象徴的な出来事は、調布町に飛行場建設の予定があり三鷹町の大沢地区がそこに含まれていたことでしょう。1938(昭13)年12月には買収がはじまり、1941(昭16)4月には「東京調布飛行場」が完成します。すると、同年12月の太平洋戦争開戦と同時に、三鷹の大沢において中島飛行機三鷹研究所の建設が始まります。するとまた、関連する軍需工場や研究施設が周辺に集まり、戦争末期には大小70を超える関連企業があったとされています。つまり三鷹を含む武蔵野地域は一つの系で引きずられたように「一大軍需工業地帯」となったのです。
 作家を取り巻く新生活もそのような周囲の変化を無視することはできなかったのです。それまでは土着の者とよそ者との単純な付き合いだったのが、戦時下向けの隣組のような付き合いが増え、国家の威光をかさにきる者たちに気を配らねばならなくなったのです。
もう一つは、この小文が戦後の1965年の三鷹市制15周年を記念する市報に掲載されたことです。戦後再び三鷹町は人口が増加し、1950年に市制が発足し ていきます。戦後新しく住民になった人々に、この町がかつて村であり、国策の為に急激に人口が増える軍需工業地帯という町であったことを知ってほしいと考えたのだと思われます。

(2)転換
 ≪ 太平洋戦争も、敗戦もミタカの家で迎えた。そういう意味で、ミタカは思い出の深い土地である。私はここで、「新編路傍の石」(1941 岩波書店)を書き、「戦争とふたりの婦人」(1938 岩波書店)を書き、「米百俵」(1943 新潮社)を書いた。新かなづかい、当用漢字の制定、新憲法の口語化にたずさわったのも、この時代のことである。≫(第二段落)

 第一段落の場面に比べ、一段と小さい場面の撰択は何を意味しているのでしょうか。
 1941(昭16)年の真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争と、並行するように拡大した一大軍需産業都市・三鷹町は、戦局の後退に合わせるようにして、次第に空襲に見舞われるようになります。どの家でも防空壕を掘り、空襲警報がなるとみな非難しましたが、空襲によって生き埋めになってしまうこともありました。多摩地区で空襲による死亡者は1500名に達します。しかし、一番つらかったのは食糧の確保です。とくに他所から入ってきた軍需関連工場の人々や、都会からの疎開組は大変でした。戦争が終わってもきびしい暮らしが続きました。
 なのに、です。作家の視線は、犠牲の多かった空襲や空腹の問題に向けるのではなく、自分の戦時下に書いた小説に向いています、なぜでしょうか。作家にとってこちらの方が大事だったからだと思います。どう大事だったのか。
 昭和12年に連載を開始した「路傍の石」は明治中期に貧しい境遇に育った少年がどう生きるかを描いた教養小説です。ですが、軍部の検閲がうるさくて、昭和15年には山本は断筆してしまいます。また「戦争とふたりの婦人」(1938)は、アメリカ南北戦争の時代を生きた二人のアメリカ人女性の伝記的読みものです。戦争下の女性の生き方がテーマになっているそうです。最後の「米百俵」(1943)ですが、これは前半が戯曲、後半が評論になっています。今ではよく知られた戯曲ですが。この本の「はしがき」で、山本はこう書いています。──≪「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々は大声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話であります。しかし、それにも劣らず大事なことは、「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦いぬくためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき大事と信じます≫。
 引用に見え隠れするのは、国民作家としての矜持ではないでしょうか。これがなくては、戦争と人間という大きなテーマで作品化することは難しかったはずです。
 また引用の後半では、敗戦直後(昭和21年頃)には、自分が関与した新しい日本の指針つくりのことを書いています。戦後という新しい時代に国語をどう表記するべきかという、国民一人ひとりに関わってくる問題です。そのため、作家は「振り仮名の廃止」「当用漢字の判定」に知恵を絞りました。また、「新憲法の口語化」では、敗戦後すぐに「国語の平易化運動」を進めていた団体からの建議をきっかけにして、GHQの了承や閣議の了解をえて、ひらがな口語体による憲法改革草案を準備することになりました。口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得たとされています(国会図書館HP)。まさに国民作家の面目躍如だったのではないでしょうか。
 以上が、「太平洋戦争も敗戦もミタカの家で迎えた」国民作家が本気で考えた問題だったと思われます。つまり、小文の第二段落における展開は、作家の認識の深化であり転換であったことを意味しています。作家による認識の転換は、次の場面の導入によってさらに高度化していきます。しかしその場面は、国民作家の期待を裏切るものでした。

(3)喩
 ≪ しかし、敗戦の結果、私は家を接収され、懐かしいミタカを立ち退かなければならないことになった。私はしばらく他人の家に間借りをしたり、大森に移ったりして、今ではカナガワ県に住んでいる。ミタカが市に昇格したのは、その間のことである。ことしは、その十五周年にあたるというが、もし、家を接収されなかったら、私も市民として、ミタカにとどまっていたことであろう。/ミタカに住んでいたのは十一年ほどだが、ミタカは私にとって、忘れがたい土地である。≫(第三、四段落)

 三鷹に引っ越して以来、戦前から戦後直後までの11年間、戦時下の国民作家としての執筆活動、戦後新国家のために知恵を絞った場所はミタカの家だった。
 度重なる空襲にもかかわらず無事だったことが嬉しい。しかし、敗戦国日本の上に君臨するGHQ権力。ここからの接収命令に逆らうことはできない。空襲で東京は焼野原、そんな場所で次の住まいを探すのは容易ではないばかりか、大家族が一緒に住める住まいをさがすのも大変だ。
 ついに引っ越しの日がやってきた。
 ── 11年ぶりに三鷹を離れて見て、作家は三鷹時代を振り返る。あんなに仕事に没頭したのはなぜだろう。国民のため?国家のため? それもあるとは思うが、本当のところはどうか。平和を求めてきた平凡な人間の信仰のようなものがあったからではないか。
 仕事に没頭しながら、作家はいつのまにかこう考えるようになったのではないか。
 この自慢の家が度々空襲に遭いながら無事だったのは、私が国民のため、新国家のために一生懸命働いた自分への、神様からのご褒美のようなものだ。だからこそ、接収命令はショックだった。青天の霹靂といってもよいほど、接収ということは頭になかった。自分の勝手な思い込みには違いないのだが。不覚にもいつの間にかそう思い込んでしまった。
「勝手な思い込み」といえば、日本の戦争中の指導者の多くがそうだったし、指導された国民大衆も同じだ。自分だけが敗戦国民としての反省から逃れていると思ったら勘違いもいいところだ。
 こう考えたら、もうあの家に戻ることはできない(1951年に接収は解除されたが、山本は戻らなかった)。私も、恥は知っているからだ。では、どうすればいいのであろう。一つ言えるのは、そういう、いい気になっていた自分を忘れないことだ。そうだ、この気持ちをこめた言葉がほしい。みたかでも三鷹でもなく「ミタカ」はどうだろうか。ミタカは、自らの思い込みによっていい気になっていた自分の喩であり、戒めである。
 それゆえ、ミタカは作家にとって、「忘れがたい土地」なのである。

追記
 山本有三は、なぜ三鷹をミタカと表記したのだろうか。思い込みよっていい気になって生きていた自分の像を思い起こせる喩であるからだ。ならばこの小文をしたためるときに住んでいた神奈川県はなぜ、カナガワ県として表記され、接収によって三鷹を出て間もない頃に住んだ大森はなんでカタカナ表記になっていないのか。これが誤植でないとすれば、なにかはっきりした理由があるはずである。(8/14/2020)

*三鷹市の戦時下の様子については、同市の「みたかデジタル平和資料館」とウィキペディアを参照させていただき、また作者山本有三については同じく「山本有三記念館」のHPとウィキペディアを参照させていただきました。記してお礼申し上げます。

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晴天の空が灰色に塗り潰された(1945・8・9)

2020-08-17 01:00:00 | コラムと名言

◎晴天の空が灰色に塗り潰された(1945・8・9)

『日本憲兵正史』から、第三編第二章「憲兵の服務」にある「広島及び長崎へ原爆投下と憲兵」という記事を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

二、長崎地区憲兵隊
 広島の被爆状況は、その夜までに長崎地区憲兵隊にも通報された。当時、地区隊長は昭和二十年〔一九四五〕四月に赴任して来た柳生香少佐で、隊員は憲兵三十名に、補助憲兵一二〇名で合計一五〇名の編成であった。また、管下の分隊は諫早〈イサハヤ〉、鶏知〈ケチ〉、福江、大村にあった。
長崎地区憲兵隊の任務は、西部九州沿海の防備と、海軍施設や三菱長崎造船所の警備、防諜であった。また、長崎地区空襲時の治安対策や米機搭乗員が高射砲で撃墜されると、直ちに取調べのうえ、福岡の軍司令部へ捕虜として送った。
 八月六日、広島に原爆投下の報伝わるや、長崎県知事や造船所の所長などが、相次いで憲兵隊へ情報を聞きに来るが、柳生少佐にも広島被爆の詳細はわからなかった。だが、柳生少佐はなにより市内の防火準備と密集地の疎開を急がせた。軍隊や憲兵隊の協力指導する強制疎開は、随分強引なものであったが、戦時下の主要都市の住民としてはやむを得なかったろう。もっとも、長崎地区隊本部も柳生少佐が赴任したときは駅付近にあったが、柳生少佐は直ちに、本部を駅から四キロ離れた炉粕町〈ロカスマチ〉の丘陵地帯の奥に移転させた。空襲を受けたとき憲兵が全滅してしまっては、治安維持のうえからも好ましくないとの判断であった。結果的には、この処置が適切であったことを、原爆によって思い知らされることになる。
 八月八日、ソ連の参戦に軍部は激怒したが、もう遅い。外交というものを知らな過ぎた。そして八月九日、この日は午前中から米軍機が長崎上空に飛来し、邀撃〈ヨウゲキ〉の高射砲陣地は猛砲撃を加えていた。
 午前十一時十分頃、鉄筋建物の本部の屋上へあがった柳生少佐は、上空を睨みながら空襲状況を視察した。次に空襲後の任務を命ずるため、隊本部全員に室内への集合を命じた。柳生少佐が二階の隊長室へ入った瞬間、閃光とともに一大音響がして衝立〈ツイタテ〉の下まで飛ばされた。こうして約五分間は人事不省であった。
 柳生少佐がふとわれに返って窓外を見ると、不気味な静けさの中に、晴天のはずの空が一天俄に〈ニワカニ〉曇って、見慣れた付近の山脈が見えない。外は薄暗くあたかも灰色に塗り潰されたようであったという。柳生少佐は最初一トン爆弾の直撃を受けたものと錯覚したくらいであった。しかも、片腕がひりひりと痛む。後で調べてみると、片腕だけ被爆していたのである。その他、体の部分はコンクリート壁の蔭になって原爆の直射を免れ、危うく軽傷ですんだのであった。
 柳生少佐はまず部下を呼んだが、返事もなく誰も来ない。そこで隣室から各部屋を回わって降りると、どこも負傷者で、若い女性タイピストも血だらけであった。さらに表を見ると、県庁の方角から猛火があがり、あちこちで黒煙がもくもくと薄暗い空にのぼり始めた。
 柳生少佐が隊本部の状況を調べると、隊員は幸い負傷者のみで死者はなかった。この原因は原爆投下の際、隊本部の建物が山の蔭になって、殆ど直射を免れたからである。この意味でも柳生少佐の隊本部移転は幸運であった。
 さて、隊員を非常呼集した柳生少佐は、まず、柿本憲兵大尉を岡田〔寿吉〕長崎市長の許へ派遣し、消防隊を編成して出動させ、軍艦島〔端島〕の軍需工場へ伝令を派遣して応援を依頼した。
 こうして、長崎地区隊は各地の分隊および分遣隊の協力を得て、死者の始末、負傷者の手当、焼跡の整理に懸命の努力をつづけた。被爆時の長崎において、憲兵隊が殆ど無傷で残ったことは、市民にとって幸いであったろう。だが、憲兵のこれほどの努力も、すでに忘却の彼方にあって歴史にも残されてはいない。

*このブログの人気記事 2020・8・17

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