◎時枝誠記と小林英夫
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十 国語学原論」を紹介している。本日は、その三回目。
二
時枝誠記博士は全生涯におけるすべての著書論文を通じて、言語とはいったい何であるかを考究された。それは私にはかの哲学者西田幾多郎〈キタロウ〉博士が私たちの自己とはいかなるものであるかを問題にしたのを思い起こさせる。よく西田博士門下の哲学者は博士に接してまず感じるのは思想を求めることの激しさであって、この激しさは博土がいつも何ものかに駆り立てられて思索していることを示すものであるという。そういえば国語学者で時枝博士くらい常に何ものかに駆り立てられるように思索していく学者を知らないので、私はここで両者を照らし合わせて考えてみたいと思う。
さて時枝博士の『国語学原論』は第一篇総論、第二篇各論から成る。総論は一言語研究の態度、二言語研究の対象、三対象の把握と解釈作業、四言語に対する主体的立場と観察的立場、五言語の存在条件としての主体、場面及び素材、六フェルディナン・ド・ソシュールの言語理論に対する批判、七言語構成観より言語過程観へ、八言語の構成的要素 言語の過程的段階、九言語による理解と言語の鑑賞、一〇言語の社会性、一一国語及び日本語の概念、一二言語の史的認識と変化の主体としての「言語」の概念に分かれ、フェルディナン・ド・ソシュール〔Ferdinand de Saussure〕の言語理論を批判するという形で、博士独自の言語本質観である言語過程説の立場を説明する。ついで各論は第一章音声論、第二章文字論、第三章文法論、第四章意味論、第五章敬語論、第六章国語美論に分かれ、言語過程説の立場から国語の諸事実を説明しているのである。それは『国語学原論続篇』が『国語学原論』以後の時枝博士の言語過程説の発展を体系的にまとめたものといいながら、第一篇総論が一『国語学原論正篇』の概要と『続篇』への発展、二言語過程説の基本的な考へ方、三言語過程説における言語研究の方法に分かれ、第二篇各篇が第一章言語による思想の伝達、第二章言語の機能、第三章言語と文学、第四章言語と生活、第五章言語と社会及び言語の社会性、第六章言語史を形成するものに分 かれていて全く組織が違うのである。では時枝博士自身日本の六百年の伝統的な国語研究の中に潜んでいるものを育てて言語過程説と名づけ、これを近代的な言語理論に組み替え学問的に体系立てた『国語学原論』はどのようにしてまとめられたのであろうか。それにつき時枝博士が『国語学原論』を書いていかれる頃、身近かにいた言語学者小林英夫博士の「日本におけるソシュールの影響」(「言語」昭和五十三年三月号、特集ソシュール――現代言語学の原点)という文章を見たい。小林博士はこの中で橋本進吉博士がソシュールの学説に異常な興味を示し橋本博士の学説にソシュールのそれが色濃く出ていることをいわれ、
《いま引合いに出した時枝氏がアンチソシューリアンであることは天下周知のことにぞくする。しかしこれこそもっとも深刻なソシュール学の影響と見て見られないことはないのだ。
わたしの京城帝大赴任は一九二九年〔昭和四〕春のことであるが、一年前に赴任された時枝氏は当時ヨーロッパに留学中であり、その秋にもどられて、わたしは久しぶりに再会したのである。というのも東大生時代いっしょに金田一〔京助〕講師のアイヌ語学のクラスに出ていたので旧知だったからである。
時枝君は帰来、熱心にソシュールを勉強した。そしてそれをうのみにせず、合点のいかない点はあくまでも究明せずにはおかなかった。研究室が近かったので、ほとんど毎週一・二度はわたしの部屋へ見え、議論を吹っかけた。そしてその議論の末が必ず論文となって現われるのであった。あの『国語学原論』は、よくみれば一貫した成書ではなく、いくつかの論文の集成に外ならぬのだが、その一つ一つは必ずわたしとの議論の末になるものであった。かれの有名な言語過程説の解説や批判を今ここでおこなうつもりはない。ただここで明らかにしておきたいことは、それの出産の秘密である。結果においてたとえ消極的であろうとも、右の意味で、かれもまたソシュールの影響下にあることは認めざるをえないところである。
ただかれのソシュール理解なるものは、多くのばあい『原論』〔ソシュール『一般言語学講義』〕の初めの数章を読んでえた印象をもとにして成立したものであり、けっして全巻を読破した上これを構造的に把握して成ったものではないのである。かれは暁星中学の出身ではあったが、大学を出たころはその仏語力の大半を喪失しており、もっばらわたしの訳書〔小林英夫訳『言語学言論』一九二八〕を通じて泰西の言語学説を吸収することを努めていたようである。》
と述べておられる。小林博士は論文「文体論」を京都大学に提出して学位を取った人であるが、これは晩年の文章であるためかまことに鈍いというか味気ない文章である。私は日本の学者は自分でものを考えていくタイプの人は少ないが、時枝博士はその少ない学者の一人であると考える。したがって、この『国語学原論』がいくつかの論文の集成などとは考えない。そういう意味で『国語学原論』は非常に重要な書であると思う。西田博士の高弟下村寅太郎博士の『若き西田幾多郎先生――『善の研究』の成立前後――」(昭和二十二年〔2〕)をひもとくと、西田博士の最初の体系的著作である『善の研究』(明治四十四年)が金沢という北国の辺陬〈ヘンスウ〉において、不遇な高等学校の一教師によって成ったことの意義を高く評価していられるが、時枝博士の『国語学原論』も決して学問研究に最も有利な中央の学界において成立したのではなく、朝鮮の京城の地において若い一人の国語学徒によって成った。博士はただ一人で思索するよりほかなかったのであるが、そうはいっても近代の学問は単に一人の強靭な思索力だけでは形成されるものでなく、やはり近代の学問の成果を身につけなければならない。そのためには西欧の学術書を読破しその内容を把握しなければな らなかったのであるが、時枝博士はその方面を恰好〈カッコウ〉の小林博士に俟ったのであろう。とにかく学問の中心から遠く離れた地でただ一人思索を専らにして、「文の解釈上より見た助詞助動詞」(「文学」昭和十二年三月)、「心的過程としての言語本質観」 (「文学」昭和十二年六月、七月)、「語の形式的接続と意味的接続」(「国語と国文学」昭和十二年八月号)、「文の概念について」(「国語と国文学」昭和十二年十一月、十二月号)、「言語過程に於ける美的形式について」(「文学」昭和十二年十一月、昭和十三年一月)、「言語に於ける場面の制約について」(「国語と国文学」昭和十三年五月号)、「場面と敬辞法との機能的関係について」(「国語と国文学」昭和十三年六月号)、「菊沢季生氏に答へて」(「国語と国文学」昭和十三年九月号)、「国語のリズム研究上の諸問題」(「国語・国文」昭和十三年十月)、「敬語法及び敬辞法の研究」(京城大学文学会論纂第八輯『語文論叢』所収、昭和十四年二月)、「言語に於ける単位と単語について」(「文学」昭和十四年三月)、「国語学と国語の価値及び技術論」(「国語と国文学」昭和十五年二月号)、「懸詞の語学的考察とその表現美」(『安藤教授還暦祝賀記念論文集』昭和十五年二月)、「言語に対する二の立場――主体的立場と観察的立場――」(「コトバ」昭和十五年七月)、「言語の存在条件――主体、場面、素材――」(「文学」昭和十六年一月)というように多くの論文を次々と書き進めていかれたのである。これらの論文は問題へのさぐりの入れ方、解答にまで導くそのいき方にいささか強引性急なものがありはするけれども、そこにまた時枝博士の国語学徒らしい熱情的なものがあり、ここに『国語学原論』のなまなましい源泉を見ることができるのである。【以下、次回】
〔2〕下村寅太郎博士は明治三十五年〔一九〇二〕生まれ、第三高等学校から京都大学哲学科に進まれた。時は西田幾多郎博士、田辺元〈ハジメ〉博士と続く京都学派の全盛期であった。のち東京文理科大学助教授を経て教授になった。私〔根来司〕は在学中西洋哲学史の講義を聞いた。博士の処女作は西哲叢書の一冊『ライプニッツ』(昭和十三年)であり、続いて『科学史の哲学』(昭和十六年)を書かれたが、これが出世作となり、『無限論の形成と構造』(昭和十九年)で学位をえた。昭和四十六年『ルネッサンスの芸術家』(昭和四十四年)で日本学士院賞を受けられた。その後も老いを知らぬかのように、『モナ・リザ論考』(昭和四十九年)、『ブルクハルトの世界』(昭和五十八年)など名著が相次ぐ。畏るべきことである。
注〔2〕は、「第十 国語学原論」の最後に置かれていたが、便宜上、ここに置いた。