◎時枝誠記「国語学史」(岩波講座、1932)とその意義
根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「Ⅱ」の第九「国語学史」を紹介している。本日は、その二回目。
さて、ここに掲げた国語学史は明治時代に出版されたものが五冊、大正時代に出版されたものが一冊、あと三十冊は昭和になってから出たものであるが、これらについては一々解説の必要はあまりないようである。国語学史を最初に書いたのは保科孝一〈ホシナ・コウイチ〉氏で、東京大学在学中上田万年〈カズトシ〉博士の学風に傾倒し、国語学史は得意とするところであったか、大学を卒業した翌々年に『国語学小史』(明治三十二年)を公にされている。読み返してみるとこれは国語政策に生涯を捧げた氏の本らしく言文一致体で書かれており、当時学術専門書がこのように口語体であるのは珍しいことであったと思う。
ところで、この『国語学小史』はひとえに恩師の上田博士の指導によるというのであるが、大胆にも第一章総論第一節国語学史研究の目的の中で、「過去に於ける我邦の言語研究は、殆んど今日の言語学上に貢献すべき結果なしと言って宜からうと思ふ。」といい、わが国において独自に発達した国語研究がなぜ見るに足るものがないかを述べておられる。その理由の第一はわが国の過去の学者の中に科学的知識を持った者が少なかったから国語研究には非科学的なものが多く、国語の理論的方面すなわち科学的研究が微々として振わなかった。第二は過去の学者が研究するにあたって対象としたのは専ら和歌で、和歌を唯一の材料とし方言、俗語などを無視して、研究の対象が国語のわずか一部分に過ぎなかったので見るべきものがなかった。第三はわが国の過去の学者があまりに自尊心が強かったために国語の研究においても必要な比較研究ということができなかったという。こうしたことは保科氏のどの書にも主張されているが、時枝〔誠記〕博士は日本に独自に発達した国語研究がこのように非科学的なもの無価値なものとして冷遇されているのを知って、岩波講座日本文学『国語学史』(昭和七年)を書かれることになるのである。博士はこの書で従来の国語学史編述の態度は学史をもって現在及び未来における国語研究の出発点を明らかにすることであることを認めつつ、他方、「併し乍ら〈ソカシナガラ〉、国語学史を以て未来を照らす鑑〈カガミ〉とするといふことは、国語学史の当然の結果として生まれて来る処のものであって、国語学史そのものは、必ずしも現在未来に於ける研究の批判若しくは参考として編述せらるべきものではない。此の当然の帰結として生まれて来るものを編述の前提として考へた結果は、更に見逃すことの出来ない欠陥を従来の国語学史の上に残した。現在未来の研究に役立つべきものとしての編述の態度から、過去の研究中その最も役立つべきものを物色するといふことに全力が注がれ、或は過去の研究を批判し、補訂し、現在に役立つものに変改するといふことに努力した。その結果は却つて〈カエッテ〉、過去の研究史は未来を照らす鏡とはならず、それはあるともなくとも、さしたる効果を齎す〈モタラス〉ものでないといふ結論に到達した。かくして国語学史中の研究事項は、その本来の存在価値を歪められ、その自然の発達は寸断せられ、個々別々な不完全な研究の羅列に過ぎないものとなつてしまつた。かくの如き国語学史の与へた処の効果は何であつたか。それは、過去に於ける国語研究の非科学的な事と、そしてその研究の狭隘であることを知るに過ぎなかつたことである。残るものは、在来の国語研究に対する蔑視がその総てであつた。」と述べられる。つまり同じ言語研究でも傾向の違った西洋流の尺度で、わが国独自の国語研究をいいかげんに難ずるのを退けて、第一部序説に一国語研究一般と国語学史との関係、二国語学史編述の態度とその方法、 三注釈語学より見た明治以前国語研究の一特異性を説き、第二部研究史は五期に分けて述べていかれるのである。【以下、次回】