◎鈴木朖の思想は泰西の言語学説の上に出てゐる
根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「Ⅱ」の第四「卒業論文」を紹介している。本日は、その四回目。
ところで、江戸の学者として詞辞の対立を誰よりもはっきりといい切ったのは鈴木朖〈アキラ〉であったので、進んで時枝〔誠記〕博士が朖について説かれた、第五章本居、富士谷両学派ノ融合第一節鈴木朖ノ両学派統一四表現ノ過程トシテノ言語ノ見方の項を見ることにしようと思う。
【中略】
時枝博士は詞辞論はこのように鎌倉時代以来連綿として継承され、江戸時代に至って朖の言語四種論を頂点とするてにをは研究の中から生まれたとされる。そうすると博士の言語過程説に立つと語にはその過程的形式の中に、㈠概念過程を含む形式と㈡概念過程を含まない形式という二つを認めることができる。㈠は表現の素材を客体化し概念化して表現する形式であり、㈡は概念化されない客体化されない、直接的に表現する形式である。そして㈠の過程的形式の語を古くは詞と呼び、朖はこれを物事をさしあらわすものであると説き、㈡の過程的形式の語を古くは辞と呼び、朖はこれを心の声であると説いたということになる。こうして博士は昭和十五年〔一九四〇〕に『国語学史』を書かれ、ついで昭和十六年〔一九四一〕に『国語学原論』を出されたが、ここで博士が『国語学原論』でその概念過程を含むか含まないかによって詞と辞の区別を立てるところをどのように説いていられるかを見たい。第二篇各論第三章文法論二単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎の項を見ると、朖が詞に対しててにをはを対立させていることに対して、「私は今、自己の論理的結論から見て、朖の説を正しとするのではなく、寧ろ、嘗て〈カツテ〉国語学史を調査して朖の学説を吟味した際、彼の到達した思想が、泰西〔西洋〕の言語学説の未だ至り得なかつた上に出てゐることに驚嘆し、そこに啓発されて、ここに論理的に彼の学説の展開を試みたのである。山田孝雄〈ヨシオ〉博士が、朖の説を評して、其の本義は遂に捕捉すること能はざるなりといはれ、心の声とは如何なるものか。思想をあらはす声音の義か、しからばいづれの語か心の声ならざるといはれたのは、語構成観に立つての批評であるが、かくの如き言語観に立つ限り、朖の真意は遂に正当に解釈することは出来ないのである。」と述べて、詞と辞に分けることを単なる語の分類と見做さない朖を高く評価されるのであるが、私はこうした博士のことばに胸のすくような爽快さを覚える。
もちろん今日でも時枝博士の詞辞の論が手爾葉大概抄をはじめとし言語四種論を頂点とするてにをは研究の中に果たして存在していたものであろうかというような疑問を抱く学者がいる。しかし、私は博士の卒業論文を読んでいくうちにこのような学者の考え方は違うと考えた。しばしば述べたように時枝博士は卒業論文で従来国語学史の名によって研究されて来たものを、日本人の言語に対する意識の展開として跡づけようとされたので、これは博士の独創に違いない。日本における国語研究の歴史なかんずく江戸の国語研究は国学に依存した形で発達したが、とくにてにをは研究において自由闊達さを示しているので、博士はこれをできるだけ発展させて理論的に構成しようとして言語過程説を立てられたと思う。いうならば博士は国学の伝統によりつつ言語の正体を思索しようとされたのである。
では現在このような時枝博士の言語理論を称揚する学者はいるのか。たとえば近年哲学者中村雄二郎氏は「問題群としての〈西田幾多郎〉」(「思想」昭和五十八年二月号)という論文を書かれ、さらに「哲学の国際対話のために 第一部〈場所の論理〉と共通感覚 第二部 国際哲学研究機構の招きに応じて」(「世界」昭和五十九年二月号)という国際哲学研究 機構第一回講演会での講演の中で、時枝博士の言語過程説が注目に値すると述べておられる。そこで中村氏は西田博士自身直接には日本語について何も論じていないが、西田博士の〈場所の論理〉が〈日本語の論理〉を体現していることを自分に気づかせてくれたのは時枝博士の言語理論であるという。時枝博士は『国語学原論』以来日本の伝統的な言語理論を踏まえつつ、フェルディナン・ド・ソシュールの言語理論を批判的に摂取して、日本語を通しての最初の本格的な言語理論を構築したが、時枝博士の言語理論の核心をなすのは日本の伝統的な事としての言語の考え方にもとづく言語過程説である。ところで、この言語過程説が西田博士の〈場所の論理〉とつながりをよく示しているの は、言語活動の条件としての〈場面〉という考え方であり、時枝博士が〈場面〉という時それは純客体的世界でもなく純主体的作用でもなく、主客の融合した世界にほかならない。さらにこの〈場面〉の考え方にもまして西田博士の〈場所の論理〉と関わるのは、詞=客体的表現と辞=主体的表現との結びつきでとらえたところで、日本語の文は客体的表現=詞と主体的表現=辞との統一、それは後者によって前者が包まれる統一としてとらえられた点であるという。中村氏はこのようにことばを続けて時枝博士の言語過程説に称讃を惜しまれないのであった。さきを急ごう。【以下、次回】